カッパドキアの自然と文化(1971年8月)トルコ
トルコの首都アンカラから車で東へ約240キロ走ると、アナトリア高原の中に石灰質の大地が、侵食によってできた、円錐形の石柱が林立するカッパドキアがある。そこのギョレメ谷にはいろいろな形の石柱があるが、いずれも自然の神秘的な造形物である。
私は、1971年5月に、ギョレメ谷の中心部にあるアブシラル村のペンションに泊まった。ゆるい丘の斜面にへばりついた村の中にもたくさんの石柱があって、それに寄り添うように家が建てられている。
夜中に、ロバが甲高い声で鳴いたり犬が吠えたりして、なかなか寝つかれなかった。そして、夜明けと同時に村人が起き始め、窓の下で女たちが遠慮することなく大声でおしゃべりをした。それ以上に鳩のクークークーという鳴き声がうるさい。ギョレメ谷には鳩の巣穴が多い。この地方の人間は古代から鳩のフンを採集してブドウや麦などを栽培するための肥やしに使ってきた。この谷に住んでいたギリシア正教の人々は滅びても、当時からの鳩の子孫は今もまだこの谷に住みついている。
午前7時半頃には窓から陽が差し込んできた。カッパドキアの村々は、トルコでも僻地で、交通は乗り合いバスが1日に数本あるだけで、村人の一般的な足はロバだ。麦も葡萄も水も薪もすべてロバの背かロバ車で運ぶ。
ギョレメ谷のアブシラル村から2キロほど離れたギョレメ村に向かった。石柱と石柱の間をくぐる道を車で走り、少し上がった所がギリシア正教の中心地であったギョレメだ。ここにはたくさんの洞窟があり、5カ所に教会跡があった。洞窟教会の内壁にはあざやかなフレスコが描かれていたが、原形をとどめているものはほとんどなく、後からやってきたイスラム教徒によって目や鼻を削りとられて満足なものはない。
8世紀中頃からギョレメはギリシア正教の修道院となって、たくさんの人々が住むようになったそうだ。フレスコが描かれたのは早いもので9~10世紀。これは赤色を中心とした簡単なものだが、第2段階の12~13世紀のフレスコは色彩豊かな素晴らしいものが多い。
7世紀初め、アラビア半島のメッカで発祥した回教徒の北進にあって、その後度々の侵略と迫害を被るようになり、修道院は外敵の脅威にさらされて、徐々に要塞化した。洞窟の中に果物や穀物の貯蔵所を作り、床に穴を掘ってブドウからワインをつくる設備を作り、石の食卓まで構えた。明かりは素焼の小さなツボのランプが使用され、壁の小さなへこみの上の天井は黒くすすけている。
「矢間」や「石戸」をもって要塞化した洞窟修道院は、11世紀中頃には、セルジュク・トルコ帝国に侵略されて迫害された上に、ヨーロッパからの度重なる十字軍遠征隊とセルジュク軍との戦場となって、ギョレメを中心とするカッパドキアの住民にとって地上に平和な時はなかった。
ついに13世紀末、イスラム教のオスマン・トルコ帝国によって完全に征服され、住民は虐殺され、洞窟教会は破壊された。間もなくイスタンブールを中心とする東ローマ帝国も滅び、ギョレメの洞窟に住む人は絶えてなくなった。
その後しばらくして、征服者トルコ人は石柱や洞窟を利用して、石と土と木で四角形の家を作って住み、イスラム教寺院の高いミナレットが石柱と並んで建った。
この辺り一帯は、凝灰岩という空気に触れるとコンクリート化する岩質で、洞窟を掘るには適していた。凝灰岩は簡単な道具で穴を掘ることができるやわらかい堆積岩だが、数カ月もすると壁面がコンクリート化するので、たくさんの洞窟を容易に掘ることができた。
カッパドキア地方は、家を作る適当な土も木も石もなければ、充分な水もない。夏は熱く冬は寒い乾燥地帯の過酷な自然環境に順応して生きるには、こうして洞窟を掘って生活するのが最も適当な生活文化であったのかもしれない。
しかし、1000年以上も経った今ではところどころ岩がくずれて、アリ塚のようになった洞窟の内部が露出し陽に晒されている。
人間が文字を使い、銃器を持って戦い、想像を色彩的に、しかも象徴的に描く力を持ったのは、キリスト生誕以後のこと。砂漠や荒野に文明のオアシスを築いた幾多の民族と同じく、この地に洞窟教会を作り得た人々もまた、小さな人間の偉大な忍耐力を持って、生活文化を築き上げていたのだろう。