岩山のゲハルド修道院(1998年8月)アルメニア
1998年8月29日午前4時50分に、グルジアの首都トビリシからアルメニアの首都エレバンの飛行場に着いた。ところが、入国のチェックがなく、パスポート(旅券)にスタンプを押さない。係員にパスポートを見せて尋ねたら、「いいから外に出なさい」とばかりに手で合図する。世界広しといえど、入国手続きをせずに入国できた国はアルメニアだけだった。
不安を覚えながら空港ロビーに出た。すぐにタクシーを拾ってアルメニアホテルまで走らせた。
南の方にアルメニアのシンボルでもある冠雪した標高5,165メートルの朝かすみの中のアララト山を見ながら、七時前にホテルに着いた。予約をしていたのですぐ部屋に入れてくれた。
午前10時に国営旅行社の事務員スベタナさんがやって来て、アルメニアの旅行予定を知らせてくれた。彼女によると、今日は古都エチミアジンとスバルトノツの遺跡を、明日はガルニ城塞とゲハルド修道院を訪ねることになっているそうだ。私にはほとんど情報がなかったので、彼女の作った計画に従って行動することに同意した。
アルメニアは歴史の古い国だが、ペルシア(イラン)やトルコ、アラブなど他民族の侵入を受けて、国土も人口も定まらない苦難の道を歩んできた。現在のアルメニアの面積は29,800平方キロで、日本の九州よりも少し狭い。人口は約310万人。首都のエレバンは標高千メートルにあって、人口は約135万人と3分の1以上が集中している。
翌30日は快晴。午前10時から通訳兼ガイドのノーラさん(61)の案内で、65歳のフェリックさんの運転する車に乗り、エレバンから南東約28キロのところにあるガルニ城塞に向かった。
ガルニには紀元前3世紀にアルメニア王の夏の宮殿として城塞が建造された。アルメニアには紀元前1世紀頃から多くのペガン(太陽)を祭る神殿が作られた。この太陽神殿はミハラ(ミスラ)と呼ばれた。キリスト教が盛んになるに従ってミハラは破壊されたが、ガルニのミハラだけは破壊されずに残っていた。
ガルニ城塞は天然の要塞で、三方が地震による陥落で断崖絶壁になっており、一方だけに城壁を作ればよかったので難攻不落であった。
アルメニアは火山地帯で地震が多く、山の崩落がよくあるそうだ。アテネのパルテノン神殿を思わせる黒い玄武岩の太陽神殿ミハラは、17世紀の大地震で崩壊したが、1970年に再建されていた。
ガルニから更に10キロほど東北に向かって坂を上った岩山の中の標高1500メートルの所に、ゲハルド修道院があった。最初は紀元4世紀に建立されたが、その後改修され、現在のものは13世紀に建立されたという。アルメニアは石の国であり、石工たちが巨岩を掘り抜いて、聖堂、僧房、廟などを造っていた。
今日は日曜日でもあるので人出が多い。アルメニア正教を信じる信徒が、家族や仲間たちとバスや自家用車でやって来る。入口の街道には花や食物や土産物が売られており、生贄になる羊もいる。
人々がここに詣でるのは、羊や鶏を屠殺してもらうためでもある。生贄の肉は、安全、健康、融和などに役立つ清い食物になると思われているからだ。
羊を生贄にするには、まず修道僧に清めの祈りをしてもらう。一般的には、修道院を回ればよいのだが、ここは後の岩山と合体していて回れないので、庭に建立された特別の岩を四周すればよいことになっている。しかし、多くの人は修道僧に1000ドラム(約300円)払って岩の前でお祈りをしてもらう。その後、指定された場所で専門家によって屠殺されて解体される。人々はその肉を持って帰り、料理して食べるのだという。
この修道院の半分近くは自然石を掘り抜いて作っているので、洞窟修道院であり洞窟教会でもある。だから修道院の後は岩山に続いており、山と一体化した珍しい作りだ。
修道院の前は絶壁で、大変神秘的な自然環境の秘境にある。絶壁を掘り抜いた洞窟には教会や僧房や墓がある。岩山の谷間には清い流れの小川があり、人々が手足や顔を洗っていた。そして、聖水のようなうまい水もある。
誰もが自然の中に佇むことによって心持ちがよくなる所は聖地だ。この岩山の中腹に作られたゲバルド修道院は、古くから聖地としての条件を十分に満たしている。宗教を否定していた共産主義の長いトンネルを潜り抜けた人々が、さんさんとふりそそぐ太陽の下で、自由に聖堂の中に入ってゆく。
敬虔な信徒たちは、石造りの古い聖堂の中でローソクに火を点し、家族の安全や健康、平和を願って、静かに首をたたれていた。