地球へめぐり紀行

ユーラシア大陸横断鉄道の旅 編

ユーラシア大陸横断鉄道の旅⑨ 仁川→威海→煙台→北京→平壌

 板門店を越えて北へ行けないので、仁川から中国・山東半島の威海へフェリーで渡ることにした。

 4月8日の朝、ソウルは小雨まじりであったが、50キロ離れた仁川に11時半に着いたときにはもう晴れていた。

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仁川の港のフェリー乗り場の入口

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仁川港で中国のフェリーに乗り込む

 4800トン、475人乗りの「威東航運有限公司」という中国のフェリーが1年半前に就航したばかりだという。満員の乗客の荷物が多いので、客室と荷物室が分かれており、乗船前に荷物を預けることになっていた。

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フェリー上での筆者

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仁川港の運河

 午後1時半に受付して、2時半に乗船。そして4時55分にやっと出発。仁川は遠浅の海岸で、潮の干満に関係なく船舶が航行できるように、運河が建設されていた。約30分を要して運河を抜け黄海に出る。フェリーの乗客のほとんどが朝鮮系中国人の担ぎ屋たち。

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フェリーの寝台客室

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フェリーでの夕食

 フェリーで一夜を過ごした4月19日、午前8時に威海に着き、10時過ぎに下船した。威海は人口23万もの大きな近代的な町で、保養地として温泉もある。今まさに韓国人と韓国資本が流入し、市場経済活動が始まったばかりで、威海衛大廈という立派な国際ホテルで昼食をしたが、韓国人が多かった。

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4月19日の朝、フェリーから見た中国山東半島の威海の町

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威海のフェリー着場

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威海の埠頭

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威海港の出入り口

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威海の国際ホテル

 この町は、日本とのかかわりもある。昭和12年に起った日中戦争の戦艦による激戦地であり、湾内の島には当時の遺品を集めた戦争博物館もある。 

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煙台駅の入口

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煙台港の出入り口

 威海から車まで1時間、麦畑の中の道を走って人口60万の煙台の町に着いた。ここから、中国東方航空公司のMU5123便で北京へ飛んだ。ホテル・ニューオータニの系列である“長富客飯店”では、中国青年旅行社の日本部部長の郭暁林さんが待っていて、いろいろ世話をしてくれた。 

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北京駅

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北京の天安門前広場での筆者

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北京の薬局店、同仁堂

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北京の街頭で水餃子が売られていた

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牛肉ラーメン屋

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街頭でサンザシを砂糖で絡めた串刺しを売っていた少年

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北京街頭の売店

 翌20日の午前10時前に、北朝鮮の大使館を訪ねる。日本を出発する前に、東京の朝鮮総連で、北京でビザがとれる手筈になっていたが、北京の大使館で何度説明しても入国許可が出なかった。

 5年前、考古学者の江上波夫先生を団長とする、徳興里古墳の壁画を見る目的の“文化使節団”の一員として北朝鮮を訪れた際、私たちは金日成主席の私邸に招かれた。そして、日本語で「いつでもご招待しますので、是非また来てください」と言われ、主席とならんで写真を撮った。その写真を東京の朝鮮総連でも見せたが、こまった時にはと思い携えていたのでホテルに戻り、それを持って再度大使館を訪れて見せた。すると、係員の態度が一変して対応が良くなった。

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中央は金日成主席 その左は江上波夫教授 左から2番目は筆者 日本人は4人 

1987年10月当時の写真

 指定された午前9時半に大使館を訪れると例の写真が効を奏したのか、係員は何も言わず、すぐに訪問ビザを発行してくれ、その日の午後3時半発の飛行機で北京から平壌へ飛ぶことができた。 

 1時間ほどで着いた広い飛行場でタラップを降り、歩いて空港ビルに入る。愛想のない係員たちを相手に入国手続きをして、5時頃にロビーに出る。小柄で角張った顔の青年が私に近づいてきて「森田さんですね」と言った。彼は朝鮮旅行社の日本語通訳で、29歳の太さんだった。

 太さんが、スウェーデン製のボルボの新車で、町の中心地にある33階建ての立派な高麗ホテルに送ってくれた。

 ここでも問題が発生した。開城への往復をハイウェイができたので外国人は車で行くことになっていると言う。そこで、例の写真を見せ、鉄道による往復を主張すると、太さんが驚いて、すぐにどこかに携帯で電話をした。そして一時間後にOKが出た。しかも、私専用の車両をつけてくれることになった。

 やはり、件(例)の写真は大きな威力があるようだ。私はホテルの一室でしばらく休憩し、深夜の12時20分発の夜行列車で開城に向かった。