古き良き時代のオセアニア㉛ パプアニューギニア
ラバウルの戦跡
ラバウル、その名は私のどこかでぬくぬくとしている。それは、私をいつも幼い記憶の中に引き戻して、なんとなく面映い気持ちにさせる。なぜなら、私がまだ裸で遊んでいた幼い頃に覚えた、「さらばラバウルよ、また来る日まで……」というあのラバウル小唄のせいである。
私が乗り込んだダグラスDC戦闘要員輸送機は、午後3時5分にラエを飛び立ち、ラバウルに向かった。
この飛行機はラバウルの青年たちがチャーターしたものだった。私はこれにただ乗りをして、どうしても行ってみたかったラバウルに飛んでいる訳だ。それはアンセット・マル社が、私のニューギニア旅行に便宜を計ってくれいていたからだった。
私たちは、機の両側に18名ずつ坐っていた。シートは厚い布を張っただけ。いつでも軍用機に使用できるものでカーゴとチャーター機に使用され、アンセット・マル航空会社に所属している。
乗客は男性よりも女性が多く、15、6歳から26歳までの学生と勤め人たち。何でもポートモレスビーでサッカーの試合があって、2機チャーターしたうちの1機で、選手は乗っていなかった。
この飛行機はもともと軍用機なので、アルミ一枚が外気を隔てているだけ。悪天候のため少々高く上がり、標高3500メートルにもなると空気が希薄で頭痛がする。
私の横に座っていたジュディという女学生は、「寒い、寒い」と言って震えていた。地上は寒さを知らぬ熱帯地方なので、皆半袖シャツとかミニスカート、ショートパンツという出で立ちで、長ズボンは私を入れて6名に過ぎない。
やがて雨雲に突入して機体が激しく揺れた。上下に激しく揺さぶられ、ローリングも激しかった。ジュディは手を握りしめ、震えていたので、私が左わきに抱いた。尾翼近くに座っていた女性は泣いていた。爆音と雨音、雷鳴、それに前後左右に揺れるので、誰かが悲鳴を上げ、誰かは吐いていた。誰かは神に祈っていた。ジュディは私の腕の中で震えていた。暗い機内は動揺していた。
間もなく雲間が見え、機は急降下に移った。
誰かが大声を叫んだ。皆一斉に丸窓を覗いた。ジュディと私は頬を摺り寄せて、同じ窓から眼下を見た。
午後5時45分、ヤシ林の中のラクナイ空港に降り立った。空港に迎えに来ていたジュディの両親に紹介され、彼らの車で町まで運んでもらった。
「これ私の電話番号よ、ラバウルを案内するわ」
ジュディは別れ際に、1枚の紙片を差し出して言った。
翌日、ジュディとオーストラリアの軍人であった父親が車で案内してくれた。
ラバウルの全光景が見渡せるオブザーバートリに佇んで周囲を眺めた。ヤシとレインツリーの並木の中に、白い屋根がモザイクのようになった美しい港町が拡がっていた。その向こうにUの字型のカラビア湾があった。
ラバウルは、ニューギニア戦の戦場とはならなかったので、かつての日本軍の大きな基地が、比較的破壊されずに残っていた。
海岸を走るココポ道路沿いの山腹には迷路のようにトンネルが掘られていた。地下に沢山のトンネル、地下壕が掘られ、ラバウルの全てが要塞と化していた。
ある壕の中には、朽ち果てた上陸用舟艇が5艘も放置されていた。多くの飛行機の残骸、カラビア湾の起重機や赤サビた無数の船体、トマシアが丘の台座に坐って、いまだに沖をにらんでいる「呉海軍工場製造」と刻み込まれた大きな15インチ砲、高射砲、機関銃などがあちこちに見られた。
私は、取り残された機器一つ一つに手を触れて「ご苦労さんでした」と言った。戦争の道具というよりも、自分の分身のような気持になり、この地に取り残されて野ざらしになっているこれらを日本に持ち帰って、「これは僕が裸で遊んでいた子どもの頃、日本で作られた優秀な機械なんだよ」と、後輩たちに言ってやりたかった。しかし、いろいろな思いが込み上げ、涙があふれて仕方なかった。
ラジオやテレビで聞いたり観たりするラバウルは、もう空想でも憧れでもなくなった。戦争などなっかたかのようなのどかな風情のラバウルは、1泊二日の滞在中、自然も人々も十分に歓迎してくれた。
今回の6ヵ月にも及ぶオセアニアの旅の終わりに尋ねたラバウルは優しかった。ヤシの木の間に佇む、美しい南国の風情に溢れたラバウルよ、また来る日までサヨウナラ。