ラマ教の歓喜仏とレーの町(1976年9月)ラダク・インド西北部
私はブータンを訪れた後、同じラマ教文化圏のインド西北部にあるラダク地方を、1976年9月に訪れた。ラダクは、もともと西チベット高原の一部で、カシミールの首都スリナガルから標高4,000m以上もの峠を越して行く高地。9月末にはもう寒く、5・6千m級の山々はすでに白く、狭い谷間にチベット系の人々が、家畜を放牧し、麦を栽培して、四角い土の家を建てて生活を営んでいた。
標高3,500mもある中心都市ㇾ―は、インダス川沿いの平地にあり、周囲を高い山々に囲まれていた。緑が多く稲作地帯であったブータンとは異なって、自然環境が大変厳しく、寒くて乾燥していた。山に樹木はなく岩と砂地の世界で、人々は麦を栽培し、家畜のヤクや山羊、羊を飼育したり放牧したりの半農半牧畜業である。今麦の収穫期で、郊外の村では麦の脱穀作業が盛んであった。
町や村は、たいてい山麓か丘の上にあって、要塞化している。ㇾ―の街は山麓の平地にあるが、ゴンパと呼ばれる要塞化したラマ教寺院は尾根にあった。
ラマ教は、チベットのソンツエン=ガンポ王(569~650)時代に、インドから伝わった仏教が、民間信仰の「ボン教」と同化し、チベット高原を中心に発達した宗教であったが、13世紀以後は、モンゴル族の元朝王室の保護を受け、満州からモンゴル高原にまで布教された。
ラマとはチベット語で、“勝者”または“すぐれた人”を意味し、仏教を学び修行を積んだ僧のことである。チベット仏教では、各自の宗教上の師匠を「ラマ」と呼び、弟子たちはラマの教えや伝統を大変に重んじており、一般的な仏教の3宝である仏・法・僧のほかに、“活仏”でもあるラマを加えて4宝を尊重する。そのため、チベット仏教以外の仏教徒やヒンズー教徒などから、「ラマ教」と呼ばれるようになったといわれている。
ラダク地方は、ブータンなどよりも遥かに古くから、たくさんのラマ教寺院があった。なかでも、“アルチゴンパ”は、1,000年以上も前に建立されたラマ教初期の寺院で、騎馬民系の諸民族が好んだといわれる動物模様が、天井一面に描かれている。
ラダク地方のどのラマ教寺院を訪れても、壁一面に仏画が描かれている。それは、ラマ教思想の扇動者たちが、文盲の誰にでも理解されやすいように考慮した絵物語であり、庶民的なイラストレーションで、セクシュアルでユーモラスでもある。何より、最も目につきやすい仏画は、“男(ヤム)女神(ユム)”合体の“歓喜仏”である。
ラマ教の根源的な思想は、男神と女神の接合から全てが生まれ、始まるとされているので、信徒が男神(ヤム)と女神(ユム)の接合体を拝むと、財宝福徳を受け、子宝に恵まれ、繁栄すると言われている。
歓喜仏には単身と双身があるが、双身は男女神が抱き合っている。しかも、女神のなまめかしいお尻の下に、男神のシンボルが垂れ下がっていたり、女陰や男根を巨大に描写したりしているので、大変エロチックなイラストレーションでもある。
歓喜は仏教語で「カンギ」と読み、宗教的な喜悦を意味し、“歓”は身、“喜”は心の悦びだとされている。
ラマ教の旧教派を国定宗教とするブータンの寺院には、新教派のラダク地方よりもはるかに多くの“歓喜仏”が描かれていたが、仏画そのものはほぼ同じであった。