板門店の南と北(1987年)韓国・北朝鮮

 朝鮮半島を南と北に分断している38度線にある板門店を、1987(昭和62)年9月と10月に南と北から眺めた。

①1987年9月(韓国側)

 私は、すでに韓国を4度訪れていたが、板門店を見るために再びソウルを訪れた。そして、大韓旅行社の”板門店ツアー”に1人で参加した。

 板門店への道は、舗装された2車線で、“統一路”と呼ばれている。板門店近くのイムジン川の橋の手前に第一検問所があり、ここからはバス内からの撮影が禁止された。アメリカ陸軍のキャンプ場で30分間説明があり、“敵国からの攻撃による被害には当局は責任をもてない”という訪問者宣誓書にサインさせられ、首に国連軍の招待客用の標識カードを吊るし、国連軍のカメラマンとアメリカ軍の護衛用兵が1人同乗して、板門店に向かう。

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 11時半に板門店に着くと、北側の展望所“板門閣”にポーランドの軍人一行が視察に来ているそうで、双方の兵士が多く、緊張した様子。

 38度線の軍事停戦委員本会議場の部屋は、南北同時に入れないよう、双方の扉が交互に開くようになっている。写真撮影は自由だが、手を上げたり、指を差したり、額に手を乗せたりすると、南の人が北へ来たがっていると宣伝に悪用されるからときつく注意される。

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南側から見た板門店

②1987年10月(北朝鮮側)

 私は、東洋史江上波夫先生を団長とする、日本文化学術代表団の一員として、中国の北京経由で北朝鮮の首都平壌を訪れた。

私は、板門店を北から見たくて本隊と別れて開城を訪れた。朝鮮人参の産地で知られた開城(ケソン)は、高麗時代の都で、朝鮮でただ一ヵ所古い家並みが残っている町である。

 開城から板門店までは12キロメートル。農業協同組合が経営する稲作地帯を車で走り抜け、非武装地帯の入り口に着いた。ここで板門店の模型図を前に、十分程簡単な説明があった。

 これから2キロ間は撮影しないようにとの注意があり、軍人2人が乗った車に先導され、十分くらいで板門店についた。

 北の“板門閣”から南の“自由の家”を見た。国連軍の兵士たちが緊張気味に見ていた。何の拘束もなく自由に兵士も撮影できた。

 南の兵士は国連軍の外国人で緊張感があったが、北の兵士は自国民であるからか、北の兵士にはあまり緊張感がない。それに板門店の北は平穏な農村地帯であった。

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北の板門閣からみた38度線と板門店

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自由の家

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1953年の平和会議場

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