西寧を午後4時に出発し、100キロ西の青侮湖へむかった。1時間ほどで湟原の町に着いた。道はここから南へ折れた。道沿いに漢族やチベット族、土族などの村がぽつり、ぽつりと点在し、麦やエンドウ豆などの収穫期であった。道沿いの岩山に石を積み上げたラツィ(蒙古語ではオホ)を見かける。すでにチベットのラマ教文化圏に入ったのだろう。
やがて標高が3,000メートルになり、漢時代にチベットとの境であった、石頭山と呼ばれるタコの頭のような岩山が2つ並んだところに着いた。ここから、はるか左前方に新雪の日月山を眺める。このへんは土族が多く、高山裸麦の青稞(チンコー)を栽培している。今は収穫期で、黄金色の麦畑がゆるい斜面に広がり、青い空に映えて、一幅の絵のように美しい。
車はさらに山道を登った。大地に木はなく、こけのような背丈の低い草が一面に生え、モスグリーンー色である。その斜面で、羊とヤクの群が草をはんでいる。ヤクはチベット特有の家畜で、野牛のような動物である。すでに、農地から牧地へと、自然は大きく変わった。
標高3,520メートルの日月峠に着いた。ここは、7世紀ころの唐時代にチベットとの国境であったので、その旨を記した碑が立っている。この峠は土地が赤いこともあって、チベット人たちは赤嶺と呼んでいた。7世紀中葉、唐の文成公王か政略結婚のため、チベットである吐蕃のソンツウェン王(ガンポ)に嫁ぐ時、この峠で後を振り返って、2度と戻っては来られないだろうと泣いたところだともいわれている。
この峠には数年前に、日帝と月帝と呼ばれる記念碑が建立され、観光の名所にもなっている。また、1986年にパンテン・ラマが訪れた記念の大きなラツィもある。
峠から東は急に低くなっているが、西の方は峠との差が少なく、高地になっている。この峠から流れている倒淌河は、青海湖へ通じている。私たちは、その河に沿って東西に長い倒淌河平原を西へ走った。このへんはチベット系牧畜民の放牧地で、羊、山羊、ヤク、馬などが多い。蒙古の草原でも見たことのないほどの数である。そして八角形の黒いチベット式テントや白い三角テントがあちこちにあった。
しばらくの間、暮れなずむ草原に魅せられていたが、ふと前方を見ると、草原の彼方に湖面らしきものか見えた。
「青海湖だ!」
突然だったのでつい叫んでしまった。中国大陸で最も大きな湖についに来た。しかし草原の彼方に広がる湖面は、どこからどこまでか湖なのか、その実体がつかめない。
青海湖の南湖岸に出たのは、それから20分ほど走ってからだった。あまりにも広くて湖とは思えない。まさしく海である。省の呼称の由来にもなっているのだが、内陸にこんな大きな湖があるとは信じられない。道は湖岸近くを、西へ西へと続いている。しばらく走って漁村を通り、青海湖旅行社の招待所に着いたのは9時すぎだった。
招待所にはシャワーの設備はあるが、水も湯も出ないし、テレビも故障していた。中国では田舎でも立派な招待所があり、設備もかなり整ってはいるが、管理が悪いので、それらが機能していないことか多い。文明は簡単に普及し、画一化することはできるのだが、人間の素養や管理能力を教育によって向上させるのは、早くて20年、遅いと100年はかかる。