古き良き時代のオセアニア㉙ パプアニューギニア
マウントハーゲンの朝市
赤道直下のニューギニア高地、マウント・ハーゲンの原住民たちは、1950年代頃には、確かに物々交換やタカラ貝などの美しい貝で、すべての物が売り買いできていたという。そんなニューギニア高地は、新聞や週刊誌でよく報道されているので、誰でも知っている。
しかし、日本に紹介されているニューギニアは、近代化されていない山奥か、僻地なのである。
現在の彼らは貨幣を持ち、すでに近代的な経済を身につけていると言っても過言ではない。
マウント・ハーゲン滞在中に、有名な土曜の朝市を見た。山奥に住んでいるまだ近代文明の影響の少ない裸の原住民は、金曜日の夕方から町にやって来ていた。当日の朝はまだ夜の明けきらぬうちから市場には人出が多くなり、夜明けと同時にどっと人々が繰り出してきた。
約50メートル四方の囲いの中には、木の台や土の上に所狭しと、各々の持参沕が好き勝手に並べられている。それらを買いに来たのか、見物に来たのか分からない客が、品物を手にして上げたり下げたりして値を叩く。全くよく根気が続くと思われるほどおしゃべりをして、それを買わずに立ち去る者もいる。話すのが楽しいのか、買っても貰わなくたって平気である。次の客が来るとまた同じようにおしゃべりをする。物を売り買いするというのではなく、おしゃべり大会のような光景だ。
中央に4軒、円錐屋根の小さな家があった。そこではブタの丸焼肉とパン、ライス、タロイモ、キャッサバなど食物が売られていた。その飯屋とか肉屋などでは、値段交渉などしていると買えっこないほど、押し合いへし合いの人だかりであった。
私の見たマウント・ハーゲンの朝市では、物々交換はなく、全部貨幣による売買であった。彼らは白人に雇われない限り、現金収入の機会がほとんどない。最も現金を得やすいのは、このマーケットで物を売ることである。
マウント・ハーゲンにやって来た原住民の約15%がまだ裸であった。裸と言ってもまる裸ではない。女性は頭から布を被り、腰には縄簾を巻いている。男はちゃんと急所隠しの腰ひもをつけている。
1955年頃のマウント・ハーゲンは数軒の家があるのみで、原住民は90%裸であったそうだが、1969年現在では立派な町ができ、7、8千人の白人が住んでおり、町内の道はほとんど舗装され、車だって走っている。
今は、まだオーストラリアの統治領なので、原住民語はあるが文字がないので、学校でもどこでも英語が使われている。彼らは、ピジョン・イングリッシュといわれるニューギニア独自の発音で英語を話す。しかし、聞き慣れないと分かり難い。
朝市は夜明けとともに始まり、10時頃には人がいなくなった。