ユーラシア大陸横断鉄道の旅➉ 開城→板門店
平壌からの夜行列車は、4月22日午前6時に着いた。開城には外国人旅行者用の車がないので、ソウルから来た車と太さんが待っていた。私は、その車で太さんと共に駅から民族旅館に直行した。
人口30万の開城は板門店の南にあり、38度線近くの西に位置し、朝鮮戦争当時は国連軍の支配下にあったので、アメリカ軍の空襲を受けなかった。そのため北朝鮮で古い街並みがそのまま残っている唯一の町となった。この古い街並みをうまく利用して町の一角を博物館とし、昔の建物をそっくりそのまま民族旅館としている。
開城は、10世紀から14世紀にかけて栄えた高麗王朝の首都であった。当時から朝鮮人参の産地として知られていたが、今も栽培は続けられている。韓国や北朝鮮が英語で“KOREA”と呼ばれるのは、この高麗王国当時の名前の名残である。
民族旅館で朝食をとった後の9時半、8キロ北へ離れた板門店に向かう。完成したばかりの高速道路は素晴らしく、すぐに板門店近くに着く。ここで、板門店近辺の模型を使って簡単な説明があった。模型には、今はない開城から汶山までの京義線も造られていた。韓国側で宣伝村と呼ばれている境界線近くにある、高い塔の建っている近代的な村は、「板門店里」のことで、実際に200家族、1000人が住んでいる農村地帯であった。
説明のあと、私たちの車に軍人が一人乗り、軍の車の先導で走る。同乗の軍人は40歳くらいで、にこやかな明るい表情をしていた。
板門店に着くと「板門閣」と呼ばれる建物の中で状況説明があり、グラス一杯の水を出してくれた。板門閣にいる係員たちは大変親切で、人当たりがよく、撮影もさせてくれた。
南側の戦時態勢下のような緊張した雰囲気はなく、なんとなく穏やかである。戦争と平和の意味を世界に向けて問い続けている板門店は、東アジアの悲劇の象徴であるが、そんな気負いは見られない。
板門閣を出て軍事境界線の方に向かった途端、急にアメリカ国連軍のMPたち5、6名が銃を持って出て来て、ものものしい警戒ぶりになったが、私は気にもせず北側に立って記念写真を撮ってもらった。
私は、係員の案内で会議場内に入り、5日前と同じ場所の分断ラインを今度は北からまたいだ。この一歩のために2000キロも迂回したのだ。
朝鮮半島の南北分断が続く限り、南の汶山と北の開城間の鉄道の旅は不可能だ。しかし、東アジアの安定と経済的繁栄のためには、1年でも早く再開されることが望ましい。