古代人の記録 ゴブスタンの岩面画(1998年8月)

 1998年8月25日、油田の町バクーは快晴であった。アゼルバウジャンの首都バクーを訪れた目的は、古代人が描いたゴブスタンの岩面画を見ることだった。「ゴブ」とは泉または井戸のことで「スタン」は場所のことなので、ゴブスタンとは「泉のあるところ」や「湧水地」のことだが地名である。

 通訳は22歳のザウィールさん、案内人はゴブスタン博物館長であり、岩面画の研究者である37歳のグルバルさん。そして、運転者は60歳のエルユンさんの4人で、韓国製の車ヒュンダイによる5時間のツアー。

 ゴブスタンはバクーから約60キロ南西のカスピ海沿いにある。南バクーの油田地帯にある無数の石油櫓を眺めながら走る。道は広いが凸凹があって路面はあまりよくない。約40分でゴブスタンに着き、海岸沿いの道から西の右に折れて小道に入った。

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ゴブスタンのベリクダシへの入口

 右折して間もなく左側の平原に「キチダシ」と呼ばれる小さめな岩山があり、そこから4~5キロ離れた右側に「ベリクダシ」と呼ばれる大きな岩山があった。この2つの岩山は上が平らで、いずれも端々が崩れている。

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ゴブスタンのベルクダシ(大きい岩山)から遠くにキチダシ(小さい岩山)を見る

 岩面画はベリクダシの方にあり、その入口に資料館を兼ねた博物館があった。グルバルさんはここの責任者である。

 私はこの資料館に案内され、岩面に描かれた模型や写真その他の資料を見ながら、グルバルさんの説明を受けた。

 ここの岩面画は、約1万4千年前から8千年前に、この辺に発生した大きな地震によって岩山の洞窟が崩れるまでのものが中心だそうだ。当時は、カスピ海の海面は今よりも6メートルも高かったので、これら2つの岩山の間は海であり、キチダシは漁場地域、ペリクダシは野生の動物を追い落としてとる狩猟地域であったとされている。当時ここは海岸であったが、今は5~6キロも離れている。

 ベリクダシには約20の洞窟があり、約14,000の岩面画がある。その内の6,200の絵を管理しているのがグルバルさんだ。

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原始時代、野生の動物をベルクダシの崖に追い落とす人々の絵

 ベルクダシのこの岩面画は、ロシアの地質学者イサハーガ・ジェバルザテによって、1939年に偶然発見された。発見当初は岩ごけに覆われてよくわからなかったので、その後しばらく放置されていた。しかし、10数年前のソビエト時代に科学アカデミーの学者たちが調査し、拓本をとったり、形象に石灰を塗ってはっきりさせたので、今もまだ白っぽく見える刻画がある。

 博物館で約30分間説明を受けた後、彼の案内で現場を見て歩いた。

 まず最初に案内されたのは、高さ6メートルもの岩壁に10人の男たちが、「ヤリ」と呼ばれるギリシアダンスに似た民族踊りを踊っている刻画であった。その右側の地上二メートルほどの岩面には、長い船を20数名の人が漕ぐ線刻画がある。8,000年も前のカスピ海にはすでにこのような船があったのだろうか。そして、その下には弓矢を持った狩人がいた。

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ギリシアダンスに似た「ヤリ」と呼ばれる踊りの」刻画

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弓矢を持った狩人の絵

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色々な線刻画

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8,000年前の船の絵

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当時の狩人と獲物の絵

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顔面画の前の筆者

 このような岩面に描かれた画は、中国では「岩画」と呼ばれているが、日本では一般的に「岩面画」と呼ばれている。絵・画には個人の感性による個人的表現と、後世に残すべき事柄として描き記した記録がある。

 壊れた洞窟に入ると、岩面にたくさんの刻画や浮彫があった。その中に、胸や尻が異常に大きい女性と思われる人物像がある。これは多分豊穣を表現した大地の豊かさである地母神の原型ではないかと思わる。それにシャーマンらしき人の踊りや、地母神らしき豊かな肉体の像があちこちに描かれている。 

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お尻の大きい地母神と思われる絵

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説明をするグルベルさん

 若い男女が手を取り合って踊っているような絵もある。まるで8千年前の新婚の2人が春の野原を楽し気に踊りながら歩いているようだ。

 その他に鹿、牛、馬、山羊、羊、野豚、犬、そして、カスピ海にいたのだろうか、イルカやアシカ、大きな魚、鳥などたくさんの動物が描かれている。

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若い男女の踊りの絵
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色々な動物の絵

 最後に案内されたのは、平らな岩の上に直径20センチくらいの穴を掘った料理場であった。穴の中に肉や野草と水を入れ、そして焼石を入れて料理したのだという。はたして、八千年以上も前の人々が、今の人間さえ気づかないような焼石料理を知っていたのだろうか。グルバルさんは、私の疑問に対して、間違いないとはっきり答えた。

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地震で崩落した岩

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焼き石料理用の穴

 とにかく暑い。木陰はなく、直射日光を受ける岩山は摂氏38度もある。その岩場に古代から生えているという野生のいちじく「アンジェル」があった。グルバルさんのすすめで、紫色に熟した小さな実を口にすると、大変甘かった。もしかすると、いちじくの原種であり、古代人の食料であったのかもしれない。

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野生のイチジク「アンジェル」

 約三時間、汗にまみれて古代人と同じような苦しみを味わいながら、ゴプスタンの岩面画を観て回った。いずれにしても、8,000年以上も昔の人々が、これだけ多くの記録を残して下さっているのだが、現代の私たちは効果的に役立てているのだろうか。

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グルベルさんと筆者

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ベルクダシから6キロほど先にカスピ海を見る

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カスピ海沿岸に立つ筆者

カッパドキアの自然と文化(1971年8月)トルコ

 トルコの首都アンカラから車で東へ約240キロ走ると、アナトリア高原の中に石灰質の大地が、侵食によってできた、円錐形の石柱が林立するカッパドキアがある。そこのギョレメ谷にはいろいろな形の石柱があるが、いずれも自然の神秘的な造形物である。

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石柱を利用した住居 

 私は、1971年5月に、ギョレメ谷の中心部にあるアブシラル村のペンションに泊まった。ゆるい丘の斜面にへばりついた村の中にもたくさんの石柱があって、それに寄り添うように家が建てられている。

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カッパドキアの中心地アブシラル村

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岩が崩れた廃墟

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廃墟になった洞窟の内部
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左は廃墟になった洞窟の入り口 右は壊れたギリシア正教の洞窟教会の天井

 夜中に、ロバが甲高い声で鳴いたり犬が吠えたりして、なかなか寝つかれなかった。そして、夜明けと同時に村人が起き始め、窓の下で女たちが遠慮することなく大声でおしゃべりをした。それ以上に鳩のクークークーという鳴き声がうるさい。ギョレメ谷には鳩の巣穴が多い。この地方の人間は古代から鳩のフンを採集してブドウや麦などを栽培するための肥やしに使ってきた。この谷に住んでいたギリシア正教の人々は滅びても、当時からの鳩の子孫は今もまだこの谷に住みついている。

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石灰質の凝灰岩は柔らかくて簡単に掘れる

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石柱の中を通る道を行く村人

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結婚式の披露宴での演奏と男性の踊り

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ロバで行くギョレメの村人

 午前7時半頃には窓から陽が差し込んできた。カッパドキアの村々は、トルコでも僻地で、交通は乗り合いバスが1日に数本あるだけで、村人の一般的な足はロバだ。麦も葡萄も水も薪もすべてロバの背かロバ車で運ぶ。

 ギョレメ谷のアブシラル村から2キロほど離れたギョレメ村に向かった。石柱と石柱の間をくぐる道を車で走り、少し上がった所がギリシア正教の中心地であったギョレメだ。ここにはたくさんの洞窟があり、5カ所に教会跡があった。洞窟教会の内壁にはあざやかなフレスコが描かれていたが、原形をとどめているものはほとんどなく、後からやってきたイスラム教徒によって目や鼻を削りとられて満足なものはない。

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ギョレメ地域

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石柱の中のブドウ畑

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ロバで薪を運ぶ村人

 8世紀中頃からギョレメはギリシア正教修道院となって、たくさんの人々が住むようになったそうだ。フレスコが描かれたのは早いもので9~10世紀。これは赤色を中心とした簡単なものだが、第2段階の12~13世紀のフレスコは色彩豊かな素晴らしいものが多い。

 7世紀初め、アラビア半島のメッカで発祥した回教徒の北進にあって、その後度々の侵略と迫害を被るようになり、修道院は外敵の脅威にさらされて、徐々に要塞化した。洞窟の中に果物や穀物の貯蔵所を作り、床に穴を掘ってブドウからワインをつくる設備を作り、石の食卓まで構えた。明かりは素焼の小さなツボのランプが使用され、壁の小さなへこみの上の天井は黒くすすけている。

 「矢間」や「石戸」をもって要塞化した洞窟修道院は、11世紀中頃には、セルジュク・トルコ帝国に侵略されて迫害された上に、ヨーロッパからの度重なる十字軍遠征隊とセルジュク軍との戦場となって、ギョレメを中心とするカッパドキアの住民にとって地上に平和な時はなかった。

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ギリシア正教の洞窟修道院の内壁に描かれた11世紀このフレスコ画
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左は11世紀頃 右は9世紀頃に描かれたフレスコ画

 ついに13世紀末、イスラム教のオスマン・トルコ帝国によって完全に征服され、住民は虐殺され、洞窟教会は破壊された。間もなくイスタンブールを中心とする東ローマ帝国も滅び、ギョレメの洞窟に住む人は絶えてなくなった。

 その後しばらくして、征服者トルコ人は石柱や洞窟を利用して、石と土と木で四角形の家を作って住み、イスラム教寺院の高いミナレットが石柱と並んで建った。

 この辺り一帯は、凝灰岩という空気に触れるとコンクリート化する岩質で、洞窟を掘るには適していた。凝灰岩は簡単な道具で穴を掘ることができるやわらかい堆積岩だが、数カ月もすると壁面がコンクリート化するので、たくさんの洞窟を容易に掘ることができた。

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壊れた洞窟内
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上の右は要塞化した石戸

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上は洞窟を利用した製粉所 下は水を運ぶ主婦

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石柱の上から見下ろしたアブシラル村

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帽子をかぶった石柱

 カッパドキア地方は、家を作る適当な土も木も石もなければ、充分な水もない。夏は熱く冬は寒い乾燥地帯の過酷な自然環境に順応して生きるには、こうして洞窟を掘って生活するのが最も適当な生活文化であったのかもしれない。

 しかし、1000年以上も経った今ではところどころ岩がくずれて、アリ塚のようになった洞窟の内部が露出し陽に晒されている。

 人間が文字を使い、銃器を持って戦い、想像を色彩的に、しかも象徴的に描く力を持ったのは、キリスト生誕以後のこと。砂漠や荒野に文明のオアシスを築いた幾多の民族と同じく、この地に洞窟教会を作り得た人々もまた、小さな人間の偉大な忍耐力を持って、生活文化を築き上げていたのだろう。

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馬で麦を脱穀する青年と筆者

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麦を脱穀した後の風選

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アブシラル村の子供たち

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ギョレメの谷に立つ筆者

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洞窟内の石戸の上に座る筆者

子どもがいないテルアビブ(2003年2月)

 2003(平成15)年2月2日の夜、ヨルダンのアンマンからイスラエルのテルアビブへ飛んだ。九時出発予定か10時半になって、テルアビブのヘングリ空港へは11時5分に着いた。入国手続きの際若い女性の係員に、機械的に尋問され、1時間近くかかった。

 ロビーでは、タクシーの運転手が紙に私の名前を書いて待っていた。アンマンから日本大使館に連絡していたので、手配してくれていた。20分でホテルに着く。

 翌2月3日(月)は、晴れていたが昨夜来の風がやまず、ホテルの窓から見える海岸の砂浜が高波に洗われ、波しぶきが散っていた。午前9時にカメラを手にして街に出た。

 テルアビブの子どもたちの遊びを調査するのだか、殆と情報がない。とにかく自分の目で街の状況を確かめようと歩く。

 イスラエルの面積は27,800平方キロメートルで四国よりもやや広く、人口は約645万。公用語ヘブライ語アラビア語である。しかし、1948年5月の建国以来、世界各地からの移民か多いので、町ではいろいろな言語が話されている。英語はかなり通じる。

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カルメル市場の様子

 人口約60万のテルアビブで最も活気のあるカルメル市場では、英語とアメリカドル紙幣が飛び交い、ヨーロッパ系、アジア系、アフリカ系等、多種多様な人々か行き交っており、溢れんばかりの物資が所狭しと並んでいる。ここには戦争やテロを感じさせる気配はなく、人々の生活感と物欲の渦が巻く、市場の雑踏があるだけである。しかし、子どもは見かけない。

  長さ1kmもある市場街を通り抜けて地中海に出る。南に向かって海岸通りを30分も歩いてヤッフオに着く。古い要塞跡の丘になっているハピスガ公園に上り、聖ペテロ修道院を訪れる。そして、ヨットや漁船か碇泊している港を見て旧市街に戻るとちょうど正午になり、イスラム教寺院のミナレット(尖塔)から、礼拝を誘う拡声か朗朗と響き渡った。

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旧市街ヤッフオのイスラム教寺院、モスク

 イスラエルは、1948年に建国して以来、イスラム教のパレスチナや周辺のアラブ諸国との戦争やテロが絶えず繰り返されてきた。それは宗教戦争の色合いが強かった。しかし、世界三大宗教ユダヤ教キリスト教イスラム教の発祥地だけあって、国民にはいろいろな宗教、宗派か見られる。現に、このヤッフオ地域だけでも、キリスト教イスラム教寺院があり、尖塔からはお祈りが拡声されている。国民の8割がユダヤ教徒ユダヤ人、2割がイスラム教徒のアラブ人の日常生活に、今も3大宗教が混在している社会状況に驚かされた。

 午前中1人で歩き回ったが、遊ぶ子どもや街頭で子どもをみかけなかった。

 午後1時半、大使館からの紹介による案内人兼通訳の日系人がホテルに来た。彼は首都のエルサレムに31年間も住んでおり、ヘブライ語か堪能で、日本人の旅行ガイドを職業としていた。しかし、テルアビブの生活圏においては不案内で、学校の終了後、子どもたちがどこに集まるかは知らなかった。

  午後2時頃から子どもを探して街を歩いた。彼はどこへ行けばよいか知らないので、午前中に調べておいたカルメル市場近くにある公園を訪れた。バスターミナル近くて遊具のある街中の広い公園なのに、約1時間待っても子どもは一人も遊びに来なかった。仕方なく公園から東に向かって住宅地域を歩いた。1時間近く歩いたが、6歳から12歳くらいのもっとも遊びたがる年齢の子どもたちを一人も見かけない。親に手を引かれた4~5歳の子は2度見かけたが、広場や路地に遊ぶ子の姿はなかった。街を行き交う大人は多いのに、子どもはいない。

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海岸の公園、カルメル市場近くの公園、住宅街の公園のいずれにも遊ぶ子供がいなかった。

 更に進むと、住宅地域の一角に幼児と親たちが10数名いる公園があった。私は、これまで141カ国を訪れ、とこの国や地方でも、夕方になると子どもたちが外に出て遊ぶ光景を見て来た。団地の中にあるこの公園には必ず子どもたちが遊びに来ると思い、午後4時45分から薄暗くなる午後5時45分まで待った。しかし、子どもたちは出て来て遊ばなかった。

 半世紀以上も続く戦争とテロの恐怖は、人々の心に不安と猜疑心を駆り立て、安住の時を過せなかったろう。その社会状況は、子どもの心に強く焼き付き、野外で自由に遊ぶ精神作用を起こさせないのかもしれない。

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テルアビブの海岸に立つ筆者

死海に浮いた後で(2003年1月)ヨルダン

 アメリカのイラク爆撃が心配されていた2003(平成15)年1月末、子どもの野外伝承遊び調査のため、38年ぶりにヨルダンを訪れた。

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首都アンマンの旧市街

 中近東のヨルダンとイスラエルの国境にある“死海”は人が浮くことでよく知られている。海水の10倍ものミネラルを含む塩湖で、面積1020平方キロメートル。水は透明だが、塩分が高いので魚はすめない。次に訪れたら必ず泳ごうと心に決めていた。しかし、泳いだ後がどのようになるのかについては、いっさいの情報がなく知る由もなかった。

 知人の小畑大使と一緒に彼の車で、首都アンマンから西南へ約40キロの東岸にある、温泉が湧き出るザラに行き、そこの岸辺で死海に足を踏み入れた。石と思ったのは表面ガサガサの岩塩で、足の裏が痛かった。 

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死海の地溝帯を見下ろす場所と死海へ流れ込む温泉

 「頭を決して水中に入れないようにして下さい。目や鼻、耳の粘膜に激痛が走ります。入る前にまず水を嘗めて下さい」

 日本ではいつもプールで泳いでいるので、在アンマンの日本人からの注意がなければ必ず頭を入れただろう。

 膝まで入り、料理の味見のごとく湖に差し入れた指を口にした。

 「グアアアアー」

 劇毒物を口にしたかのように叫んだ。にがりの10倍もの強烈な刺激が口の中を駆回り、何度も唾を吐き出す。声も出せないで立ちすくんでいたが、1分くらいでなんとか治まった。

 これだけ高濃度の水に肌を浸してよいものだろうか。肌に傷や皮膚病はないが、尿道の粘膜は大丈夫だろうか・・・。しかし、これまでに何度も老若男女がのんびりと浮いている写真を見ている。いざ進め!とばかりに、誰もいない静かな海面を、不安定な足下に注意しながら進む。腰から胸まで浸ると身体が軽くなり、不意に足が離れて仰向けに浮き上った。

 38年前の1965年3月、アンマンからエルサレム(当時はまだヨルダン領)に行く途中に立寄って以来、気になっていた“死海”に、初めて身体を浮かせたのである。首から上と両手・両足を水面上に上げ、青い空と月面のような褐色の岩山を眺める。

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温泉が湧き出る場所でここから流れ出る

 ここは、アフリカ大陸から続く大地溝帯北端の、海面下400mで、地球上で最も低い地点にある。高濃度塩水の浮揚力によるのだが、実際に体験してみると全身がプカプカ浮くことはやはり不思議だ。

 最初はおっかなびっくりで身動きもままならなかったが、2~3分もすると両手を後方に回して漕ぎ、ゆっくりと20m位沖に出た。

 と言っても遊泳ではない。浮游である。水面下に足を突っ込むと冷たかった。水面下7~8センチは太陽熱に暖められているので、寒さを感じない。夏は摂氏45度にもなるので、冬の方がよいとも言う。

 10分もしないうちに慣れ、仰向けや腹這いになって足を上下に動かす。身体は痛くも痒くもなく快適で、人間の皮膚の強さには驚くばかりだ。

 浮游感に身も心も解放され、宇宙飛行士のように両手をゆっくりと動かしていると、小さな水滴が左目に入ったのか、焼けるような激痛か走った。手で触ることも洗うこともできない。直後に涙が溢れたが、痛みは治まらない。やっとの思いで岸に上り、崖から湧き出る温泉に入って目を洗った。

 死海に入っていたのは15分くらいと思っていたが、同行し、岸から眺めていた在アンマンの小畑日本国大使によると、20分も浸っていたと言う。

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死海に浮いたり立つ筆者

 南北78㎞、東西18㎞にわたる死海の周囲は、岩と瓦礫の荒野で雨は殆ど降らず、湿度は10%。流れ込むヨルダン川の水には塩類と硫黄分が含まれており、どんどん蒸発するのでミネラル分が自然に多くなる。マグネシウムは海水の34倍、ナトリウムは4倍、カルシウムは47倍、カリウムは24倍、塩化マグネシウムは86倍も含まれているという。そのため皮膚病に効能があり、細胞の代謝機能が活発になり、体内のエネルギーを大量に消費するそうだ。それに、湖底の塩や泥を使って化粧品や石けんまでも作っている。

 死海に浸かっていた後、近くの海岸沿いにある立派なホテルで、イタリア風の昼食を小畑大使と共にし、彼の車で標高800mのアンマンに向かう。途中の坂道で「ここに海抜零メートルの標識がありますよ」と言われたが、それどころではなくとにかく眠い。死海に長く浸っていたかららしく、異常に思える疲労感が全身に走り、まるで金縛りの術をかけられたように体が固まったようで、どうにもならなかった。ホテルまで送ってもらい、やっとの思いで部屋に転がり込んだ。

 高濃度の塩湖に20分も浮いた1時間後、不思議な疲労感、倦怠感、睡魔に襲われた。それは高濃度の高い浸透圧のせいで体内の水分が自然に吸い出され、重労働して大汗をかいたと同じように疲労したからだった。各種雑誌などのグラビア写真で何度も見て来たような死海に気持ちよさそうに浮く、ましてやのんびりと本を読む光景は、数分間の幻想でしかなかった。30分以上も死海に浸かっていると、それこそ本当の死海になりそうなことには気づいていなかった。

 ホテルで、夕食もせず、何も知らずに10時間ほど寝入った翌日は、ペトラの谷を見て回った。

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ペトラの谷
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左、ペトラのハズネー(宝物倉)右、エルー・ディル(修道院跡)前の筆者

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アンマンの小川で遊ぶ子供たち

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小畑大使と筆者






 

エデンの園バハレーン(1999年2月)バーレーン

 1999年2月7日の朝、カタールのドーハからバハレーンに飛んだ。アラビア半島とイランに囲まれたペルシャ湾の西岸にある、33の島々からなる群島の国である。日本ではバーレーンと呼ばれている、小さな立憲君主制首長国。その面積はわずか620平方キロメートルで、日本の淡路島よりやや広く、人口はわずか五十九万人の国。

 主な島と島は橋で結ばれており、バハレーン本島に首都マナーマがある。“バハレーン”とは、アラビア語で“2つの海”という意味で、島々を囲む海と豊かな地下水脈を表している言葉だそうだ。なんでも、古代から多量の地下水が湧き出て、古くからシュメール人が住みつき、西南アジアの貿易の中継地として栄えていた所であったとされている。

 私はバハレーンに着いてすぐに日本大使館を訪れ、大使に会った。前もって連絡していたので、大使は大変協力的で、いろいろな資料を集めてくれており、イラン系バハレーン人のアブドルさんを通訳、しかも運転手も兼ねて案内人として紹介してくれた。彼と2日間行動を共にすることにした。

 私はまず、バハレーン国立博物館に案内された。バハレーンの歴史は古く、ここはアダムとイブが住んでいた「エデンの園」であったといわれる伝説があり、その証拠品の数々が陳列されている博物館をぜひにということであった。

 博物館には、この島の古墳から掘り出されたたくさんのミイラや遺骨、それに土器、金銀の装飾品などが展示されていた。4千年以上もの歴史を飾る品々に驚かされ、改めてエデンの園の謂れに聞き入った。

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バハレーン国立博物館

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発掘された古墳の中の様子

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博物館に陳列された船と筆者

 “エデン”とは、イスラエルヘブライ語で“歓喜”を意味する古い言葉である。旧約聖書の創世記における人類の始祖であるアダムとイブは楽園に住んでいたが、神の戒めに背いてリンゴを食べ、楽園を追われた。そのアダムとイブが住んでいた楽園が“エデンの園”であったといわれているのだが、ペルシャ湾の海の中にある小さな島が、本当にエデンの園であったとは思えない。しかし、博物館の多くの遺品や至る所にある無数の古墳を見ていると、古代には繁栄していたのであろうと思いたくなる。もしかすると、古代には島ではなく、陸続きであったのかもしれない。 

 バハレーン本島の地形は、中央部の標高134メートルの丘のような山からなだらかな斜面になっており、北西部の低地に緑が多い他は、大部分が砂漠状の大地で、川のように水の流れている所はなく乾燥している。冬は穏やかで心地よいが、夏は非常に暑く、湿度が高くなる。自然環境を知れば知るほど、こんな島が4千年以上も前に栄えたことが不思議だ。

 アブドルさんの通訳で、博物館の研究員に古墳を案内してもらいながら、いろいろな事を聞きだした。

 この島は、旧石器時代の紀元前2600年頃には、すでにディルムン文明が興っていたそうだ。ティルムンとはシュメールの古い文献に出てくる地名で、現在のバハレーンのことだそうだ。そのティルムンは、インダスとメソポタミアの両文明の橋渡しをした重要な地域であったともいわれている。その証拠の遺跡であるティルムン時代からの古墳は、なんと大小十七万個もあったそうだ。このディルムンが、古代のユダヤ人たちによる伝説の地「エデン」として、いい伝えられていた所だというのである。

 乾燥した砂地のサール地区やアーリ地区には、いまも原形を留めた古墳が無数に残っている。それらの古墳は直径5メートル、高さ8メートルくらいのものから、直径30メートル、高さ25メートルくらいのものまでさまざまで、内部には1~3の石室があり、金、銀、宝石類、青銅器などの副葬品と共に遺体が埋葬されていた。乾燥地帯なのでミイラ化した遺体も多くあった。このような豊かな副葬品や無数の古墳からも、当時のこの地方が豊かだったことがわかるのだそうだ。しかし、ほとんどの古墳は盗掘により荒らされている。

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壊されかけた巨大な古墳

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アアリ古墳群 盛り土はすべて古墳

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中程度の古墳

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破壊された古墳

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古墳の中の石室

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夕暮れに浮きたつモスク横の巨大な古墳

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旧市街地のいたるところに古墳がある

 島の北西部にある低地のブタイヤ地区には、古代においてはペルシャ湾の海底を通って湧き出す地下水脈があり、草木が生い茂って人がたくさん住んでいたそうだ。もしこの島が本当にエデンの園であったとすれば、このブタイヤ地区のことだろう。それが、いつの頃からか定かではないが、地下の変動か何かによって、その水脈の湧水がなくなったそうだ。そのため、バハレーンは徐々に衰退したといわれている。

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ブタイヤ地区の遺跡
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4000年も前の古代遺跡

 しかし、ブタイヤ地区は雨量が少ないのにいまでも緑が多く、ナツメヤシなどが栽培されている農業地帯である。周囲を海に囲まれた高い山のない乾燥地帯の島に、地下水としての伏流水が多量にどこからどのように沸き出していたのか、不思議な自然現象だ。

 バハレーンは小さな島国だが、1933年からの産油国であり、経済的な資源は豊かで、一人当たりの収入は多い。今日では、高度に発達した通信および輸送設備によって、ペルシャ湾における多くの多国籍企業のビジネスの拠点になっている。そして、1988年には全長二十五キロにも及ぶ海上の道「キング・ファハド・コーズウェイ」が完成し、サウジアラビアと橋によって結ばれた陸続きの国になっている。

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市街地で遊ぶ子供たち

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サウジアラビアへの海上の橋「キング.ファハド.コーズウエイ」

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サウジアラビアへの道路標識

 それにしても、ペルシャ湾の海に囲まれた島国バハレーンは、旧約聖書に出てくるエデンの園であったといわれるにふさわしい、大小の古墳の多い不思議な国で、いまもペルシャ湾における近代的なビジネスの星として輝いている。

 

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夕方集まってきた子供たち

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マナーマの魚市場

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エビを売る人

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魚を売る人

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古い砦前の筆者

天山北麓のカザク族(1979年9月)新疆ウィグル自治区

 天山山脈はアジアを東西に2分する大山脈で、今では中国領とソ連領(当時)の不自由で厳しい境界になっているが、たいへん豊かな山岳地帯なので、もともとはいろいろな民族がこの山のなかに同居し、自由に往来していた。そのせいで、カザク族は、中国側にもソ連側にもいるが、大半はソ連のカザフ共和国に住んでいる。何より、モンゴル族やチュルク系諸民族のアルタイ系牧畜民にとっては大故郷であり、アルタイ山脈天山山脈とイリ丘陵地帯にかこまれた、ジュンカル盆地が彼らの競合地であった。はるか彼方の中央アジアの乾燥した大平原に移住したチュルク系の牧畜民は、今でも、この地方の生活習慣を残しているので、言葉や風習に共通性が多い。

 私は、1979年9月に、中国西端のウイグル自治区の中心地ウルムチを訪れた。そして、アルタイ系牧畜民の生活文化を踏査するため、70キロ離れた天山北麓の南山地方のカザク族を訪れた。長期滞在は許されなかったが、下の町から運び込んだキクズイ(包)に泊まり、牧民たちと生活を共にすることができたのだが、中国革命政権樹立以後、南山の牧畜民の村に滞在したのは私が最初の外国人だとのことだった。

 標高1,400~1、600メートルの天山山中のカザク族の夏営地には、110張りのキクズイと呼ばれる移動式住居があり、人口500人で、羊、山羊、牛、馬などの家畜が約8,000頭もいた。

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天山北麓にある南山の私が滞在した場所

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南山の煙突がるキクズイ

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私が運び込んで滞在したキクズイ

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天山北麓の森林地帯

 私は、広範囲に見てまわりたく、馬を借りて村々を訪れた。案内役と2人で、草の茂ったゆるやかな斜面をいくつも越した。高いところから見おろす天山のふもとは、緑のじゅうたんを敷きつめたような、美しい牧草におおわれていた。

 馬に乗った牧童に追われる羊の群れが、斜面を幾列にもなってゆっくり横切っていた。2、30頭の馬の群れは、地響きをたててあっという間に走り去る。人気のない大自然のようだが、いたるところで家畜や牧童に行き交い、たえず家畜の鳴き声や、牧童のかけ声が、こだまのようについてきた。

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羊が列をなして進む様子

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標高1600メートルで羊の群れを追う牧童たち

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夜明けにたたずむ羊たち

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標高1400メートルの高地での鶏

 丘の上や中腹、谷間などに、キクズイが2張りから5、6張りずつ小集団に分かれて散在している。標高1,600メートル以上のところに張った家族は、9月初め、すでに冬営地の山麓におりはじめていた。彼らは、アンパン型の移動式住居を取りはずし、ラクダや馬、去勢したヤクの背に載せて山をおりる。なかには、馬車に家財道具一式を満載し、道のないゆるやかな斜面を移動している家族もあった。

 アルタイ系牧畜民の移動形態の特徴でもあるが、カザク族は低地のジュンガル盆地を冬営地とし、天山山中の高地を夏営地としているので、その往復に中間地で数週間ずつとどまることから、正確にいえば年4回の移動になる。

 私は、久しぶりの乗馬で尻が痛くなって村にもどった。私か泊まるキクズイは、下の生産大隊から特別に運びあげたものでまだ新しかった。近くには8張りあったが、男は家畜を追っているので昼間はいない。

 「カザクとコサックのちがいを教えてくれませんか」私の世話をしてくれたハレリ(33歳)さんに、同行の通訳陸さんを通してたずねた。

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私を案内してくれたハレリさん(33歳)

 「カザクは民族名で、コザックは、“泥棒集団”のことです。だから、カザク族やウイグル族にもコザックはいます」

 彼は笑いながら答えた。数年前、キルギス共和国を訪れて質問したときも、同じ答えだった。日本では、カザクを“カザフ”とか“ハザク” とロシア語的に表記するが、現地人の発音は、はっきり“カザク”または“カザック”と聞きとれる。

 カザク族の骨格は日本人に類似しているが混血が多く、肌が白く鼻の高い人、赤ら顔で鼻の大きな人、肌が黄褐色で鼻があぐらをかいている人、黒毛、栗毛、紅毛、毛深い人、毛の薄い人、黒眼、碧眼、目がニ重まぶたも一重まぶたもいるし、背の高いのも低い人もいる。子どものお尻の蒙古斑がはっきりしているもの、しないもの……。民族的には東西南北アジアが複雑に入り混じっている。

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南山地区の主婦と少年

 カザク族の主食は、麦やコウリャンの粉で作るナンとよばれるパンと、牛や羊の乳製品と肉である。肉はカワプという焼肉や塩煮にするほかに、米と煮込んでたべる。きれいな水が豊富なのだが、飲み物は碍茶にミルクまたはバターを混入したスーチャイ。お茶を飲むとき、よく口にする乾燥発酵乳コルトには、中央アジアのツルクメンのように塩を混入していない。野菜はほとんど食べないが、生タマネギやニンジンを時々口にする。

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お茶の塊を削る主婦

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乾燥発酵乳コルト
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左 コルト作り 右 ベルト織り

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ジャガイモを切り刻む婦人
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左は羊肉の串焼き 右は羊肉の塩ゆでとボーサック(油揚げ)

 2軒隣のハレリさんの奥さんラビアハン(24歳)が、夕方コウリャンのパンを焼いたので、暖かいのをもらって食べたが、たいへん香りがよく、うまかった。彼女は夕食に、ボーサックとよばれる菱形の油揚げを作ってくれた。私たちは、塩煮の骨つき肉を手でつまんで食べながら、それを口にした。手づかみのせいもあるが、揚げぎょうざのようでたいへんうまく、なんとなく力がついてきそうな感じがした。

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パン粉を練る婦人たち

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コーリャンのパン
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窯を温めてパンを焼くラビアハンさん(24歳)

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近くに住んでいた家族。6人の子供がいた。

 牧童たちは、大隊から1日2元の日給を、1年に1度まとめてもらうのだそうで、現金はあまり手にしてなかった。私たちは持参のウイスキーとワインで、夜遅くまで、ランプの明りを頼りに酒をくみ交わし、語り合った。

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移動の準備で、ラクダの背に荷物を縛り付ける家族

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移動でキクズイを撤収し、食事をする家族

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馬で移動する家族
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馬にまたがる母子と少年

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標高1600メートルの天山北麓から低地へ移動中

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天山北麓の南山での筆者

 

中央アジアの遊牧民ツルクメン(1971年)イラン

 私は、1971年夏、かつてモンゴル高原近辺にいた騎馬民と呼ばれていたアルタイ系牧畜民突厥の末裔を求めて、中央アジアのイランやアフガニスタン北部をくまなく旅した。そして、イラン東北部のゴルガン平原で、アルタイ系牧畜民特有の移動式住居であるアンパン型のウイ(パオ)を張って、羊を放牧しながら生活しているツルクメンと呼ばれる人々と出会った。それ以来5年間、毎年ゴルガン平原を訪問した。

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ゴルガン平原のエグリボガズ村と羊を追う牧童

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一こぶラクダとウイ

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ゴルガン平原を行く馬車

 紀元5世紀頃にモンゴル高原アルタイ山脈南麓近辺に住んでいた、漢字で“突厥(とっけつ)”と表記されるチュルク系遊牧民が住んでいた。彼らが徐々に勢力を増して中央アジアに進出し、6世紀後半には部族連合の“突厥帝国”と呼ばれるチュルク系遊牧民国家を建国し、中央アジアの覇者となるが、やがて内紛によって分裂し衰退する。

 古代の中国大陸では“突厥”と呼ばれていた民族は、中央アジア周辺では”チュルク(トルコ)”が一般的呼称であった。ツルクメンとはそのチュルク系の民族名で、トルクメンソ連邦の共和国名である。

 ここでのツルクメン(トルクメンとも表記するが、ゴルガン平原に住む現地人の発音はチュ<テ>、又はツに近いのでトルクメン共和国名以外は、ツルクメンとする)という民族の呼称は、ロシア語だそうだ。

 ツルクメンによると、ツルク(チュルク)系の人々がロシア人と中央アジア接触を持ち始めた頃、胸を張って「メン、ツルク・メン、ツルク(俺はツルクだ)」と言ったのを、ロシア人が言葉の意味をよく理解せず、「トルクメン」と聞き違えたため、トルクメンと呼ばれるようになったそうだ。 

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ロバにまたがる婦人

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エグリボガズ村の少年と少女

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窯で大きな厚いパンを焼いた婦人

 ロシア帝国が最初に中央アジアに軍隊を派遣したのは、1717年にカスピ海北部のクルイエブであった。ロシア人が、中央アジアで最初に出会ったチュルク(トルコ)系の人々をトルクメンと呼んだのだが、やがて民族の名称になり、今ではその人々が多く住む地域が、ソ連邦の一共和国名「トルクメン」になっている。

 しかし、ペルシャ語ではそれ以前からツルクマネント(マネントは、~のような人)と呼ばれていたし、アラビア語ではツルクイマン(イスラム化したツルク)と呼ばれ、11から14世紀には、一般的にツルクコマン(ツルクのような人)とも呼ばれていたと言う。

 カスピ海東岸から、アラル海南部にかけて住む、半農半牧畜のツルク族が、ロシア人からトルクメンと呼ばれるようになって現在に至っているのだが、イランのゴルガン平原に住むツルクメンの多くは、自分たちを部族名で、ヨモト・テケ・ゴクランなどと呼んでいる。

 東北アジアモンゴル高原の辺りに住んでいた突厥であるツルク(チュルク=トルコ)族の多くは、6から10世紀にかけて、中央アジアの方へ逃走又は移動した。西ツルキスタンに住んでいるツルクメンは、ツルク系一民族の末裔である。

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左がエグリボガズ村で世話になったアマン

 かつては世界の中心であった中央アジア西トルキスタンは、ツルク系のチムール王朝が15世紀中頃に滅びた後、大きな王朝は建たなかった。しかし、ツルク系の人々は中央アジア全域に散在して住むようになった。やがて18世紀初めから南下政策を敢行したロシア帝国が侵入してきはじめ、徐々にその支配下に組み入れられた。

 19世紀に入ると、インド亜大陸を植民地化したイギリスが、中央アジアで南下してくるロシアに対して警戒を始めた。そのため、中央アジアが世界の注目の的になり、各国から多くの探検隊や調査隊が派遣され、国境が少しずつ明確になった。

 ロシア帝国が今のアシュハバードをトルクメニスタンの政治の中心地としたのは、中央アジアでは一番遅く、1881年のことであった。しかし、その後、領地の大半がツラン平原とカラクム沙漠であるトルクメンニスタンに政治力を浸透させることは困難だった。中でも、広い大地を自由に遊牧している牧畜民にはロシア帝国の支配力は小さかった。

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結婚式に集まってきた人たち

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結婚式の余興でゴルシアをとる若者

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ゴルシアを見る人たち

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結婚式に集まった人に振る舞うチョクツルメを盛り付ける

 1917年、ロシア帝国は共産革命によって滅び、1923年から中央アジア革命の戦いが始まる。やがて、ソ連邦の一部であるトルクメン共和国が誕生した。

 ツルクメンの大半は、現在ソ連邦トルクメン共和国内に住んでいるのだが、中には、アフガニスタンのヒンズークシュ山脈の北側や、イランのエルブルズ山脈から北のゴルガン平原にも住んでいる。アフガニスタンはもう百年も前から王国が続いて、大きなアム河の国境が明確であったので、ツルクメンはアフガン化しているが、イラン東北部のカスピ海東部に広がるゴルガン平原の国境は不明確であった。

 イランのパーラビ王朝が建国されたのが1925年で、まだ中央アジア革命の火が消えて間もない時であった。

 1928年、当時のイギリスの首相S・バルドウイム(保守党)と、イランのパーラビⅠ世(当時の王の父)とソ連邦スターリン首相の三者会談によって、イランとトルクメン共和国の国境が机上で決められた。

 ツルクメンは、この時をもって、共産主義トルクメン共和国側と、自由主義の王国イラン側に分離された。

 国境となったアトラク川から南のゴルガン平原にいたツルクメンは、イランのパーラビ王朝の歴史が浅く、軍事力も政治力にも欠けたため、一九七三年頃までイラン化せず、牧畜民ツルクメンの言葉や風俗習慣、気質を残していた。現在この地方のツルクメンは35万人くらいで、半農半牧で生活している人が多い。

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エグリボガズ村の風景

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放牧地から戻ってきた羊たち

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ゴルガン平原で現地の人と行動を共にする筆者

魔法のランプがあった街ヒワ(1973年9月)ウズベキスタン

 古都ヒワに、「アラビアンナイト」すなわち「千夜一夜物語」に出てくる「アラジンと魔法のランプ」のような魔法のランプが実際にあるという。それは、中央アジアの古都ヒワの古い小さなイスラム寺院の中にあるそうだ。

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ヒワの土の城壁

 私は、もしかするとアラジンの魔法のランプのような香炉に似たランプが見られるのではないかと、それこそ夢見心地で、ヒワという古い都がどんな町なのか見たくなって、1973年9月に、ウズベク共和国(当時)を訪れ、タシケントからアラル海近くのウルゲンチに飛んだ。

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ヒワ内城の入口と驢馬車

 眼下には緑のない枯れた砂の世界が続いていた。海と同じで風による波紋がついている。その中に、舗装された道が一本の黒い線のように続いている。そんな乾燥した大地に城壁に囲まれたヒワが見え、飛行機は徐々に降度を下げた。

 飛行機はアム川の水がいくつもの運河に別けられた緑地帯の中にあるウルゲンチに着いた。

 飛行機から車で約50分走ってウルゲンチホテルに着いて朝食をした。その後約30キロ南西にある砂漠の中のオアシス都市ヒワを訪れた。 

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魔法のランプがあったという古いイスラム教寺院の入口
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寺院の近くに座っていた老人と民家の入口

 人口2万5千人のヒワの町の門は、出口と入口の二門に別れている。ヒワはチャンカラという内城とでデシヤンカラという外城に分かれ、内城は四方を高さ7~8メートルの城壁で囲まれた26ヘクタールの広さだ。ヒワの古い建物はほとんどこの中にあり、街が世界的な文化遺産の博物館として保存されている。

 まず最初に、1851~53年にかけて建設されたカリタ、ミノルという塔を見た。ここはヒワホテル改修中だったが、もともとは拝火教ともいわれるゾロアスター教の死体置き場であり、火葬場として建設されたようである。

 そこから北に向かって歩くと、モンゴル帝国時代からある古い小さな寺院がある。ガイドによるとこの中に「魔法のランプ」があったそうだ。しかし、今は現物はないそうで見せてもらえなかった。なんでも盗まれて、今どこにあるかわからないそうだ。それにしても物語集であるアラビアンナイトに出てくるような「魔法のランプ」なんて本当にあったのだろうか。

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左、カルタ.ミノルの塔と右、イスラム.ホジャ塔

 そんな私の疑問をガイドさんにぶつけてみたら、次のような内容の伝説があることを教えてくれた。

 「昔々、ある商人がどこからか大きなランプを持ってきて、イスラム教徒の住むこの町の人に売った。ところが、このランプをよく見ると、十字のキリスト教のマークがついていた。そのことを知ったイスラム教のモッラー(司祭者)たちが怒って、その商人を捕まえていろいろ尋問したが、何も知らないと答えるだけであった。そこでモッラーたちはこの商人を宗教裁判にかけて殺し、そのランプをこのイスラム寺院の中に入れて密閉してしまった。それ以来、そのランプは魔力のあるものとして、一般の人の目に触れることはなくなった」

 寺院近くの日陰に座っていた老人は、今もまだこの寺院の中にあると言ったが、その真偽は分からなかった。

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ヒワの男と女の服装

 魔法のランプとは一体どんな型で、どのくらいの大きさのものだろうと思っていたが、話を聞くと、キリスト教の象徴である「十字」のマークに対するアレルギー反応の強さを表現したもので、どうもイスラム教に対するキリスト教の「のろい」の力があるランプとして取り扱われたようで、型や大きさに特徴があったわけではないそ

 のろいと言えば、その後、ヒワ汗国が起こり、約300年間も王都として栄え、フワーリズムの時代には奴隷売買が行われていた非人道的な町で、1920年代の中央アジア革命まで続いていた。当時はイスラム教の信仰中心地にもなって、寺院が94、学校が63もある、シルクロードの封建都市であった。そんなこともあって歴史博物館には当時の人身売買や街頭での首吊りなどの悲惨な風景画がたくさんあった。

 ヒワの市内には古い廟や寺院や塔や土の家が多く、どこを歩いても砂漠の中のイスラム教徒の街の臭いがする。それは、2~3百年も前の中央アジアイスラム教徒の町がそっくり残っているし、今も人が住んで日常生活を営んでいるので、まるで魔法のランプから出て来たような、過去と現代が同居したような、何とも不思議な感じのする歴史的遺産の街であった。

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ヒワ内城にたたずむ筆者



 

中央アジアの石人バウバウ(1994年8月)キルギス

 1994年8月28日、中国西端の町カシュガルから、天山山脈から流れ出るトマン川の上流に向かって車で西へ進む。キルギスとの国境まで166キロ。標高3,800メートルもあるトルガルトの国境は日曜で越すことができず、国境事務所の簡易ベッドで一夜を過ごす。高地なので寒さと頭痛がひどかった。

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トルガルトの国境、左がキルギス

 キルギス共和国に入国し、木一本生えていない荒涼とした高地を走る。ナリン経由で、標高1,600メートルのイシク湖岸にある町コムソモールに着く。

長さ180キロ、幅60キロのイシク湖はまるで海だ。泳いでみると、ソーダ分が少しふくまれているが、魚はマスやコイなど数種類が棲んでおり、魚を釣る人々がいた。

 湖岸の天山山脈南麓、標高1,800mのチョルボンアタの地に、氷河の運んできた岩に描かれたサイマルタジ(岩面画)があった。灼熱の太陽に晒された玄武岩の表面が黒褐色に変形した岩面に、動物や人の姿が刻まれていた。なんでも2700~2300年も前の岩画だそうだ。

 私はコムソモールの町に3泊した。滞在中にイシク湖を見下ろす山岳地の牧畜民、ザキル・ニヤゾクさん(62)のホウズイ(移動式住居)を訪れた。彼は、三男五女の子だくさんだが、三男のタランツベクさん(22)以外はいなかった。奥さんのチュツーさん(54)は寡黙な女性だが、いろいろ世話をやいてくれ、お茶を何度も注いでくれた。

 キルギス共和国の総人口は350万人だが、キルギス系の人々は約51%で、ロシア系が29%。その他は、ウズベクやカザク系などである。キルギス系の5~7%が農民で、わずか3%が牧畜民だそうだ。

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イシク湖を見下ろす高地の放牧地

 ザキルさんは約200頭の羊をタランツベクさんと2人で放牧しているが、9月下旬の雪が降り始める前に山を下りて、低地の方へ移動するそうだ。

 昼食は、ザキルさんのボズウイの中でいただいた。最初に出たのはクウームズと呼ばれる馬乳酒で、アルコール分が11%もあった。一般的には2~3%であるが、強くて少し酸味があり、食前酒のようだった。

 チュツーさんが昼前から準備してくれたキルギス料理は、「コールダック」と呼ばれる羊肉とレバー、じゃがいもを煮たものだった。パンにその煮汁をつけて食べると食べやすく、味も良かった。ヨーグルトやバターもあり、トマトとキュウリのサラダもあった。

 夕方、町からの迎えの車がやって来たので、皆さんに礼を述べて別れを告げた。三男の妻ナジラさん(20)が、生後8か月の長男エルメック君を抱いて見送ってくれた。

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ナジラさん

 イシク湖岸から、首都ビシケックのあるチュー谷へと移動した。標高7~800mのこの広い肥沃な谷に、東北アジアからチュルク(トルコ)系の突厥が、紀元6世紀頃移住し、西突厥の王国を建て、プレイスラム文化を築いた。当時の貴族の墓に建てられた石人が「バウバウ」であり、今もまだ残っている。

 ビシケックからブラナダまで75キロ。ここには「バラサグンム城」があったが、13世紀中頃モンゴル軍に破壊された。残ったのはブラナダの塔だけで、今ではそれが地名になっている。バウバウは、バラサグンム城を中心とするチュー谷に最も多かったが、その後のイスラム教徒化した牧畜民たちが運び出して石材に使ったので数か少なくなった。そのため1970年から旧城内に野外博物館を作り、保存のため各地からバウバウを集めた。

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古い時代の画像と現存の石人

 中国大陸では、漢代に石人、石獣を墓前に置く風が起り、特に山東省や四川省に広まった。それはやがて、中国大陸の沿岸から船出して、グアム島イースター島に渡ったに違いない。

 西へは、天山山中のこのチュー谷を経て、カスピ海近辺を通り、今日のトルコまで伝播している。

 日本では、古くは五世紀頃に石人を墳丘周辺に置いたようで、特に九州の福岡・熊本・大分県の古墳に分布している。

 本来の仏教に墓はない。しかし、日本仏教には墓石まである。これは仏教以前に、石人文化が渡来していたためと思われる。

 日本の墓石や地蔵石の源流が、東北アジアの騎馬民文化である「石人」だとすれば、チュー谷のバウバウは、その石人の原型をとどめている石造文化である。

 アルタイ系の牧畜民が作ったチュー谷のバウバウには、猿のような型もあれば、地蔵のような型もある。また袈裟を身に着けた僧のようなものや、グラスを片手にした貴族然としたものもある。死者の記念石として似せて作られたとも言われているが、必ずしもそうではなく、少々変形されているようだ。古代の石人たちを眺めていると、いろいろな型や表情があり、ありし日の姿を勝手に想像し、何だか楽しくなってくる。

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チョルボンアタの”サイマルダシ(岩画)”と筆者
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ブラナダの塔と野外博物館に各地から集められた石人群と筆者

カラシュ族の祭り(1975年8月) 北パキスタン

 ヒンズークシュ山脈南東側のチトラル地域のカフィリスタンに、多神教の“カラシュ族”が昔と変わりない生活を続けているそうなので、私は1975年8月25日、ペシャワールから彼らを求めて旅をした。

 バスやトラックを乗り継いだり歩いて、標高3,000メートル以上もあるロワリ峠を越して、深い谷を渡り、黒松やトド松の多い高い山の、大変険しい山道を登ると、緑の多い美しいブンブレット峡谷が見えて来た。その中心地はチトラルと呼ばれる地域。チトラルの村から10キロほど離れたカフィリスタンにあるブルン村は、両側を岩山に挟まれた小川沿いにあった。 

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ブンブレット渓谷

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ブルン村

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私が世話になったアブドルさん夫婦

 私は、同行の通訳兼ガイドの計らいで、2人の奥さんのいるアブドル・ラヒマさん(35)の家に泊めてもらった。彼の妻たちは、石板や鉄板でトウモロコシの粉でパンを焼き、インゲン豆やトマト、タマネギなどの野菜にカレー粉を入れて煮た、「シャク」という比較的日本人好みの煮物を私のために料理してくれた。

 ブルン村は51軒で、213名が住んでいる。村には神社(マハンテオ)が2つと、神殿(ジェスタカーン)が3つあり、女性だけが訪れる「バシヤリ」と呼ばれる産屋(うぶや)でもある“忌み小屋”が2軒と共同墓地「マダウジャオ」が1ヵ所ある。

 神殿の入口には山羊の彫刻や人間と家畜の絵があり、扉には幾何学模様が彫り込まれ、内部の柱や壁には美しい彫刻が施されている。

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左はマハンテオ(神社) 右はジエスタカーン(神殿)

 8月の畑にはトウモロコシが栽培され、いたる所にクルミの大木がある。桑の木には葡萄の蔓がからみ、実がたくさんついている。野良仕事はたいてい女の手によるが、遠くへ出掛ける羊や山羊の放牧は男の仕事。

 カラシュ族の女性は、手織りの黒くて長い、羊毛製の貫頭衣「チエオ」と呼ばれるだぶだぶのロングドレスを着て、腰で結んでいるせいか皆長身に見える。胸には赤・青・黄・白色のビーズの首輪が数十本も束ねられているのでカラフルだ。少女は「シュシュツ」というバンド形の帽子の端を腰まで垂らし、女は「クパース」と呼ばれる、子安貝を一面に縫い付けた頭巾のような帽子を被っている。一見正装のようだが、いつも同じ服装だと言う。男は「カション」という羊毛製の帽子を被り、ズボンとシャツ姿である。

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娘の普段着

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村の中を歩く少女

 8月25日から3日間、「ウチャウ」という豊年を祝う収穫祭であった。私は26日の昼前からその行事を見た。正午すぎ、村を見下ろすやや高い所にあるマハンデオ(神社)では、生贄の山羊が首を切られ、若い男が鮮血を両手に受け、馬の木偶に投げかけた。そして、老人の祈祷師が、天に向かって両手を差し出し、声高に祈り続けているうちに、陶酔の極みに至り、失神して倒れた。

 午後8時過ぎから村人たちは広場に集い、男たちは中央で小さな輪になって、父系の先祖たちの名を呼んで、日本の御詠歌のようなリズムをつけて褒めたたえた。そして、10時頃に満月が東の山から顔を出すと、太鼓が叩かれ、女たちは囃子詞(はやしことば)を入れながら、6、7人が肩を組み、足を弾ませて踊り始めた。同じような動作を繰り返し繰り返し、午前3時頃まで踊り続けた。日本の盆踊りの雰囲気によく似ており、一種の先祖祭りでもあった。

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10歳以下の女の子の被り物 右は宝貝を縫い付けた女性の被り物

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畑のそばで遊ぶ子供たち

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小川のそばにある畑で働く村人

  カラシュ族の男女関係は大変自由で、結婚も離婚も至って簡単。

 最初の結婚は男女ともまだ16、7歳頃なので、たいてい親が決めるそうだが、お互いに気に入らなければ離婚する。2度目からは自由意志で再婚できるし、女性が同意し、両親に十分な結納品を渡せば、男は重婚をしてもよいことになっているので、アブドルさんのように妻が2人いても不思議ではない。

 女性は月経が始まると約5日間、子どもが生まれた場合は10~15日間、女しか入ることが出来ないバシヤリで生活する。産後は約3ヵ月間、トイレに行く他は何もしない。だから夫が代わりに全てをするそうだが、妻が2人いるとその必要はないという。

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村の中の広場で遊ぶ男の子たち

 カラシュ族で最も特徴があるのはお墓だろう。まず死者を彫り物のある立派な木棺に入れて、マダウジャオ(共同墓地)に運んで地上に安置する。棺の上には右をのせているだけだが、家族の夢見が悪いとか、事故が続くとか特別なことがない限り、2度と開けることはないそうだ。しかし、10年以上もの古い棺は崩れて中が見えるが、そのまま放置する。死者の魂はマハンデオに行くというので、先祖の霊を敬う祖霊信仰でもある。

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村の共同墓地(マダウジャオ)

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死者に似せて作るクンドリック(木偶) 異教徒によって顔が切り取られている

 死者を葬った後の家族は、死者に似せたクンドリック(木偶)を彫って村の入り口か道沿いに立てる。

 なお今日では、イスラム教を国教とするパキスタン政府から死者を土葬することが義務付けられているので、墓地には新しい木棺は見当たらなかった。

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左は化粧した娘、右はアブドルさんの第一婦人

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月明かりの下で夜中過ぎまで踊り続けた女性たち

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太鼓とお囃子でリズムをとって踊ていた。
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左は村人と踊る筆者 右は、チトラル地域の領主と筆者

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チトラル地域を馬で踏査する筆者

ラマ教の歓喜仏とレーの町(1976年9月)ラダク・インド西北部

 私はブータンを訪れた後、同じラマ教文化圏のインド西北部にあるラダク地方を、1976年9月に訪れた。ラダクは、もともと西チベット高原の一部で、カシミールの首都スリナガルから標高4,000m以上もの峠を越して行く高地。9月末にはもう寒く、5・6千m級の山々はすでに白く、狭い谷間にチベット系の人々が、家畜を放牧し、麦を栽培して、四角い土の家を建てて生活を営んでいた。

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上はインダス河沿いのレーへの道 下は車の運亭主と筆者

 標高3,500mもある中心都市ㇾ―は、インダス川沿いの平地にあり、周囲を高い山々に囲まれていた。緑が多く稲作地帯であったブータンとは異なって、自然環境が大変厳しく、寒くて乾燥していた。山に樹木はなく岩と砂地の世界で、人々は麦を栽培し、家畜のヤクや山羊、羊を飼育したり放牧したりの半農半牧畜業である。今麦の収穫期で、郊外の村では麦の脱穀作業が盛んであった。

 町や村は、たいてい山麓か丘の上にあって、要塞化している。ㇾ―の街は山麓の平地にあるが、ゴンパと呼ばれる要塞化したラマ教寺院は尾根にあった。

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レーの町の入口

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レーの中心地と丘の上のゴンパ(要塞化したラマ教寺院)

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丘の上から見たレーの町と郊外の風景

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レーの中心街

 ラマ教は、チベットのソンツエン=ガンポ王(569~650)時代に、インドから伝わった仏教が、民間信仰の「ボン教」と同化し、チベット高原を中心に発達した宗教であったが、13世紀以後は、モンゴル族元朝王室の保護を受け、満州からモンゴル高原にまで布教された。

 ラマとはチベット語で、“勝者”または“すぐれた人”を意味し、仏教を学び修行を積んだ僧のことである。チベット仏教では、各自の宗教上の師匠を「ラマ」と呼び、弟子たちはラマの教えや伝統を大変に重んじており、一般的な仏教の3宝である仏・法・僧のほかに、“活仏”でもあるラマを加えて4宝を尊重する。そのため、チベット仏教以外の仏教徒ヒンズー教徒などから、「ラマ教」と呼ばれるようになったといわれている。

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典型的な老婆の衣装 右はチャン(麦の酒)を注ぐ婦人

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レー郊外の道沿いにあったチョルテン(仏塔)

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郊外から見たレーの町

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農村における麦の脱穀風景
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豊かな民家の台所 右は幼児を背負う少女

 ラダク地方は、ブータンなどよりも遥かに古くから、たくさんのラマ教寺院があった。なかでも、“アルチゴンパ”は、1,000年以上も前に建立されたラマ教初期の寺院で、騎馬民系の諸民族が好んだといわれる動物模様が、天井一面に描かれている。

 ラダク地方のどのラマ教寺院を訪れても、壁一面に仏画が描かれている。それは、ラマ教思想の扇動者たちが、文盲の誰にでも理解されやすいように考慮した絵物語であり、庶民的なイラストレーションで、セクシュアルでユーモラスでもある。何より、最も目につきやすい仏画は、“男(ヤム)女神(ユム)”合体の“歓喜仏”である。

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ゴンパの壁に描かれた歓喜
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男神(ヤム)と女神(ユム)の合体仏画 歓喜

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アルチゴンパの大変古い歓喜

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ラマ教寺院(ゴンパ)ではよくみられる仏画歓喜

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寺院の壁に描かれた獅子舞のようなヤク

  ラマ教の根源的な思想は、男神と女神の接合から全てが生まれ、始まるとされているので、信徒が男神(ヤム)と女神(ユム)の接合体を拝むと、財宝福徳を受け、子宝に恵まれ、繁栄すると言われている。

 歓喜仏には単身と双身があるが、双身は男女神が抱き合っている。しかも、女神のなまめかしいお尻の下に、男神のシンボルが垂れ下がっていたり、女陰や男根を巨大に描写したりしているので、大変エロチックなイラストレーションでもある。

 歓喜は仏教語で「カンギ」と読み、宗教的な喜悦を意味し、“歓”は身、“喜”は心の悦びだとされている。

 ラマ教の旧教派を国定宗教とするブータンの寺院には、新教派のラダク地方よりもはるかに多くの“歓喜仏”が描かれていたが、仏画そのものはほぼ同じであった。

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土のレンガで作られた家

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レー郊外の風景 岩山には木が生えていない

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レー郊外の北へ向かう道

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馬にまたがりレーに向かう村人

聖地スリパダに登って(1991年2月)スリランカ

 聖地と呼ばれる所は世界中いたる所にあるが共通しているのは、自然環境に恵まれ、そこに佇むことによって、より多くの人の気が晴れ、心地が良くなることである。それは、自然と共に生きる人間の心情である。それを信仰と呼ぶか、生きがいと呼ぶか、娯楽と呼ぶか、それぞれの主観によるだろうが、あえて観念の世界に押し込んでしまうのではなく、ありのままを認め、自然と共に生きる人間の生きざまを、もう一度再認識することが必要なのではないだろうか……。

 そう思いながら、熱帯の仏教国スリランカの、標高2453メートルもある聖地スリパダ(仏足山)に登ってみようと、宗教戦争の1種ともいえる湾岸戦争が始まった後の1991年2月7日に日本を出発した。

 1週間の予定で紀元前からの仏跡を巡った後、首都のコロンボから同行の運転手兼通訳のウイマル氏(35)と登ることにした。彼は熱心な仏教徒である。

 当日は朝から肉や魚、卵まで断ち、多くの人々と共に、スリパダを源流とするキャラニ川で身を清めた。午後1時半から登り始めた。

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 多くの登山者に話しかけてわかったことは、半数ほどが1年に1度は登り、男は11、2歳で、女は13、4歳から登り始めたということである。30年以上も前はジャングルの道で、登りづらかったが、今ではコンクリートの階段がついて整備されており。5、6歳から登っている。家族、親戚、地域の有志などのグループが多く、個人で登る人は少ない。

 村からしばらくは茶畑を進むが、やがて原生林の茂る道を、清流の岩をかむ音を聞きながら登る。高地に進むにつれ、空気が涼しくなり、肌が引き締まり、気分が高揚してくる。3時間もかけ、7キロ弱の山道を登って森林を出ると、200メートルもの弾丸のような岩山がそびえる。ここから頂上までの階段は急で、悪事を働いた者は落ちるといわれている。そうでなくても高所恐怖症の人は足がすくんで登れないほどである。なかなかきつい勾配だが、5時過ぎには登り切った。

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 スリパダの頂上から眺めると、遠くには半円状にインド洋が見え、周囲にはいろいろな形をした山々の頂があり、近くには濃い緑の樹海が取り巻く。まるで地球の中心に立っているような気がする。

 頂上は50坪ほどの広さに小さな寺と大きな岩がある。その岩の上のコンクリートの小屋の中に仏足跡がある。

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 伝説によると、釈迦はスリランカを3度訪れ、最後にこの山上で説法をした。当時の王が何か記念にと頼むと、岩の上に足跡を残してくれたという。後に、ポルトガルの航海者バスコダガマがこの地を訪れ、宝石で作られた仏足跡の一部をかぎ取り、持ち去った。それを知った当時の王は、今後はこうしたことがあってはいけないと、その上に大きな岩を覆い、その岩の上に1メートルもの仏足跡を作った。今日登頂した人々はまず寄進し、それに額づいて礼拝するが、家内安全とか大願成就などのような頼みごとをするのではない。それでは何故こんな高地まで登るのか、多くの人々に尋ねてみた。

「気持ちがよくなるから」、「幸せになれるから」、「安心できるから」、「眺めがよいから」、「元気になれるから」というのが多く、「釈迦を礼拝するため」と答えた人は少なかった。 それでは登らないとどうなるのかとの質問には、「落ち着かない」「災難に見舞われる」、「不幸になりそうだ」「淋しくなる」と答え、初めての者は、「素晴らしい、また来たい」、「寒い、疲れた、でも気持ちがよい」などと言った。多くの人が寒い一夜を頂上で過ごした。

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 午前6時25分、連山の頂からの御来光は、世界のどこで見たよりも美しかった。しかし、人々は日本人のように祈ったり、頼みごとをしたりするのではなく、美しいから、楽しいから、珍しいから日の出を見るのであった。

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 緑の濃い原生林の樹海を登りつめ、肌の震える空気に触れ、昇りくる太陽と雲海のたなびく夜明けの大地を見る驚きや喜びは、信仰以前の自然への畏敬の念にかられる。それこそ、人類が有史以来伝えてきた生活習慣としての文化なのである。それを教義や観念の世界に追いやって宗教という範疇で理解しようとするようになったのは、人類史からすると、ごく最近のことでしかない。

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スリパダのふもとに建立されている「立正安国」の碑と筆者

 大自然の営みに比べると、人類の思考する観念の世界は小さく、膠着化しやすい。宗教という観念の世界をつくり、それを守り、広げようとしてきた人類は、発展と争いに明け暮れてきたが、これからの高度に発展した科学技術による文明社会では、普遍的真理である自然と共に生きる理念の共通性を、素直に認め合うことが大切なようである。

ヒマラヤのシェルパ族の結婚(1979年12月)

 ヒマラヤというのはサンスクリット語で“雪の家”という意味で、一年中雪の消えない高い山々を象徴した名称である。

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飛行機から見るヒマラヤ山脈

 ネパールとチベットの境であるエベレストの近くにクンブユーラと呼ばれる聖山がある。ネパール側のこの山の麓のタモ谷に、シェルパ(東の人)と呼ばれるチベット系の人々が生活している。私は、そのシェルパ族の生活文化を踏査するために、1979年12月中旬に、シエルパ族の中心地ナムチェバザールから西側の、タモ谷にあるターメ村を訪ねた。

 標高4,000mもあるターメ村は約50軒、120人の村人がいた。周囲の岩山は白く、村の畑も雪に覆われていた。土と石で積み上げた壁の家は、屋根を石板でふいている。1階は家畜小屋で人間は2階に住むが、中は暗く、絶えず薪を燃やしていないと寒い。彼らは半農半牧畜民だが、女が農業に従事し、男は家畜のヤクを放牧する、男女分業になっている。といっても、よく働くのは女で、男は暇を見つけては他の家や村を訪ねて雑談する時間が多い。

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タモ谷にあった経文を刻んだマニ石の塔

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ターメ村

 未婚の男は、気に入った娘がいると、その父親に自分を売り込んで、同宿させてもらい、仕事を手伝う。その代わり、夜は娘と会うのだが、娘に気に入られないと何もできないので、やがて家を去る。

 若い男が娘の家に同宿するのは結婚目的ではなく、男女の出会いが女の家なのである。男女関係については、父親も母親も干渉の権利がないので、15、6歳にもなれば、自然の芽生えに開放される。

 シェルパ族の社会では、未婚の男女関係に掟はなく、お互いに独占の権利もない。結婚は女の父親の承諾がないかぎりできないので結婚と恋愛は全く別なことであある。たとえ子どもができても、父親の同意が得られない場合は男が女の家を去るか、男が女を掠奪して遠くに逃げるしかない。

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村の中で枯草をはむヤク(チベット牛)

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村に入る前の花嫁を迎えに来た一行の一部 真ん中が新郎

 父親は娘の結婚承認権だけあるが、それは息子にはない。もし、娘が未婚の母になったとしても父にその責任はなく、恥でもない。未婚の母になるのは一般的なことであり、男の出入りが多いのは、女に価値があるからともみられる。

 自由恋愛のシェルパ族には、結婚適齢期などあまり重視されていない。男が30歳でも40歳でも初婚であったり、女が25歳や30歳で子どもを2、3人連れて初婚の場合であったりもするし、お互い20歳前後で結婚する場合もある。

 シェルパ族の結婚は“妻間婚”で、男が女の家を訪れて問いかけ、女が男を選択し、女の父親が同意すれば結婚式が盛大にとり行われる。

 世界中どこでもそうだが、シェルパ族でも結婚は社会的な掟があり、複雑な手続きや儀式があって、かなりの時間と費用を要するし、親族一同や村人などの協力を得なければならない。 

 見合い、結納、親族顔合わせなどのような3つの儀式があって、最後第4の儀式である“ゲンゴト”は、女側の結婚披露宴で、親族一同と村人が女の家に集まって盛大に祝い、男側からの迎えを待つ。

 迎えの一行が着くと、家の入口で酒を十分に振る舞って歓迎をする。

 「ヘーイギャロル(神に勝利を)」

 酒をふるまわれた一行はこう叫びながら、右手に握った米粒を空に投げ上げて家に入る。家の中ではお互いを紹介し合い、女側の持参品目を読み上げ、最後にこう告げる。

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迎えの一行にチャン(麦の酒)を勧める婦人
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酒の入れ物抱える新郎側の青年 右は花嫁側の女性
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迎えの一行をもてなす花嫁側の人々

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花嫁の家の入口にたたずむ新郎

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家の前の新郎と新婦

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迎えの一行を家の中に呼び込む

 「もし、彼女が離婚する場合には、これらの品目が彼女にもどされることを、ここにいる全員が承認して下さったものと思います」

 女が離婚したい場合は仲介者をたて、結婚するために男が父親に払った、僅か100円を返せばよいという。

 儀式が終わると全員が飲み、食い、歌い、踊る。迎えの一行は村の家々を訪れる。村人は快くもてなし、一行が翌日の昼頃、女を連れ行くのを見送る。

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迎えの一行の婦人たち

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花嫁の家での振る舞い

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花嫁の家族のふるまい

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ふるまいを受ける迎えの人々

 迎えの一行が新婦を連れて戻ってくると、新郎の親族、村人、友人、知人すべてが参集する。彼らは新郎新婦の前に各自の酒樽を差し出して祝いごとを述べる。

 「よくやった。おめでとう」

 「おめでとう。大歓迎します」

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迎えの一行が出立の準備

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花嫁を見送る村人

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村を出る一行

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花嫁を連れて帰る一行

 この新郎新婦の前に置かれた酒を“ドンチャン”という。これは“祝い酒”もしくは、“迎え酒”という意味であり、儀式の後、全員が飲み合い、まる一昼夜肩を組んで歌い、足音高く踊る。そこには民族の歴史とリズムと歓談が渦巻いている。

 シェルパ族がドンチャンを飲んでどんちゃん騒ぎをするのは、お互いの絆を深め、確かめ合う儀式であり、男と女の結びつきを公式なものにする儀式であり、最大の娯楽である。

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花婿の家でドンチャンを飲んで歌い踊る人々
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左はナムチェバザールのシェルパ族の女性と筆者 右は新郎の家での筆者

 

長老になるための”石牽き”(1979年1月)ナガランド

 ナガ高地の人々の多くはアニミズムで、万物の精霊が石に宿ると信じ、“石は永遠”だという。しかし、自然石には悪霊が宿りやすいが、人工石には善霊が宿るのだそうだ。そのため、村の人口や村と村を結ぶ道沿いには、魔除けとしてたくさんの石が建てられている。しかも、石が大きいほど霊力が強いとされているので、財力のある人は、より多くの人によって、より大きな石をはこんでもらって建てようとする。 

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ヨルバ村前景

 私はナガランド州都のコヒマに滞在中の1979年1月初めに、石牽き行事の英文招待状をもらった。差出人はヨルバ村有志とあった。

 「ヨルバ村の住人ヌルイ・サルーさんが、1月25日に第4の振る舞いをしますので、あなたも是非ご参加くださいますようにお願いいたします」

 私は、先夜にヌルイさんの家に泊めてもらった。翌日は7時半から人口1200人の村を見て回った。どこへ行っても歓迎された。村人たちは、1944年5月頃の“コヒマ戦争(日本軍と英国軍の戦い)以来、初めての日本人が村に来ると大騒ぎになっており、村人たちは一昨日から私を待って、昨日は一日中道沿いで待っていた人が多かったそうだ。

 56歳のヌルイ・サルーさんが、40歳から村人全員に3回の振る舞いをし、4回目の今日、村人はそのお礼に、ヌルイさんの名のもとに“記念石(ザトツオ)”を牽いて建立するのだが、最大規模の石牽き行事(ツオスー)なるそうだ。

 私は、早朝からツオスーに参加する村人たちを見て回った。参加できるのは男だけで、女は見物できるが、参加は出来ない。男たちの身支度は、黒い腰巻、赤い竹製の脚絆、赤と白の縞になったカラフルな広い帯を左肩から胸に掛け、熊の皮の黒い帽子をかぶって、サイチヨウの尾羽3本さしている。腕には象牙の腕輪を、手首には赤い布を巻き、赤い布の耳飾りもつけている。

 男たちは、少年から壮年までがおなじような衣装で、少年は両親に、青年たちはお互いに身づくろいをし合っている。ヨルバ村は、山の尾根にある2つの丘からなっている。村と村の間には広場があり、沢山の記念石が林立している。

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道沿いの記念石

 村人たちは、11時に広場に集まった。壮年・青年・少年と一列に並び、村の長老を先頭に声を掛けながら進んだ。他の村からの参加者たちも次々に合流し、次第に長くなる。約3キロ下った所のチャゾウバの村に着き、そこから更に1キロ下った所に、1トン以上もある大きな石が木馬(木ぞり)にのせてあった。

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妻に飾りをつけてもらう夫

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村の広場に勢ぞろいした男たち

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子供たちは大人の指導を受ける

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青壮年の衣装のチェック

 村の長老が石の上に立って挨拶をした。六か村から2,500人の男がこの石牽きに参加し、前例のない規模になったという。12時半に長老の合図で、ひき綱の蔓を握った全員の掛け声で、石は坂の上に向かって進み始めた。

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長老のあいさつ 隣は州大蔵大臣のバ・ムゾウさん

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石牽き開始

 しかし、2、30メートル進んで止まった。あまりにもたくさんの人が牽くので、人の手首大の蔓が切れたのだ。先頭を5、6歳の少年が牽き、青年が中央、そして壮年の体験者たちが、石の近くを牽き、長い青竹で舵を取る。

 2,500人もの男が2列になって、掛け声もろとも石を牽く。大量のエネルギーが渦巻き、共同作業の華やかさと、興奮のせいか、幾度も蔓が切れ、チャゾウバを過ぎる頃には、仕方なくワイヤーを巻き付けて牽いた。石は徐々に坂道を上り、木馬の通った後には2本の線が続いた。

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石の上に立っているのはバ・.ムゾウさん 沿道で見る村人たち

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長蛇の列の先頭は子供たち

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掛け声とともに大きな蔓がひかれて進む

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石を乗せた木馬の通った跡

 人数によって石の大きさは違うそうだが、初めは1,500人の予定であったが、“日本人が来る”という噂が広がり、ナガ高地での“日本戦争”の話に尾鰭がついて語り伝えられているので、若い世代の者が、日本人見たさに参加したようだという。私が参加することを知らせた、州の大蔵大臣で私の世話をしてくれたバムゾ氏自身も、これだけの人が集まるとは思わなかったとつぶやいていた。そんなこともあって、主賓客である私が、石の上に上がることが許された。

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石の上に乗った筆者

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石を所定の場所に牽き上げ 丘の上の広場に集まった人々 

 午後3時半、村の入り口の所定の場所に着いて、石牽きは無事終わった。

 ヨルバ村の丘の上にある広場に全員が集まり、列をなして行進し、歌い、踊った。そして、30分後に、ヨルバ村の男たちだけがヌルイさんの家を訪れ、広い庭で儀式用に足踏みをし、歌い、踊り、奇声を発した。

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広場で踊る若者たち

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ヌルイ・サルーさんの家の庭に集まった若者たち

 それが済むと、ヌルイ・サルーさんがお礼の挨拶をした。そして、ヨルバ村の青年たちが、老若男女3,000人以上もの参加者全員に米飯と肉料理を振る舞い、男たちにはズトーと呼ばれる酒もふるまわれ、夜遅くまで、たき火を囲み、飲み、食い、歌い踊ってにぎやかな時が流れた。

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挨拶するヌルイ・サルーさんとふるまいをする若者たち

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子供たちにもふるまわれる

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村の若者たち

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焚火を囲み夜遅くまで歌い踊った。

 第4のふるまいが終わると、文字のない記念石が建立され、家の入口の屋根上に木製の大きな角をあげる。この角を“ケチ”と呼ぶ。

 ケチがあがると、その家の家長は、長老になり、村の政に参加する資格を得たことになる。しかし、長老は、その人格を全面的に信頼され、慕われる権威的存在でしかないから、個人的に豊かになるわけではない。長老は、村社会の信頼と尊敬を得て、村社会に尽くすことを本分としている。ケチがあがって長老になるのは、一代限りで息子に世襲されることはない。

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途中の休息時に村人たちと筆者 左隣はバ・ムゾウさん

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石牽きの翌日建立された石(右側)

秘境コニャック地方探検②(1979年1月)ナガランド

 黒い顔と首狩りをしたカオ王

 サンユー村に1泊した後モンに戻り、コニャック地方で最も危険で野蛮な王がいると言われるチュイ村を尋ねることにした。1月16日の朝出発し、午前10時頃には村に着いた。

 チュイは山の上にある大きな村で、2,200人のコニャック族が住み、活気があった。村の一番上にある王の家は、間口18m、奥行き73mもある世界一長い、茅葺きの平屋である。家の入口まで行くと、左側の壁には人間の頭蓋骨が100個余、4段に並べられていた。

「すべて首狩りしたものです」

 コニャック語通訳のマンドンさんが教えてくれた。村の人は墓地に葬るが、首狩りした頭蓋骨は、村の戦闘力の証明として、王家の戸口に陳列される。

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カオ王の家の入口左側の壁に陳列されていた頭蓋骨

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カオ王の家の入口

 「今はもう首狩りをしていません。これらは10数年前までのものなので、心配しないでください」

 マンドンさんは笑いながら言った。

 紹介された小柄なカオ王は、顔一面に入れ墨をし、ニコリともせず、野獣のような鋭い視線で私を凝視した。

 インドの平地に住む文明人は、中央政府や州政府に対しても抵抗力の強いこのカオ王を、「11人もの妻がいる野蛮な男」と、いかにも非文明人で愚かな人物として悪評し、恐れていた。しかし、現地で会って話してみると、村人に支持された、大変賢い王で、イギリス植民地時代にも入域を自由にさせなかったそうだ。それに一人の妻がおり、10人の女性は、内妻ではなく、料理人兼家政婦的な存在で、村国家の家事全般を職務とする女官であった。

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チュイ村の子供たち

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現在の村人の土葬された墓

 ナガ高地の村はたいてい山の尾根にあり、1村ごとに要塞化し、村国家の体をなしている。人口はだいたい2,000から3,000人で、少なくても1,000人の村人がいる。カオ王は、チュイ村だけではなく、7つの村を支配しており、その権力はインド政府も認めるところで、彼のテリトリーや行動は今も束縛はされていないという。

 村人の骨格は日本人に似ているが、中年以上の男は顔に入れ墨をしている。

 男の子は15歳で成人し、胸に入れ墨をするが、顔の入れ墨は首狩りに成功した者にしか許されない。

 首狩りは個人またはグループの総合能力によるもので、能力のない者は命を捨てるようなものだという。訓練と修行の足りた25歳以上の男でないと、首狩りを許さないそうだが、どんなに熟練しても成功率は高くない。

 「首を狩ることは容易だが、それをいかにして村まで持ち帰るかが大きな問題だ」

 実際に首狩りの経験のあるカオ王の説明は、具体的な動作がついて大変わかりやすかった。まるでスポーツの試合について話をするかのようで、誇らし気な彼の振る舞いは、56歳とは思えないほど敏捷であった。

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カオ王の護衛人

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焼き畑の労働中に並べられた自家製の鉄砲

 首を狩った男は、それを身につけて自分で村へ持ち帰り、王の家前の石台に置くことに全力を費やす。まるで忍者のごとく、七つ道具すら使う。刀、槍、弓矢、まき鋲、仕掛け糸、粉、手裏剣、その他時と場合に応じて、樹木、草、竹などなんでも使い、わなや仕掛けを素早く作る。追っ手につかまれば、逆首狩りで斬殺される。

 以前のナガ高地では村国家を存続させるために、自然条件と社会条件をいつも並行させておく必要があった。もし、そのバランスを崩し、人口増加が外に向かって爆発すると、必ず全面戦争になる。そうなると、次々に村国家が戦乱に巻き込まれ、留まることのない武力闘争になる。

 長い歴史の中で、山々の尾根に作られてきた一村一国の「村社会保全」の最善策が、お互いに暗黙の了解事項である首狩りという間引きの風習であった。まさしく敵対する村の人口を増やさない外交のための首狩り戦争である。

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水牛の角笛を吹くカオ王(56歳)

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罠の仕掛け方を教えてくれたカオ王

 私は、その日の正午から、王と共に行動し、村の焼畑農耕の現場を見せてもらい、撮影させてもらった。

 カオ王の家に1泊させてもらって、いろいろ聞き書きして分かったことは、首狩りは、青少年の心身を鍛える手段であり、全面戦争回避のためでもあった。しかし、失敗すれば捨て石の如く忘れ去られ、成功すれば女王から顔に入れ墨をしてもらい、小さな青銅の仮面を首から胸に提げ、結婚の自由を得る。

 

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焼き畑作業中に野外料理をする女官たち

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野外料理を食べていた女官たち
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左は私用 右は村人たち用
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左は休息する村人たち 右は家の入口の木の柱

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焼き畑作業中における昼食時に、作業台の上から指示を出すカオ王

 村の女性たちは、男が勝ち抜くことを祈って声援するが、英雄のみを称え、顔に入れ墨のある“コニャック”としか肉体関係をもたないし、ましてや結婚もしない。

 首狩りは、1種のスポーツだといえば、目を三角にして怒る人がいるだろうが、手に汗してスポーツを観戦し、拍手を送るのは、人間に首狩り行為と類似する益荒男の心が潜んでいるからだろう。

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左は焼き畑現場のカオ王 右は、王の家の前のメイハクロン(狩られた首を置く石)に立つ王と筆者

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2回目(1994年1月)に尋ねた15年後のカオ王 家の壁に頭蓋骨はもうなかった。