内蒙古からチベット7000キロの旅㉕ 壁のできた草原
9月5日の朝、旅行社の招待所から西へ向かった。半島のように突き出たところを横切って江西鎮(こうせいちん)という漢族の村に着いた。1983年以前には人民公社があり、活気づいていたそうだが、今はさびれていた。
しばらく走ると、道は湖岸に近づき、ゆるやかな斜面から草原になった。道沿いには有刺鉄線が張ってある。やがて南側の道沿いに、高さ1・5メートルほどの土の壁が続く。これは軍が経営する農場である。たいへん広大な農場で、機械化している。コンバインでは端の方の麦が刈り取れないので、軍人たちが鎌で刈り取っていた。道の北側の湖岸に近い草原には何百頭ものヤクや、何千頭もの羊が放牧されている。湖岸近くには、チベット式テント「バー」が何十張りもある。
羊やヤクの群が湖に入っている。家畜は1日に1回、午前中に湖水を飲む。この湖水は、現地人でもソーダ分が強くて飲めない。10キロも南の山麓からもやってくるので、午前11時ころは湖岸に家畜があふれる。
青海湖周辺のチベット系牧畜民は、年に3回移動する。9月から翌年の4月までは、山麓の冬用の土の家で生活し、5月から6月までは山の上の夏用の地域でテント生活をする。そして7月から8月末または9月初めまでは、青海湖の草原にテントを張って生活する。
牧民たちは、すでに湖岸から冬用の山麓の場へ移動をはじめていた。このへんの牧民は、9月1日から1週間のうちにすべて南の山麓に移動する。彼らは、衣食住のすべてをヤクの背に載せて運ぶ。馬に乗る者、歩く者、中にはトラクターやオートバイに乗る者もいる。一家族が所有する何十頭ものヤクや何百頭もの羊を追って移動するさまは、家畜を追う人の声、家畜の鳴き声 足の爪音、砂ぼこりなどで活気があり、迫力さえ感しられる。
湖岸の方から南の山麓へ向かうと、道沿いに土の壁が続いている。ところどころに、南への通路がある。牧民たちは家畜を連れて自由に南へ向かうことができず、農耕民によって築かれた土壁や有刺鉄線の間にある通路を求め、遠回りしながら進む。
1959年、まず解放軍という名の軍隊がこの地方に進駐してきた。そして 牧民たちの大地に有刺鉄線を張り、土の壁を築いて境界線を作った。牧民たちには土地の所有観念がないので初めは何を意味しているのか理解できなかった。ただ、移動の通路をふさがれたことに対して抗議した。しかし軍はそのことを認めず、自給自足の名のもとに農業をはじめた。間もなく漢人たちが新天地を求めて移住し、平原の多くを農耕地化した。大農場は軍直営で、小農場は漢人のものであった。
牧民たちにとって、母なる青海湖の水は、家畜とともに暮らすに欠くことのできないものである。その湖が、いまではすべて土壁と有刺鉄線に囲まれている。何度も抗議はしたが、国家権力の前に何も効果はなかった。
彼らの大地は、支配者側からの解放という名のもとに、漢民族の侵入を受け入れざるをえなかった。以前のように自由に遊牧できる草原は、もう2度と戻ってはこない。やはり青海湖畔は漢民族にとって、新しい植民地なのである。