ユーラシア大陸横断鉄道の旅① 東京→下関
1992(平成4)年4月14日、東京駅から鉄道でユーラシア大陸の西端リスボンのサンタ・アポロニア駅まで旅をすることにした。
東京駅は夕暮れの春雨に霞んでいた。東京駅舎のステーションホテル2階で、私の壮行会が催され、6時過ぎまでには、友人・知人が80名ほど集まってくれた。
出発の緊張感はなかったが、前年には旧ソ連が崩壊し、南北分断の朝鮮半島、中国と旧ソ連(カザフ共和国)の国境地帯などの緊張が続く地域を越えて行き、中央アジアのシルクロードを走る鉄道をうまく乗り継いでいけるかどうかが、不安だった。
しかし、「迷ったら行動する」の信念でこれまでやって来たので、実行するしかないと自分を励ましながら、いつものように明るく笑って皆に応対した。
集まった仲間たちに激励され、花束までもらった。7時過ぎに、東京駅の駅長さんの案内で、貴賓室から赤いじゅうたんを敷いてある特別な通路を通ってプラットホームへ出る。既に小雨はあがり、駅の明かりが輝いていた。
プラットホームで私の5人の子どもや妻、兄、そして沢山の仲間たちに見送られ、東京駅19時20分発「あさかぜ3号」下関行き寝台特急に乗り込んだ。
壮行会でアルコールが入り、出発準備で忙しかったので心身ともに疲れているにもかかわらず、なかなか寝つかれない。これからヨーロッパ大陸西端の町リスボンまで、西へ西へと2万キロにも及ぶ、世界で初めてのユーラシア大陸横断鉄道の旅をする。そんな思いで気分が高揚しているのだろうかー。
窓の外は暗く何も見えない。聞き慣れた車輪の音が、心臓の鼓動のように流れる時を追いかけている。まるで子守歌でも聞くように感じられ、しばらくしているうちにいつの間にか寝入っていた。
翌朝、目覚めると、もう岩国近くだった。空は青く、よく晴れわたり、目にする光景が春の光に輝いている。新緑の季節にはまだ早いが、瀬戸内の春は東京よりも早く、線路沿いにはレンゲソウや菜の花、山桜が咲き、竹林が多い。
何事にも始まりは、明るく楽しいにこしたことはない。車窓の光景に春らしさが充ちているのは、この旅立ちを祝ってくれているようで、いっそう楽しい。
午前9時45分に、本州西端の駅、下関に着いた。古くから朝鮮半島への玄関口で、日本から朝鮮半島へ渡る貨客船であるフェリーボートが、釜山港へと運んでくれる。
私は、活気のない構内にたたずんで、江戸末期から下関がかかわった時世の移りゆきを考えながら、しばらく周囲を眺めた。釜山へ渡る関釜フェリーの出発は夕方なので、それまで市内観光をすることにした。