インパールの慰霊訪問(2019年6月)マニプール州

 インド東北部のミャンマーと国境を接しているマニプール州は、人口270万人の多民族地域。その10分の1の26万人が州都インパールに居住している。

 今から75年前の1944年3月、当時ビルマ(現ミャンマー)に駐留していた旧日本軍は、ビルマ防衛とインド独立支援の名目で、イギリス軍の駐屯地インパール攻略“インパール作戦”を開始したが、多くの悪条件が重なって、僅か5、6カ月の間に数万もの将兵が戦死し、大東亜戦争の中でも凄惨な戦いの一つになった。

 インパール郊外の激戦地であった、“レッド・ヒル”には、日本政府が1994年に戦没者慰霊事業として、“平和記念碑”が建立されている。しかし、現地に残された遺品や資料などの多くは、時間と共に散逸しかけていた。

 そこで、日本財団は、インパール作戦75周年を記念して、遺品や資料を集めた“インパール平和資料館”の建設を支援した。

 その資料館が本年6月22日に開館されることになった。私は、そのオープニングセレモニーに招待され、40年ぶりにインパールを訪れることになった。

 私たち日本財団の一行15名は、6月21日早朝、成田空港に集い、11時40分発のJAL749便でインドのデリーに向かった。デリーで1泊して、翌早朝、午前5時20分発エアインディゴ251便でインパールへ。ゴーハティ経由で9時10分に着いたインパール空港は、小雨が降っていた。

 我々一行は専用車で、まず市内にあるイギリス側の連合国軍墓地を訪ねた。すでに雨は止んでおり、イギリス側からの参加者と、インド在留の日本国大使を始め、多くの日本人が参加して、共同の慰霊行事を行った。

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英国墓地での合同慰霊祭における日英両大使と日本財団笹川会長

 その後、11時に、インパールから約5キロ南にある、日本側の“インド平和記念碑”を訪ねて、日英とインド3国の人々が献花した。

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日本側の平和記念碑での合同慰霊祭

 記念碑の近くにできた、資料館の11時50分からの開館式では、在インドの平松賢司大使や日本財団笹川陽平会長などの挨拶があり、館内は大変な暑さで大汗かいたが、無事に終わった。そして、市内の立派な“クラシック・グランド”ホテルへ移動し、遅い昼食を取ってしばらく休憩。

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平和資料館の入口にある標識

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平和資料館オープニングセレモニーにおける在インドの平松大使

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大変蒸し暑かった平和資料館内に座る筆者

 午後5時から、市内のホールで開催された“75周年記念式典”に参加した。イベントで演奏された、インパールと沖縄の民謡のコラボレーションは、リズムや歌詩の波長が合って素晴らしかった。

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インパル舞踊と日本財団の訪問団員(ホテル入り口)

 翌6月23日は、大半が帰国したが、居残った我々5人は、早朝から南へ約50キロのモイランの町にある軍事博物館を見学した。

 この地は、1944年4月に、インド独立連名総裁でありインド国民軍司令官のチャンドラ・ボーズ氏が、インパール作戦中に日本軍の支援の下、ビルマからひそかにこの地までやって来て、インド独立の三色旗を最初にかかげた所として有名で、今はインド国民軍の聖地となっている。

 この博物館を見学すると、チャンドラ・ボーズ氏が日本軍を勧誘してのインパール作戦が、その後の、インド独立のきっかけとなったことが窺われる。

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モイラン軍事博物館におけるチャンドラ・ボーズ像とその名盤