私たち日本人4人は、モンユワから570キロ北のホマリンまで、ミャンマー北西部を北から南へ流れるチンドゥイン川を船で遡上する、かつての「インパール作戦」において、チンドゥイン川沿いで、戦病死した万を超すとも言われる日本兵の霊を弔う、「チンドゥイン川慰霊の旅」に出た。
2016(平成28)年12月14日午前6時すぎ、一隻の客船をチャーターしてモンユワを出発した。私達日本人一行はNHKエンタープライズディレクター新山賢治、カメラマンの新田義貴、若い田中教伍と私の4人。そして私の通訳として何度か旅を共にした女性のモンさん、それに新山さんの通訳兼現地コーディネーターの50歳代男性チョー・メエツウーさんの合計6人。それに船長と助手が2人の全員9人の乗船である。
モンユワを出発して間もなく、川床の砂利を採取する船が10数艘もいて、早朝から活動していた。川の両側には山などなく平原が続いており、午前6時45分に東の空に太陽が昇り、川面が一段と明るくなった。
午前7時頃、チンドウィン川にかかる唯一の大きな鉄橋の下をくぐった。大陸の大川にかかる橋は、日本では想像もつかないほど巨大な規模だ。
航行の安全を願って舳先に生けた神柴 「タビエ」
船の舳先には、若芽が赤褐色で美しい葉をつけた“タビエ”と呼ばれる神柴が円筒形の筒に数本活けられている。船長によると、航行中の安全祈願のためで、枯れないように毎朝水を注ぎたして世話をするそうだ。
午前11時20分、乾季で水量が少なくなって干上がった、右岸の広い川床の川沿いに、竹やヤシで造った小屋が並ぶ村を見かけた。村人たちは、川から1キロも離れた雨季の村から出て、乾季の臨時の村だそうだ。大陸の大きな川沿いに住む人々の生活の知恵で、広い川床を耕して作物を栽培し、川魚を採って食べる、古来の特徴的な生活様式だそうだ。
これから度々使われる“右岸”と“左岸”の呼称は、国際的慣例で川の上流から見た右側を右岸、左側を左岸とするとされている。
チンドウィン川には、川を下る竹の笩や竹船が多い。ミャンマーの南の方には、節の長い、肉の厚い“ワ”と呼ばれる竹はないので、川下のパガンや遠くヤンゴンまで、1ヶ月も2ヶ月もかけて下って売り払う。この竹はパガン地方の特産の竹かごや漆器の原材料となり、ヤンゴンでは、高い建物を建てる時の足場を組むに必要な建築材になる。
11時41分、川幅500メートルほどの右岸にできた乾季用の村テンドーに接岸した。川面から10メートルも高い斜面に建てた簡易レストランで昼食。広く干上がった白い砂地を見渡しながらいろいろ想像した。
雨季には数キロにも及ぶ大陸の川の異常に変化することを知らなかった、7、8月の雨季に直面した日本の兵隊さんたちは、さぞ困ったことだろう。何より、このチンドウィン川には万を超す日本兵の遺体が沈み、その遺骨は川床の砂となって、今は干上がった白い砂の粒になっているのかもしれない。
昼食後、12時30分に出発した。川沿いにはあまり村は見えない。雨季の増水時には危険なので、川沿いから離れた安全な場所にあるのだろう。
2時30分、右岸の林の中に見えたミンゲン村を通過し、村はずれで水浴びをしたり、洗濯をしたりしている女性や子どもたちがいた。そして、川沿いの干上がった川床を牛に犂を引かせて耕している人がいた。この地方では、乾季の始まる10月下旬から川床を耕し始め、豆類、瓜類、落花生、トマトなどを栽培し、2月から3月には収穫し終わるそうだ。
大陸における農業は、川沿いで始まったとされている。そして、古代において発展した町は大抵大川沿いにあった。それは、雨季に上流から肥沃な土が運ばれ、途中の川床に堆積し、乾季にその川床で作物を栽培し、食料が確保できたからだ。
午後5時15分には、チンドゥインがメンゲン山脈を西から東へと突っ切った、砂岩の岩壁が続く所を通った。川の流れが徐々に浸食した岩壁の間を抜けると、目の前にカレワの町が見えた。
初日の目的地カレワは、北からのチンドゥイン川と西のカレーミョーから流れるメタ川が合流している三角状の台地にある。午後5時22分、無事カレワの接岸地に着いた。