ミャンマー北部探訪㊴ 日本の敗残兵が埋もれたモーライク
12月15日、午前11時過ぎにカレワから北のモーライクへ向かった。
カレワの数キロ川上には、チンドゥイン川に架かる2番目の橋が建設中で、日本の会社もかかわっており、もうかなり工事が進んでいた。
12時36分には、左岸にマセインと言う大きな村が見えた。この村の丘には小さな白いバコダが沢山並んでいた。後で聞いたのだが、この村にも日本軍が駐留していたそうだ。
午後1時半頃、チンドウィン川をゆったりと下っている家形の大きな竹の筏を見かけた。
午後2時20分にはモーライクに着いた。川面から4~50メートルも高くなっている岸辺の階段を上がった所にAKZゲストハウスがあった。我々一行はここに泊まることにした。人口1万ほどのこの町には、ここに勝る宿泊所はなかった。
我々は荷物を部屋に運び込んで、すぐに外に出た。そして、戦争当時にこの地に起ったことを聞くために、70歳以上の老人を捜して歩いた。最初に会ったのが、90歳の老婆、キンタさんだった。彼女は、16、7歳の時、マセイン村に駐屯していた日本兵から習ったそうで、「あなた、ありがとう、村長、娘、かわいい」等の日本語をまだ覚えており、久し振りに会った我々日本人に、懐かし気によくしゃべった。しかし、彼女は結婚してからこの町に来たので、戦争当時のモーライクに関することは何も知らなかった。その彼女に紹介されたのが、モーライク生まれの76歳の老人ウー・タンセンさんであった。
彼は、この町で英語塾を開いている英語の先生であった。「私の幼少年時代の記憶は確かではないので、当時のことをよく知っている女性を紹介する」と言って、彼の家から道を挟んで反対側にある大きな家に案内してくれた。2階に続く木製の階段を音高く踏み鳴らし、大きな声で女性の名前を呼びながら上がった。2階の板の間に、日本人のような、眼鏡をかけた老婆が1人座っていた。
ウーさんが事情を説明してくれ、彼女が当時のことを話してくれることになった。我々は88歳になるドー・ベインチンさんを囲んで座り、チョーさんとモンさんの通訳でインタビューした。
インパール作戦に失敗してこの地に退散してきた日本兵は、傷つき、飢えと病気でひどい状態であった。彼女たちは、初め日本兵たちに食べ物を与え、世話をしていた。しかし、あまりにも数が多くなったことと、悪臭がひどいのとで途中から世話するのを諦めた。彼女の家の近くにビルマ人の医者がいたが、手の施しようがなくなって逃げた。何よりイギリス空軍の爆撃が激しく、町の人々も大半山の方へ逃げた。
日本兵の多くは、イギリス空軍の激しい爆撃で死んだり、病気や飢えで死んだりしていた。その数は無数で数え切れず、どこもかしこも死体や遺骨が溢れていたそうだ。
1944年のインパール作戦が終わって1カ月後くらいの9月ころに、町の人々が戻ってきて、街を清掃するために、30人が1組で4グループ作り、日本兵の遺体を集めた。そして、それらをチンドィイン川に投げ入れたり、爆弾の跡の穴にゴミと一緒に投げ入れて埋めたりした。
当時15歳であった彼女は、そのグループの一員になって、日本兵の遺体を来る日も来る日も集めたと、暗い表情で語った。
遺体を投げ入れて埋めた所は、今では家が建てられたり、道や沼地、林になったりしていて、その場所がはっきりしていない。唯彼女の記憶によると、森林署の建物があった所の大きな穴には、特に沢山の遺体を投げ入れたそうだ。戦後再建された今の森林署の建物の下には、今も沢山の遺骨が埋まっているとのことだった。
私たちは、彼女に礼を述べて家を出た後は、北の方へ500メートルほど離れた国営の森林署を訪ねた。門番はいなかったので、国旗が掲揚されていた庭に入った。やがて2人の女性が出て来たので、日本から来た旨を伝え、許可をもらって皆が入った。
私は、かがみこんで、多くの将兵の遺骨が埋まっているだろう床下を見詰めながら、「ごくろさんでした」と呟きながら合掌した。
私たちは、暗くなりかけたモーライクの町を歩き、街の北側にある大きな時計塔の横を通ってチンドィイン川沿いに出た。そして寺院の建ち並ぶ川沿いの道を歩いて、街の南側にあるゲストハウスに戻った。