ミャンマー北部探訪㊸ トンヘ村のナンデモウ寺院
12月19日午前6時過ぎに目が覚めた。3泊したパウンピンのゲストハウスを7時に出て、チンドゥイン川沿いにある店で、ラーメン風のモヒンガーを2杯も食べた。
午前7時半に40キロ川上のトンヘに向かって出発した。このところ早朝は川霧が濃く立ち込めていた。今朝も霧が立ち込め、100メートル先がやっと見える程度であった。8時過ぎには霧が晴れて、順調に航行でき、午前9時48分、トンヘの船着き場に無事着いた。
船着場から約1キロ離れた村の南端にある、ナンデモウ・チヤン(寺院)へ歩いて行った。我々は、その寺で、41歳の住職ナンタ・マーラ僧と、58歳のウイ・マラ僧の2人にいろいろ質問した。
この寺は、日本軍の駐屯地跡に戦後の44年前に、日本の援助によって建設されたそうだ。当時、元日本兵の人々がやって来て、トンヘの後ろの低い山尾根にあった野戦病院跡(後で行ったが林になって何もなかった)で、沢山の遺骨を掘り出して持ち帰った。その人たちの支援を受けたとのことだった。
約100メートル4方を壁に囲まれた寺のすぐ近くに、もともと小さな寺があった。この寺は、日本軍が駐留していた頃にもあったが、その小さな寺を併合するように作られたと言う。
この寺には、44年前の慰霊団が残した慰霊の鉄板が吊るされていた。それには次のように記されていた。
慰霊 戦友よ 安らかに眠れ 一九七二年一月 吾等戦友一同ビルマ国のこの戦跡を訪れ、亡き戦友の慰霊法要を営み 謹んでこの銘を納む 日本印麺戦跡慰霊団
とあり、その下に40数名が列記されていた。
今から21年前の平成7年11月にも慰霊団が来て、4本の「卒塔婆」をこの寺に預けていたが、それを持ち出して見せてくれた。
2人の僧は、先代の住職から、戦争当時のことを聞き知っていた。戦争末期には、村人の大半は山に逃げ込んでいた。終わってから帰って見ると、村の至るところに日本兵の死体があった。村人たちはその全てをチンドゥイン川に流した。
インパール作戦で敗退する日本軍が通ったのは、トンヘが最北端の村であった。西のタナンからトンヘに向かう山道は、「白骨街道」と呼ばれたほど、沢山の将兵が道沿いに死んでいたことで有名であったので、私たちはこの前日、おんぼろジープをチャーターし、一日がかりで往復していた。
この寺の前の川沿いにある民家の庭では、日本軍が埋めた高射砲の砲身が掘り出されていた。寺の北入口前広場の川沿いには、巨大な菩提樹があった。トンヘ生まれの58歳の僧ウイ・マラさんによると、彼が子どもの時から今のように大きかったので、200年以上は経っていると言った。
日本軍がここに駐屯し、司令部を設営していた時には既に大木であったので、多くの日本兵がこの菩提樹を見たことだろう。
寺に1時間余り滞在し、村の中央部に戻り、川沿いの道から山の方へ7、80メートル行った高台に、元日本兵たちが寄贈した小学校があった。1999年当初は、小さな平屋の建物一棟だけであったが、今では生徒も増えて校舎が2棟増築されていた。それでも足りなくなって、外の木陰で授業を受けている子どもたちがいた。
私たちが学校を訪ねると、窓から顔をだした子どもたちが、「ジャパン、ジャパン」と叫びながら手を振ってくれた。
私たちは正午過ぎに船着き場に戻った。私は、最後の慰霊地であるトンヘの岸辺で、広いチンドゥイン川の流れを見つめながら、“ふるさと”を口ずさんだ。
「ありがとうございました。安らかにお眠りください。これで日本に帰ります」
静かに語りかけて合掌した。