コヒマ旧交の旅(2019年6月)ナガランド
6月23日、インパールのホテルでの昼食後、我々5人は、2台の車に分乗して、午後12時50分、約140キロ北のナガランド州都であるコヒマに向かった。
人口約200万人(40年前は約100万人)にも膨れ上がっているナガランド州は山岳地帯で、山また山の坂道は、崖崩れや地滑りで難所が多く、なかなか進めなかった。3時40分にマニプールとナガランド州境の村、トヘマに着いた。ここにナガランド州観光局のアジャノ女史が迎えに来てくれていた。彼女は私が最初にナガランドを訪れた時に会った、コヒマ3人娘の1人で、訪日したこともあった。我々は彼女の案内でコヒマへ向かって車を走らせた。
私は、1979年1月、当時国会議員であったラノー・シャイザ女史の協力で、インドのデサイ首相に直談判して、21日間のナガランド訪問許可書(当時は外国人の立ち入りが禁止されていた)を得た。
ナガランドを1周するについて、当時の州教育相シュローゼリさん(43)や大蔵相バー・ムゾーさん(44)たちが、州選出の国会議員ラノー・シャイザ女史の指示で、通訳、ガイド、護衛2人、ジープ2台を提供してくれ、23日間無事に探検旅行ができ、帰国後「秘境ナガ高地探検記」を出版していた。
標高1,500メートルの高地にあるコヒマの、アラズラヒルの“ニラマヤ レトリート”と言うモダンなホテルに午後5時10分に着いた。
コヒマは、今雨季のはずだが晴れており、夜は摂氏20度くらいで涼しかった。
インパール作戦におけるコヒマの戦いは、食糧や武器弾薬がなく、しかも雨季で肌寒く悲惨な状況になり、多くの兵士が戦病死したことで知られているが、その戦場の面影はもうない。
40年前は、山の尾根の7つの丘に人家が集中した人口2万の町であったが、今は、近郊の尾根沿いの至る所に家が立ち並び、人口15万もの大きな町になり、商店街ができ、車が多くて渋滞し、人があふれていた。
6月24日は晴れて、気持ちの良い朝であった。昨夜のうちにアジャノさんが、前ナガランド州首相のシュローゼリさんに、私の来訪を告げていたので、早朝から彼の家に呼ばれていた。
他の2人は取材でアジャノさんがついて別行動だが、後の2人は私に同行することになり、我々3人は朝食抜きで、迎えの車に従った。
20分程で着いた、丘の上の1,000坪ほどの屋敷に建つ立派な家の門には、3人の護衛がいた。シュローゼリさんは、30数年前に来日し、東京杉並の私の家に来たことがあり、奥さんもよく知っていた。
83歳の彼はまだ元気で、再会を喜び、彼の家で遅い朝食を共にした。息子さんや奥さんと孫娘にも会った。
彼はもともと教員であったが、私が最初に会った時には州の教育相で、その後博士号を取得し、州の首相になり、今は政党の顧問だそうだ。
朝食後、彼がつけてくれた人の案内で、コヒマを見て回った。前にも訪れた、イギリス兵の墓地を訪れた。そこか見るコヒマは、山の上の町ではなく、雑多で巨大な町になっていた。その後、旧コヒマの丘の上に行き、塔の上から周囲を見渡した。そして、以前私を案内してくれた、当時23歳の学生であったザブツオの家を訪れた。彼は留守であったが、夜、ホテルに息子を連れて会いに来た。
6月24日午後4時、旧コヒマの丘のバームゾー家の母、ジャミコイさん(99)の誕生祝いに招かれた。当時大蔵相をしていたバームゾーさんは、65歳で亡くなっていたが、奥さんのサノさん(79)が健在であった。ナガランドには長寿者が多いが、99歳の誕生祝は特にめでたく、30数名の一族郎党が集まり、ナガ料理を食べながら懇談した。
翌日の25日は霧雨に霞んでいた。コヒマ3人娘の1人、セコセさん(58)が、早朝ホテルにやって来て、予定になかったコノマの村へ行くことになった。
午前8時前に、15キロ西のコノマ村に向かった。以前も訪れたが、道が悪くて、9時30分に着いた。
大きな谷間の尾根にあるコノマは、立地条件がよく、自然の要塞化した村で、ナガランドでは一番強く、難攻不落であったそうだ。
霧雨に霞んだ村は、以前の人口は2千人、今は千数百人になり、大きく変わっていたが、思い出の場所や石造りのコノマ門が残っていた。
ここの棚田は世界一ともいわれている広さだが、インパール作戦中、ナガランド州西端のこの村にも日本兵がやってきたそうだ。
午前11時10分コノマ村を出て、12時20分にコヒマに戻って来た。そして、すぐにインパールに向かい、州境までアジャノさんとセコセさんが同行してくれた。インパールのホテルには、午後5時30分に無事着いた。