古き良き時代のオセアニア オーストラリア⑲
ブルームの日本人墓地
西オーストラリア北部にあるブルーム日本人墓地は、周囲を鉄柵に囲まれ、入口に“ジャパニーズ・セクション”と標識が立っていた。今ではブルームの観光地となっている。
長方形の墓地の中央部に、車が通れるほど広い道があり、その道沿いに墓石が見事な整列をなしている。その数五千数百といわれたが、あるものは壊れ、あるものは草むらに覆われて静まっていた。
ブルームに日本人墓地があると聞き知っていたが、こんなにたくさんの墓石があるとは思わなかった。
パールと言えば伊勢のミキモトパールを連想されるだろうが、ブルームは、日本パールの半世紀も前から、ヨーロッパやアメリカに天然パールの産地として知られていた。
その天然パール採取のため、海底に潜る潜水夫などに日本人が沢山雇われていた。
記録によると、ブルームへの最初の移住は1880年頃だとされている。その後、徐々に日本の各地から雇われた日本人が増加し、1888年には、ブルームに日本人町を作り、約3000人が住んでいたそうだ。
雇い主の英国人よりも多くなり、1900年~1915年は最も盛んで、約6000人にも及んだそうだ。
形式的には、日本各地から労働者として募集されたそうだが、友が友を呼んで和歌山県出身者が半分もいた。それに三重県出身者も多かったそうだ。
これからすると、御木本翁がなぜ鳥羽で養殖パールをはじめたかが理解できる。本人が直接ブルームを訪ねたのか、それともこの地で働いた人々の話を聞いたのか、それは知らないが、彼が偶然にパールの養殖を発見したのではなく、このブルーム・パールが彼になにがしかの影響又はヒントを与えたのだろう。
当時の出稼ぎ渡航は、殆ど個人単位のもので、日本人としての証明書も何も持たず、出身地すら分からない墓が百基くらいあるそうだ。
私は、現地で知り合った佐々木さんの案内で墓地を見て回った。愛媛県宇和島市出身の佐々木さんは、1937年4月、既に渡航していた父と兄を頼ってやって来て、潜水夫として働いていたが、戦争中は収容所にいた。終戦直後、日本に送還されたが、元の雇い主に呼ばれて、1955年2月に再びブルームにやって来て、潜水夫を続けているのだそうだ。
墓石を見て分かったことだが、明治23年が一番古かった。一番新しいのは昭和44年1月14日とあった。
墓石に刻まれている年齢は20代、30代と若い。体力の消耗が激しい海底深く潜るには、血気盛んな青年が必要だったのだろう。
「今、ここに日本人は何人くらいいますか」
「さあ、この地方には、2、30人くらいですか。戦前は日本人の医者もいまして、大変盛況だったんですよ。しかし、今では中国人の手に落ちて、チャイニーズタウンです」
彼は遠い昔を懐かし気に語ってくれた。