古き良き時代のオセアニア オーストラリア①
新大陸のシドニー
オーストラリア大陸の発見は、1642年に、インドのカルカッタにあった東インド会社のオランダ航海者アベル・エ・タスマンによって、タスマニア島西岸が発見されたのが最初とされているが、大陸自体は、1688年から99年にかけて西オーストラリア沿岸を航行し、数ヶ所に上陸の跡を残した英国の海賊船長、ウィリアム・ダンピェルの発見によるものであった。
その後、100年近くも経った1770年、英国人のキャプテン・クックがシドニー南部のボダニー湾に上陸した。そして、1788年にアーサー・フィリップ提督の流刑者を乗せた11隻の艦隊によって、始めて英国からの移民が成立し、オーストラリア大陸にユニオン・ジャックの英国旗が翻ったとされている。
シドニーと言う地名は、正式に決められたものではなく、初めは“アルビオン”と呼ばれていたそうだ。しかし、その後、オーストラリアに滞在したフィリップ総督が、英国のシドニー子爵の名に因んでシドニー・コプと呼び、1790年から、単にシドニーよりと英国本国に手紙を出したことから、シドニーの地名になったと言われている。
1813年頃からオーストラリア内陸の開発がなされ、ブルー・マウンテンの探検によって、家畜を放牧する牧野オーストラリアの端を発した。そして、やがて自由移民が始まり、徐々に人口が増加した。
特に、第二次世界大戦後、食糧欠乏と混乱するヨーロッパ大陸からの移民が多く、統計によると、戦後急に200万人の移民があり、僅か20数年の間にして、人口が500万人も増加したとなっている。しかし、日本の21倍も広い国だが、人口はまだ千数百万人(当時)の若い国なのである。
シドニーは、ほとんど雨が降らず、空は年中青く、温暖であり、オーストラリアで最も古く、最初にできた大きな町である。