チンドゥイン川の左岸にあるシュエジン村は、南北を低い砂岩の山に挟まれた谷間にあり、入口は幅200メートルくらいで狭いが、奥行きがあるのか、小川が流れ出ており、砂の多い重厚な砂地が続いている。カレワから10数分下って来た船は、その砂浜に乗り上げるように停泊し、私たち一行は下船した。川辺には沢山の長い竹が運び出されており、竹の筏を組んでいる人がいた。
砂地の坂道を上った所に、コックベンと呼ばれる大木があり、その近辺にニッパヤシの葉で葺いたり、トタン屋根の高床式の家が散在していた。
我々がやってくるのを見ていた村人たちが、すぐにコックベンの木の下に集まって来た。そして、モンさんやチョーさんの説明を聞いた、村長だと言う55歳のウ・テンマンさんが対応してくれた。
この村は、以前は大きかったが、戦後まもなくから村人の多くが仕事を求めて村を出て、今では14軒、50数人の小さな村になっているそうだ。
戦争当時、最初はイギリス軍が駐屯していたそうだが、やがて日本軍がやって来て、激戦の末イギリス軍を追い出した。その後日本軍がやって来て、一部の兵は残ったが、多くの兵はイギリス軍を追って川を渡ったそうだ。
村人たちは、当時の銃剣や中型爆弾、機関銃の弾、鉄兜などの遺留品を次々と家から持ち出してきた。もちろん日本軍が駐屯していたこと、多くの戦病死者がいたこと、遺体を川に捨てたことなど、まるで現場を見たかのようにさまざまなことを話してくれた。
しかし、こんな小さな村に、イギリス軍や日本軍が何故駐屯していたのか疑問にかられ、私は村の奥の方へ向かった。
300メートルほど中に入って山陰になっていた奥の方を見ると、村の入口の狭さと違って、小川のある広い谷間に田畑が広がっており、この村の食料生産量が多かったことが解った。
稲が実っている広い稲田のあぜ道に立って眺めていると、村人たちがやって来て、この広い稲田は、日本軍が駐屯していた場所で、傍らの赤い花をつけた“パウ”と呼ばれる大木は、通信用のアンテナとして使われており、当時この木に打ち込んだ白い碍子が、木の成長によって食い込まれ、わずかに頭を出していた。
驚いたことに、この広い稲田には、5、6メートル以上もある大蛇がいるそうだ。大蛇は水田の神様で、村人たちは大蛇を恐れることもなく、守るように共存しているそうだ。
今もいるかと尋ねると、「その辺にいるか、山にいるか分からない」と答え、村人たちは楽し気に笑っていた。
食糧が乏しかった当時の日本兵は、蛇やトカゲを食べたと聞いていたのだが・・・。50代の村人が子どもの時からいたそうなので、もしかすると日本兵にも喰われずにいたのかもしれない。
この谷間の奥は、“ワ”と呼ばれる竹の生産地でもあり、長い竹竿を10数本束ねて、牛に引かせて川辺に運び出していた。となると、食糧になる筍も豊かなのだ。
南北を砂岩の山に挟まれ、西側をチンドゥイン川に守られて東へと延びているこの谷間は、小川沿いの農耕地に恵まれた要塞の地であった。そんなこともあって、日本軍は、この地を食糧供給地として確保していたようだ。