死海に浮いた後で(2003年1月)ヨルダン

 アメリカのイラク爆撃が心配されていた2003(平成15)年1月末、子どもの野外伝承遊び調査のため、38年ぶりにヨルダンを訪れた。

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首都アンマンの旧市街

 中近東のヨルダンとイスラエルの国境にある“死海”は人が浮くことでよく知られている。海水の10倍ものミネラルを含む塩湖で、面積1020平方キロメートル。水は透明だが、塩分が高いので魚はすめない。次に訪れたら必ず泳ごうと心に決めていた。しかし、泳いだ後がどのようになるのかについては、いっさいの情報がなく知る由もなかった。

 知人の小畑大使と一緒に彼の車で、首都アンマンから西南へ約40キロの東岸にある、温泉が湧き出るザラに行き、そこの岸辺で死海に足を踏み入れた。石と思ったのは表面ガサガサの岩塩で、足の裏が痛かった。 

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死海の地溝帯を見下ろす場所と死海へ流れ込む温泉

 「頭を決して水中に入れないようにして下さい。目や鼻、耳の粘膜に激痛が走ります。入る前にまず水を嘗めて下さい」

 日本ではいつもプールで泳いでいるので、在アンマンの日本人からの注意がなければ必ず頭を入れただろう。

 膝まで入り、料理の味見のごとく湖に差し入れた指を口にした。

 「グアアアアー」

 劇毒物を口にしたかのように叫んだ。にがりの10倍もの強烈な刺激が口の中を駆回り、何度も唾を吐き出す。声も出せないで立ちすくんでいたが、1分くらいでなんとか治まった。

 これだけ高濃度の水に肌を浸してよいものだろうか。肌に傷や皮膚病はないが、尿道の粘膜は大丈夫だろうか・・・。しかし、これまでに何度も老若男女がのんびりと浮いている写真を見ている。いざ進め!とばかりに、誰もいない静かな海面を、不安定な足下に注意しながら進む。腰から胸まで浸ると身体が軽くなり、不意に足が離れて仰向けに浮き上った。

 38年前の1965年3月、アンマンからエルサレム(当時はまだヨルダン領)に行く途中に立寄って以来、気になっていた“死海”に、初めて身体を浮かせたのである。首から上と両手・両足を水面上に上げ、青い空と月面のような褐色の岩山を眺める。

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温泉が湧き出る場所でここから流れ出る

 ここは、アフリカ大陸から続く大地溝帯北端の、海面下400mで、地球上で最も低い地点にある。高濃度塩水の浮揚力によるのだが、実際に体験してみると全身がプカプカ浮くことはやはり不思議だ。

 最初はおっかなびっくりで身動きもままならなかったが、2~3分もすると両手を後方に回して漕ぎ、ゆっくりと20m位沖に出た。

 と言っても遊泳ではない。浮游である。水面下に足を突っ込むと冷たかった。水面下7~8センチは太陽熱に暖められているので、寒さを感じない。夏は摂氏45度にもなるので、冬の方がよいとも言う。

 10分もしないうちに慣れ、仰向けや腹這いになって足を上下に動かす。身体は痛くも痒くもなく快適で、人間の皮膚の強さには驚くばかりだ。

 浮游感に身も心も解放され、宇宙飛行士のように両手をゆっくりと動かしていると、小さな水滴が左目に入ったのか、焼けるような激痛か走った。手で触ることも洗うこともできない。直後に涙が溢れたが、痛みは治まらない。やっとの思いで岸に上り、崖から湧き出る温泉に入って目を洗った。

 死海に入っていたのは15分くらいと思っていたが、同行し、岸から眺めていた在アンマンの小畑日本国大使によると、20分も浸っていたと言う。

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死海に浮いたり立つ筆者

 南北78㎞、東西18㎞にわたる死海の周囲は、岩と瓦礫の荒野で雨は殆ど降らず、湿度は10%。流れ込むヨルダン川の水には塩類と硫黄分が含まれており、どんどん蒸発するのでミネラル分が自然に多くなる。マグネシウムは海水の34倍、ナトリウムは4倍、カルシウムは47倍、カリウムは24倍、塩化マグネシウムは86倍も含まれているという。そのため皮膚病に効能があり、細胞の代謝機能が活発になり、体内のエネルギーを大量に消費するそうだ。それに、湖底の塩や泥を使って化粧品や石けんまでも作っている。

 死海に浸かっていた後、近くの海岸沿いにある立派なホテルで、イタリア風の昼食を小畑大使と共にし、彼の車で標高800mのアンマンに向かう。途中の坂道で「ここに海抜零メートルの標識がありますよ」と言われたが、それどころではなくとにかく眠い。死海に長く浸っていたかららしく、異常に思える疲労感が全身に走り、まるで金縛りの術をかけられたように体が固まったようで、どうにもならなかった。ホテルまで送ってもらい、やっとの思いで部屋に転がり込んだ。

 高濃度の塩湖に20分も浮いた1時間後、不思議な疲労感、倦怠感、睡魔に襲われた。それは高濃度の高い浸透圧のせいで体内の水分が自然に吸い出され、重労働して大汗をかいたと同じように疲労したからだった。各種雑誌などのグラビア写真で何度も見て来たような死海に気持ちよさそうに浮く、ましてやのんびりと本を読む光景は、数分間の幻想でしかなかった。30分以上も死海に浸かっていると、それこそ本当の死海になりそうなことには気づいていなかった。

 ホテルで、夕食もせず、何も知らずに10時間ほど寝入った翌日は、ペトラの谷を見て回った。

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ペトラの谷
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左、ペトラのハズネー(宝物倉)右、エルー・ディル(修道院跡)前の筆者

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アンマンの小川で遊ぶ子供たち

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小畑大使と筆者