古き良き時代のオセアニア

はじめに

 1968(昭和43)年12月27日、私は東京の羽田空港からオーストラリアのカンタス航空機で飛び立ち、南半球にあるオーストラリアのシドニーを訪れた。

 オーストラリア訪問にあたり、カンタス航空会社の東京支店に書類を提出して、協力依頼の交渉を3度もしたが、埒が明かなかったので、シドニー本社の情報部長ダンストン氏に面会を求め、直談判した。

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シドニーに着いた翌日の筆者

 「日本の若い(当時28歳)旅行作家が、オーストラリア大陸をくまなく旅行して、日本に紹介しようとしているのに、カンタス航空会社が協力すべきではないか。オーストラリアはまだ若い国だし、お互いこれからではないか。私には十分な金がない。ぜひ協力してくれないか」

 下手な片言英語でがなり立てる青年の脅迫めいた押しに、ダンストン氏は、「イエス」「ノー」をちょっと戸惑ったらしく、「1日の猶予をくれないか」と言った。

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シドニーの中心街 時計塔は中央郵便局

 そして、翌日の午後、事務所に彼を尋ねると、彼は立ち上がって迎えてくれた。

 「よく分かりました。貴君のおっしゃるとおり協力しましょう。日本往復だけでなく、二―ジーランドへの往復切符も提供します」

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シドニー湾のハーバーブリジ

 彼は、オーストラリア観光局シドニー総支配人のエリオット氏を紹介してくれた。そして、エリオット氏は、メルボルンの観光局部にあるアジア担当局部長のマリオット氏に紹介してくれた。私は、すぐにメルボルンを訪ねてマリオット氏に会った。マリオット氏は大歓迎してくれ、彼の家に泊めてくれたうえ、メルボルンに本社のある全オーストラリアを走っているアンセット・パイオニア、バス会社のマーケティング・マネージャーであるジャック・ロン氏に、是非協力してやってくれと頼んでくれた。

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メルボルンの中心街

 メルボルン本社の事務所を訪ねて会ったジャック・ロン氏は、壮年の大男だった。私は彼に、自分がなぜオーストラリアに来たかを説明し、すでに世界72ヵ国を独力で旅して、2冊の著書がある旨を伝え、約1時間話し合った。

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世界72か国を一周して書いた最初の著書

「よし、若い君を買った。全オーストラリアの旅行費を全部私の会社で持とう……。私が責任を持つから好きなだけ旅行してくれ。オーストラリアは広いから5、6ヵ月はかかるだろう」

 ロン氏は、私の生活費や交通費を出させるために、会社に売り込んでくれたばかりではなく、ニュージーランドニューギニアへも売り込んでくれた。

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メルボルンで家庭の昼食に招いてくれた若い夫婦

 彼の依頼で、ニュージーランド政府観光局から、1ヵ月間の滞在費と交通費を持つから、是非ニュージーランドにも来てくれるようにという吉報が舞い込んだ。ニューギニアからも、協力してくれる旨の通知が届いた。

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南ニュージランドのタスマン氷河上での筆者

 ロン氏は私のために随分苦労したようだが、全オーストラリア大陸を陸伝いに旅するのは、日本人として初めてのことである。しかも、1969(昭和44)年以後、日本の観光客を豪州に勧誘しようとの計画があった矢先でもあったのが幸いして、まず最初に私を試験台に担ぎ出したという訳でもあった。

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山のない中央オーストラリアの牧場

 私は幸運にも、日本人として始めて全オーストラリア大陸と南北ニュージーランド島を陸伝いにくまなく旅することができ、その後ニューギニアをまわり、6ヵ月間の旅行を無事に終えることができた。

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ニューギニアのマウント、ハーゲン

 帰国後すぐに著書「未来の国オーストラリア」を書いて講談社から出版した。もう半世紀も前のことになるが、当時撮影したカラーポジの写真中心に、古き良き時代のオセアニアの様子を簡単な文章を添えてこれから3~40回紹介するので、関心のある方は是非ご覧あれ。

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豪州の旅についての拙著、講談社出版