中国内蒙古のモンゴル族⑤ モンゴル族の大晦日
1983年2月12日は旧暦の大晦日であった。私はモンゴル族の大晦日や新年の様子を見たくて、内蒙古自治区の区都フフホトを訪ねた。フフホトのホテルも役所もすべてが春節(旧正月)休みで、私1人のために2日前からホテルの料理人が3人残っていた。朝出発する時、そのことを知らされ、大変申し訳なかった。
陰山山脈の モンゴル高原の南端になるフフホトから大青山を越え、さらに北へ80キロ。凍結した道を4輪駆動のランドクルーザーで約2時間走ると、「赤い旗」という意味のウラントク人民公社がある。標高1700メートルの南モンゴル高原は一面粉雪に覆われ、北からの凍てつく風は針のように肌を刺した。
私に同行した通訳のフトクさん(32歳)と車から降りると、防寒服に頭からすっぽり覆われた頬の赤いウルツンさん(29歳)が迎えてくれた。
ウラントクは牧畜民の村で、人口1900人であるが、羊、馬、牛などの家畜はなんと4万5000頭を数えている。
フフホトに近いここは、1979年の夏から外国人の入域が許されているのだが、真冬なので私以外に客はいなかった。接待役のウルツンさんに、牧畜民の冬の生活を視察するために、1週間滞在すると告げ、私に協力してくれるように頼んだ。
宿泊所のアンパン型移動式住居ゲルの中には、石炭ストーブがあり、暖かい。外は、夜になるとアスピリンスノーと呼ばれるサラサラした粉雪が空中に飛遊し、空気の白濁現象が起こる。風が吹けば、地上の粉雪は雪の川となって、砂塵のように散ってしまうので、日本のように積もることはめったにない。
モンゴル族は、夏から秋にかけては家畜と共に放牧地でゲルに住むが、冬から春にかけては定住区のレンガや土の家で生活する。今では床の下を暖めるオンドルや石炭のストーブがあり、家の中は暖かい。
大晦日の夜、ウルツンさんの案内で、村の中央にある井戸から200メートルほど離れたナンサイさん(51歳)の家を訪れた。レンガ造りの家の中は10度くらいの暖かさである。
ナンサイさんの家では、長男夫婦と2人の娘、それに村の男たちが迎えてくれ、オンドルのある部屋に座った。
丸いテーブルの中央には、“テングリンボ”と呼ばれる揚げ物や菓子、果物などで色彩豊かに飾り付けられたものが置かれ、その周囲にカブの漬物やもやしの酢の物、肉料理などが並べられている。
冬の間、土の中に穴を掘って野菜を貯蔵するのだが、葉菜は凍って食べられないので、カブ、ニンジン、ジャガイモ、ビートなどの根菜しかない。正月用には必ず緑豆のもやしを作るそうだ。
驚いたことに、モンゴル族にも「かけつけ3杯(ゴルムンヘム)」の習慣があった。私の来訪が遅れたので、チョコに3杯続けて飲まされた。アルコール分65度もあるコーリャン酒は、まるで火の玉を飲み込むようで、しばらく喉が焼けるようであった。
「トクト(乾杯)」
お互いに「トクト」といいながら杯をあげる。飲み干すと、すぐに娘が注ぐ。しかも、口元に両手を差し出し、こちらの目を見つめて歌いながら勧める。
1時間もすると酔いがまわって、寒さなど感じなくなった。村の男たちは笛を吹き、馬頭琴を奏で、大きな声で歌う。娘たちも一緒に歌い、そして、オルドス地方の踊りをする。
大晦日の夜、若い人たちは寝ずに騒ぐ。12時を過ぎると、白い湯気の立ち昇る水餃子が沢山テーブルに出された。
「サンシヌルボー(あけましておめでとう)」
お互いに新年の挨拶をかわし、昔は肉まんであったそうだが、今はベンシーと呼ばれる水餃子を食べる。
皆そうとうにアルコールが入っているはずなのに、横になったり醜態を見せたりする者はいない。私は食べ過ぎ、飲み過ぎなのに、彼らはなおも強引に勧める。
元旦の、日の出前の午前4時、村中で一斉に焚火や石炭のかがり火が燃やされ、爆竹が鳴らされた。
ナンサイさんは外にテーブルを運び出し、その上にテングリンボを置いた。そして、手鍋のような炉で、アルグンと呼ばれる乾いた牛糞を燃やした(平原には木が生えていないので)。
ナンサイさんは、アルグンが燃え上がると、御神酒をテングリンボの四方に指ではじいてから、大地に跪いて拝礼した。
「ボルフンの神に、家族の安全と、今年は天候が良く、草がたくさん生えるように祈りました」
6年前に夫と死別した彼女は、ボルフンの神を拝して、満足気に微笑みながら言った。
ボルフンとは日本の年神様と同じようなもので、テングリンボは正月の間、ボルフンの依代なのである。