中央アジアの遊牧民ツルクメン(1971年)イラン

 私は、1971年夏、かつてモンゴル高原近辺にいた騎馬民と呼ばれていたアルタイ系牧畜民突厥の末裔を求めて、中央アジアのイランやアフガニスタン北部をくまなく旅した。そして、イラン東北部のゴルガン平原で、アルタイ系牧畜民特有の移動式住居であるアンパン型のウイ(パオ)を張って、羊を放牧しながら生活しているツルクメンと呼ばれる人々と出会った。それ以来5年間、毎年ゴルガン平原を訪問した。

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ゴルガン平原のエグリボガズ村と羊を追う牧童

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一こぶラクダとウイ

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ゴルガン平原を行く馬車

 紀元5世紀頃にモンゴル高原アルタイ山脈南麓近辺に住んでいた、漢字で“突厥(とっけつ)”と表記されるチュルク系遊牧民が住んでいた。彼らが徐々に勢力を増して中央アジアに進出し、6世紀後半には部族連合の“突厥帝国”と呼ばれるチュルク系遊牧民国家を建国し、中央アジアの覇者となるが、やがて内紛によって分裂し衰退する。

 古代の中国大陸では“突厥”と呼ばれていた民族は、中央アジア周辺では”チュルク(トルコ)”が一般的呼称であった。ツルクメンとはそのチュルク系の民族名で、トルクメンソ連邦の共和国名である。

 ここでのツルクメン(トルクメンとも表記するが、ゴルガン平原に住む現地人の発音はチュ<テ>、又はツに近いのでトルクメン共和国名以外は、ツルクメンとする)という民族の呼称は、ロシア語だそうだ。

 ツルクメンによると、ツルク(チュルク)系の人々がロシア人と中央アジア接触を持ち始めた頃、胸を張って「メン、ツルク・メン、ツルク(俺はツルクだ)」と言ったのを、ロシア人が言葉の意味をよく理解せず、「トルクメン」と聞き違えたため、トルクメンと呼ばれるようになったそうだ。 

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ロバにまたがる婦人

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エグリボガズ村の少年と少女

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窯で大きな厚いパンを焼いた婦人

 ロシア帝国が最初に中央アジアに軍隊を派遣したのは、1717年にカスピ海北部のクルイエブであった。ロシア人が、中央アジアで最初に出会ったチュルク(トルコ)系の人々をトルクメンと呼んだのだが、やがて民族の名称になり、今ではその人々が多く住む地域が、ソ連邦の一共和国名「トルクメン」になっている。

 しかし、ペルシャ語ではそれ以前からツルクマネント(マネントは、~のような人)と呼ばれていたし、アラビア語ではツルクイマン(イスラム化したツルク)と呼ばれ、11から14世紀には、一般的にツルクコマン(ツルクのような人)とも呼ばれていたと言う。

 カスピ海東岸から、アラル海南部にかけて住む、半農半牧畜のツルク族が、ロシア人からトルクメンと呼ばれるようになって現在に至っているのだが、イランのゴルガン平原に住むツルクメンの多くは、自分たちを部族名で、ヨモト・テケ・ゴクランなどと呼んでいる。

 東北アジアモンゴル高原の辺りに住んでいた突厥であるツルク(チュルク=トルコ)族の多くは、6から10世紀にかけて、中央アジアの方へ逃走又は移動した。西ツルキスタンに住んでいるツルクメンは、ツルク系一民族の末裔である。

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左がエグリボガズ村で世話になったアマン

 かつては世界の中心であった中央アジア西トルキスタンは、ツルク系のチムール王朝が15世紀中頃に滅びた後、大きな王朝は建たなかった。しかし、ツルク系の人々は中央アジア全域に散在して住むようになった。やがて18世紀初めから南下政策を敢行したロシア帝国が侵入してきはじめ、徐々にその支配下に組み入れられた。

 19世紀に入ると、インド亜大陸を植民地化したイギリスが、中央アジアで南下してくるロシアに対して警戒を始めた。そのため、中央アジアが世界の注目の的になり、各国から多くの探検隊や調査隊が派遣され、国境が少しずつ明確になった。

 ロシア帝国が今のアシュハバードをトルクメニスタンの政治の中心地としたのは、中央アジアでは一番遅く、1881年のことであった。しかし、その後、領地の大半がツラン平原とカラクム沙漠であるトルクメンニスタンに政治力を浸透させることは困難だった。中でも、広い大地を自由に遊牧している牧畜民にはロシア帝国の支配力は小さかった。

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結婚式に集まってきた人たち

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結婚式の余興でゴルシアをとる若者

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ゴルシアを見る人たち

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結婚式に集まった人に振る舞うチョクツルメを盛り付ける

 1917年、ロシア帝国は共産革命によって滅び、1923年から中央アジア革命の戦いが始まる。やがて、ソ連邦の一部であるトルクメン共和国が誕生した。

 ツルクメンの大半は、現在ソ連邦トルクメン共和国内に住んでいるのだが、中には、アフガニスタンのヒンズークシュ山脈の北側や、イランのエルブルズ山脈から北のゴルガン平原にも住んでいる。アフガニスタンはもう百年も前から王国が続いて、大きなアム河の国境が明確であったので、ツルクメンはアフガン化しているが、イラン東北部のカスピ海東部に広がるゴルガン平原の国境は不明確であった。

 イランのパーラビ王朝が建国されたのが1925年で、まだ中央アジア革命の火が消えて間もない時であった。

 1928年、当時のイギリスの首相S・バルドウイム(保守党)と、イランのパーラビⅠ世(当時の王の父)とソ連邦スターリン首相の三者会談によって、イランとトルクメン共和国の国境が机上で決められた。

 ツルクメンは、この時をもって、共産主義トルクメン共和国側と、自由主義の王国イラン側に分離された。

 国境となったアトラク川から南のゴルガン平原にいたツルクメンは、イランのパーラビ王朝の歴史が浅く、軍事力も政治力にも欠けたため、一九七三年頃までイラン化せず、牧畜民ツルクメンの言葉や風俗習慣、気質を残していた。現在この地方のツルクメンは35万人くらいで、半農半牧で生活している人が多い。

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エグリボガズ村の風景

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放牧地から戻ってきた羊たち

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ゴルガン平原で現地の人と行動を共にする筆者