ミャンマー北部探訪㊹ 最終地ホマリンへ(最終回)

 12月19日午後2時17分トンヘを出発し、55キロ川上の最終地ホマリンに向かった。船長は、川の流れが浅くなっている所が多いので、何としても明るいうちに着きたいと、スピードを上げた。

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鶏のケージを満載して川上に向かう船

 船行中に何度かベニヤ板を満載した貨物船が下って行った。それに、鶏のケージを満載した貨物船をまたもや追い越した。この数千羽の鶏を積んだ船は、最初にモーライク近くで追い越し、速度が遅いのでこれで3度目の追い越し、多分、南の町からホマリンに鶏を運んでいるのだろう。

 3時10分、これまで一定の2~300メートルの川幅であったが、左岸の林の中に村があり、半島のように張り出した先端の岩の上に白いパコダがあった。そこを通り過ぎると、川幅が急に7、800メートルになり、両側に砂地が広がり、山が遠く離れた。

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半島のようにせり出したところ

 3時半頃から大平原の中を進み、川の流れが幾筋にも別れ、川幅が広くなったり、狭くなったりと変化が激しく、船長は水深のある流れを探すのに緊張した表情で、水の流れる川面の様子、波立ちで素早く察知し、舳先を変えていた。

 4時40分、遥か遠くにホマリンが見えた。しかし、流れが蛇行しているので、まだ時間が要る。

「ホマリンまで約4キロ」

 船長が知らせてくれた。遠くに見えていた白い建物が夕陽に映えて、だんだん近づいてきた。

 蛇行の激しい地域を抜けると、川幅が500メートルほどになり、流れが安定し、川面が穏やかになった。船長は遅れを取り戻すかのように、フルスピードで船を進めた。

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夕日に映えるホマリンの建物

 林の中に見えるホマリンの建物が、見る見るうちに近づき、夕陽に映えるホマリンの町の岸辺に、5時丁度に着いた。6日間の船旅は無事に目的地に着き、私たちは船長に日本からの手土産を渡して礼を述べ、別れを告げた。

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ホマリンの船着き場

 ミャンマー西北部では最も大きな町ホマリンは、人口約15万人で、ビルマ王国時代からの古い町。川面から10メートルも高い斜面を上がると、川沿いの通りには商店が並び、多彩な品物が所狭しと山のように置かれ、人出も多い。古くから物資流通の拠点として栄えていたそうだが、今も活気がある。

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ホマリンのゲストハウス「YATI」

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通訳のモンさん

 船を上がった地点から川沿いの商店街を、上流の方へ200メートルほど進んだ右手に、3階建ての立派なゲストハウス“YATI”があった。私とモンさんはこの1月にも泊まっていたので、彼女が受付の係員と話し、全員のチェックインをした。私は2階の102号室に案内された。クーラーやテレビ、冷蔵庫、ホットシャワー、トイレなどがある。モンユワ以来の近代的な部屋。椅子に座ってゆったりと熱いゆず茶を飲み、ほっと一息ついた。

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ホマリンの岸辺に立つ筆者

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1月に尋ねた時、ホマリンで食べた昼食

 今回のミャンマー西北部「帰らざる旧日本兵慰霊のチンドゥイン川を遡る旅」における最終地のホマリンは、インパール作戦に参加した日本兵の多くが、チンドゥイン川を西へ渡った所だが、退散の時にはトンヘが最北端で、ホマリンは通っていなかった。

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チンドウインの川面に映えるホマリンの夕日

 午後5時半過ぎ、2階のロビーに出てお茶を飲みながら、西のインドの山々に沈み行く夕陽を眺めた。チンドゥイン川の静かな川面に映える夕日が美しい。内陸の奥深くに居ることも忘れ、旅の疲れを癒してくれるには十分に平和で和やかな夕暮れであった。 

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ホマリン空港前の道路

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ホマリン空港

 私たちは翌日の昼前、ホマリン空港からマンダレーに飛び立った。そして、マンダレーから無事日本に戻った(完)。

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詳しくは拙著をご覧ください。

 今回の「ミャンマー北部探訪」の旅はこれで最後。44回にわたって長い間ご覧くださり、ありがとうございました。今後は週に2-3度、世界のどこかを不定期に紹介しようと思っているので、またご覧ください。

ミャンマー北部探訪㊸ トンヘ村のナンデモウ寺院

 12月19日午前6時過ぎに目が覚めた。3泊したパウンピンのゲストハウスを7時に出て、チンドゥイン川沿いにある店で、ラーメン風のモヒンガーを2杯も食べた。

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濃霧の中を進む舟

 午前7時半に40キロ川上のトンヘに向かって出発した。このところ早朝は川霧が濃く立ち込めていた。今朝も霧が立ち込め、100メートル先がやっと見える程度であった。8時過ぎには霧が晴れて、順調に航行でき、午前9時48分、トンヘの船着き場に無事着いた。

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途中見えた、川の中州にある畑に生えた木

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やっと着いたトンヘ村の船着き場

 船着場から約1キロ離れた村の南端にある、ナンデモウ・チヤン(寺院)へ歩いて行った。我々は、その寺で、41歳の住職ナンタ・マーラ僧と、58歳のウイ・マラ僧の2人にいろいろ質問した。

 この寺は、日本軍の駐屯地跡に戦後の44年前に、日本の援助によって建設されたそうだ。当時、元日本兵の人々がやって来て、トンヘの後ろの低い山尾根にあった野戦病院跡(後で行ったが林になって何もなかった)で、沢山の遺骨を掘り出して持ち帰った。その人たちの支援を受けたとのことだった。 

 約100メートル4方を壁に囲まれた寺のすぐ近くに、もともと小さな寺があった。この寺は、日本軍が駐留していた頃にもあったが、その小さな寺を併合するように作られたと言う。

 この寺には、44年前の慰霊団が残した慰霊の鉄板が吊るされていた。それには次のように記されていた。

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鉄製のに慰霊版

慰霊 戦友よ 安らかに眠れ 一九七二年一月 吾等戦友一同ビルマ国のこの戦跡を訪れ、亡き戦友の慰霊法要を営み 謹んでこの銘を納む 日本印麺戦跡慰霊団

とあり、その下に40数名が列記されていた。

 今から21年前の平成7年11月にも慰霊団が来て、4本の「卒塔婆」をこの寺に預けていたが、それを持ち出して見せてくれた。

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卒塔婆を持つウイ・ラマ僧

 2人の僧は、先代の住職から、戦争当時のことを聞き知っていた。戦争末期には、村人の大半は山に逃げ込んでいた。終わってから帰って見ると、村の至るところに日本兵の死体があった。村人たちはその全てをチンドゥイン川に流した。

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トンヘとタナン間を往復した改造ジー

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タナンの中心地にある東西南北の十字路のあるところ

 インパール作戦で敗退する日本軍が通ったのは、トンヘが最北端の村であった。西のタナンからトンヘに向かう山道は、「白骨街道」と呼ばれたほど、沢山の将兵が道沿いに死んでいたことで有名であったので、私たちはこの前日、おんぼろジープをチャーターし、一日がかりで往復していた。

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タナンの駐屯地跡のそばにあった墓石らしい石

 

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カボウン谷のタナン平地にそそぐ夕日 向こうの山はインド側

 この寺の前の川沿いにある民家の庭では、日本軍が埋めた高射砲の砲身が掘り出されていた。寺の北入口前広場の川沿いには、巨大な菩提樹があった。トンヘ生まれの58歳の僧ウイ・マラさんによると、彼が子どもの時から今のように大きかったので、200年以上は経っていると言った。

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日本軍が埋めたという、掘り出された直後の大砲の砲身

 日本軍がここに駐屯し、司令部を設営していた時には既に大木であったので、多くの日本兵がこの菩提樹を見たことだろう。

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ナンデモウ寺院前広場の巨大な菩提樹

 寺に1時間余り滞在し、村の中央部に戻り、川沿いの道から山の方へ7、80メートル行った高台に、元日本兵たちが寄贈した小学校があった。1999年当初は、小さな平屋の建物一棟だけであったが、今では生徒も増えて校舎が2棟増築されていた。それでも足りなくなって、外の木陰で授業を受けている子どもたちがいた。

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旧日本軍の兵隊たちが戦後に寄付した小学校

 私たちが学校を訪ねると、窓から顔をだした子どもたちが、「ジャパン、ジャパン」と叫びながら手を振ってくれた。 

 私たちは正午過ぎに船着き場に戻った。私は、最後の慰霊地であるトンヘの岸辺で、広いチンドゥイン川の流れを見つめながら、“ふるさと”を口ずさんだ。

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トンヘの船着き場から川上を見る

「ありがとうございました。安らかにお眠りください。これで日本に帰ります」

静かに語りかけて合掌した。

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詳しくは拙著をご覧ください。

ミャンマー北部探訪㊷ 藩王の村タウンダット

 12月17日、宿泊した左岸にあるバウンピンの町で朝食してから、20キロ川上のタウンダットに向かった。そして、右岸のやや高くなっているタウンダットの村に9時50分に着いた。着いたと言っても川岸には何もなく、砂地に乗り上げたのである。

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パウンピンの古い商店

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パウンピンの町で朝の托鉢をする僧たち

 川辺の砂地から斜めに20メートルもの高さまで続く、コンクリートの階段を上がると、“タウンダット”の表示板があった。

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ビルマ語で書かれた”タウンダット”の標識

 下の川面からは見えなかったが、標識の立っている広場近辺に家があり、商店もあった。これまでの村とは少し違い、やや町らしい雰囲気がある。

 この村でも多くの日本兵が戦病死していたと聞いていたので、いつものように、まず村の長老を捜した。モンさんとチョーさんが村人に尋ねているうちに、中年の男が長老の家に案内してくれることになった。

 私たちが案内された道沿いの立派な2階建ての家の2階の壁には、黄金色の大きな菊花紋章があった。モンさんが家の中に入って行き、事情を説明してくれた。

 私たちは、1階の開放的な部屋に招き入れられた。やがて小柄な老人が出て来て、私たちと握手し、私の隣に座った。

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長老のウー・ネルさん(87歳)と話す筆者

 老人は、87歳のウー・ルネさんで、モンさんやチョーさんの通訳で、私たちの質問にしっかり答えてくれた。

 この村は、ビルマ王国時代からこの地方の藩王がいた村で、現在は480軒で2554人が住んでいるそうだ。イギリスの植民地になって間もなくからイギリスの軍人たちがいたそうだが、やがて日本軍がやってきて、イギリス軍を追い出して駐在していた。ところが、インパール作戦末期には、イギリス空軍機による爆撃が激しくなり、村人たちは皆が山の中に逃げ込んでしばらく帰って来なかった。

 戦争が終わって村に戻ってみると、沢山の日本兵の遺体や遺骨が散在していた。村人たちは、遺体はチンドゥイン川に流し、遺骨は村の古い寺、“レイボー・チヨン”にあった古井戸に投げ入れて埋めた。何体かは知らないが、とにかく沢山の遺骨を井戸の中に投げ入れたそうだ。

 ウー・ルネさんは、日本兵の鉄兜や銃剣、銃身、飯盒などを持ち出して見せてくれた。そして、当時の出来事をいろいろ話してくれた。

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日本兵の鉄兜と銃身

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水筒の尻には”日本アルミ”と表記されている

 私は、ウー・ルネさんに日本兵の遺骨をたくさん投げ込んだという古井戸に案内してもらった。彼の家から200メートルほど進んだ所に、トタン屋根が9層になった高さ3、40メートルもある尖塔型の古い寺、レイボー・チョンがあった。

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レイボー・チョンに案内するウーさん

 井戸は寺院から2、30メートル離れた所にあったが、埋め戻されて平地になっていた。5年前に、その古井戸のあった所に高床式の建物が建てられ、今はその下になっていた。しかし、床の下に井戸の形が半分ほど確認できた。

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床下の古井戸のそばで合掌する筆者

 私は、やって来た村長(ウーさんの息子)や村人たちに相談して許しを得て、古井戸の傍らに小石を置き、日本から持参した海苔巻煎餅を載せ、線香に火をつけて焼香し、日本酒を注いで、“南無阿弥陀仏”を唱えた。そして、“ふるさと”を口ずさんでいるうちに、ここで死んだ若き兵士たちの無念の思いが込み上げ、涙が溢れて声が出なくなった。

 しばらくしてから立ち上がり、ウー・ルネさんや村長、10数名の村人たちに話しかけた。現場にいた村人全員が、誰一人拒むことなく線香を大地に置いて黙祷してくれた。

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古井戸から20メートルほど離れたところに作られた、新しい井戸のそばで洗濯や水浴びをする女性たち

 私は、チョーさんを通して皆さんにお礼を述べ、ウー・ルネさんの手を取って感謝し、体に気をつけて長生きしてくださいと申し上げてお別れした。

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詳しくは拙著をご覧ください。

ミャンマー北部探訪㊶ 日本兵の遺体を川に流したヘロー村

 シッタンを12月16日の午後3時半に出発し、右岸にあるヘロー村の船着き場には4時20分に着いた。

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途中で見かけた小さい川舟

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川を下る貨客船

 船着場から砂地の斜面を200メートルほど歩いて上がると、広い平地になっていた。ここは雨季には水没するが、今は耕作地で落花生が栽培されている。その畑の中の道を300メートルも進むと、更に10メートルほど高くなって、ヤシやマンゴー、バナナやコックベン等の木が多い林の中に家が建っていた。

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雨季には没する川床の雑草を抜き取り、農地にする女性たち(拙著掲載のコピー)

 斜めになった坂道を上がり切った所に、木製の黒っぽい寺があった。そこから南北に道があり、それに沿って家が建ち並んでいる。我々全員が初めての村なので、モンさんが近くの雑貨屋で、村の長老について尋ねた。対応してくれた若い女性が、北の方を指差して教えてくれた。

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ヘロー村の婦人たち(拙著掲載のコピー)

 寺から100メートルほどの道沿いに、大きな高床式の家があった。モンさんが呼びかけると、小柄な老人が出て来た。モンさんとチョーさんの2人が、我々が日本から来た旨を伝え、いろいろ説明してくれたので、老人は、当時のことを話してくれることになった。

 この村の長老・ウーターン・マウンさんは87歳。インパール作戦当時は15歳で、当時のことをよく覚えていた。

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ヘロー村の長老ウーターン・マウンさん(87歳)

 日本軍がインパール作戦を開始し、チンドィン川を渡って西へ向かった時には、ここヘロー村は通らなかった。しかし、撤退時、シッタン村をイギリス空軍がしつこく爆撃し、チンドィン川を東へ渡ることが困難であったため、多くの日本兵が約20キロ川上のヘロー村に来て、東の対岸へ渡った。しかし、やがてイギリス軍の知るところとなって、この村も激しく爆撃されるようになった。そのため村人たちは、遠くの山の中に逃げ込んだ。

 戦争が終わって村に帰ってみると、家は爆破され、沢山の日本兵が、至る所で死んでいた。村人たちは、死体を見つけ次第チンドゥイン川に投げ入れて流した。

 今は乾季で、川は村から東の方へ4、500メートルも離れたところを流れているが、当時は雨季で、川幅は広がり、村のすぐそばを流れていた。

 戦争当時のことを知っている村人はもう殆どいない。若い世代は何も知らないそうだ。私たちが老人から話を聞いているうちに、日本人が来たということで、村人が集まって来たが、老人の話を聞いて、信じられないと驚いていた。

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乾季の川床を耕すヘロー村の農民

 村を出てもと来た道を引き返したが、乾季に農耕地になっている川床は広く、今を盛と耕作しており、夕陽を浴びて牛に犂を引かせている光景が、豊かで平和な村を象徴しているようであった。

 5時20分にヘローを出発し、川上にある今夜の宿泊地パウンピンの町に向かった。

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詳しくは拙著をご覧ください

ミャンマー北部探訪㊵ 日本語を話すシッタンの老人

 12月16日、午前8時前にモーライクを出発し、午後2時半にシッタンに着いた。

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シッタンに向かう途中出会った貨客船

 船は寺の南の砂浜に乗り上げて接岸した。高さ8、9メートルほどの堤の坂道を登ったところで迎えてくれたのは、この1月にも案内してくれた、43歳のニャン・トーンさん。彼の案内で、かつての日本軍が駐屯していた兵舎の跡地に建てられた寺と学校を訪ねた。木製の黒っぽい小さな寺には僧侶はいなかった。長さ30メートルほどの素朴な平屋の学校には、先生も子どもたちもいなかった。何となくさびれた感じのする小さな村であった。

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盛り土を掘り起こすニヤン・トーンさん

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垣根の外から見た学校

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日本軍の兵舎跡に建った学校

 私は、この1月に、モンさんと訪れて、84歳のティン・マー老人に会って話を聞いていた。

 1月の訪問の時は、パウンピンで川船をチャーターしてやって来た。船から降りて、粘土質の土が干上がった土手の側面を10メートルほど這い上がった。川面からは見えなかったが、木造の高床式住居が2、30軒の小さな村であった。

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パウンピンでチャーターした小舟でシッタンに向かう時の筆者

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シッタンに着いて、土手に立つ通訳兼案内人のモンさんと筆者

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村人たちと話すモンさん 中央の男性はニヤン・トーンさん

 集まってきた村人たちに、同行のモンさんが、旧日本軍が駐留していた時を知っている老人に会いたい旨を伝えた。村の男が案内してくれたのが、そこから30メートルほど南の、道沿いに建つティン・マーさんの家であった。

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川沿いにある道傍のテイン・マーさんの家

 高床式の大きな家から出来て来た老人は、身長170センチほどで、村の中では背が高く、大柄の体格であった。頭に毛糸の帽子を被った骨張った顔に眼鏡をかけていた。

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庭に立つテイン・マーさん

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シッタン生まれの83歳の老婆は、戦時中疎開していなかったそうだ

 老人は、モンさんが、私が日本から来たと告げて握手すると、私の顔を見つめながら「こんにちは」と言ってにこやかな表情をした。

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セレーを手にして話すテイン・マーさん

 ティン・マーさんは、「まず座りなさい」と、庭の高い椰子の木の下に運び出された丸木の椅子を勧めてくれた。84歳の彼は、庭の椅子に座り、左手の人差し指と中指の間に親指大のセーレー(タナの葉でまいたタバコ)を挟んで、時々吸っては煙を吐き出しながら、彼が11歳頃のことを話してくれた。

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時々日本語を交えて熱心に話すテイン・マーさん

 当時の村は、今の4,5倍も大きかった。日本軍は、この村に3、400メートル離れた対岸のターン村から小舟でやって来たり、川下の南の方から大きな船で来たりした。多い時には2,000名もの日本兵が駐留していた。彼の家から300メートルほど南の、今は寺や学校が建っている川沿いの所に兵舎があった。

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シッタン郊外の田園地帯

 彼は、そこによく遊びにゆき、日本兵に頭をなでられたり、朝起きたら顔を洗い、歯を磨き、手を良く洗うことなどや、日本語を教えてもらったりした。今でも「ありがとう、よろしく、こんにちは、さようなら」などの日本語をかなり覚えており、時々日本語を使って話した。

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日本軍が駐屯していた時にもあったと言う、学校傍の菩提樹の古木

 乾季の3月頃、多くの日本兵がここシッタンから西のタム(約48キロ)の方へ行ったが、インパール作戦から撤退する雨季の7・8月頃には、タムの方からシッタンへ沢山の兵隊が戻ってきた。僅か3、4カ月の間に日本兵の様子は様変わりしており、兵舎の中だけではなく、その辺に沢山の傷病兵が横になっていた。

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日本軍が拡幅したタムへの軍用道路

 多くの戦記によると、シッタンの野戦病院に沢山の傷病兵が横になり、大変悲惨な状況であったとあるが、ティン・マーさんによると、野戦病院などなく、傷病兵は、兵舎周辺に沢山横になっていた。その後のことは良く知らないが、今になっては日本兵の遺体などどこにもないとのことだった。

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荷物を頭にのせたシッタンの女性

 その後のことを聞きたくての再訪であったが、老人は数カ月前から痴呆症ぎみになって、話すことができなかった。 

ミャンマー北部探訪㊴ 日本の敗残兵が埋もれたモーライク

 12月15日、午前11時過ぎにカレワから北のモーライクへ向かった。

 カレワの数キロ川上には、チンドゥイン川に架かる2番目の橋が建設中で、日本の会社もかかわっており、もうかなり工事が進んでいた。

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建設中のチンドウイン川第二の鉄橋の東側

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建設中のの第二の鉄橋西側

 12時36分には、左岸にマセインと言う大きな村が見えた。この村の丘には小さな白いバコダが沢山並んでいた。後で聞いたのだが、この村にも日本軍が駐留していたそうだ。

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左岸のマセイン村全景

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川沿いのマセイン村

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マセイン村北側の丘にある白いパコダの列

 午後1時半頃、チンドウィン川をゆったりと下っている家形の大きな竹の筏を見かけた。

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家型の竹の筏

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四角い箱型に組んだ竹の筏

 午後2時20分にはモーライクに着いた。川面から4~50メートルも高くなっている岸辺の階段を上がった所にAKZゲストハウスがあった。我々一行はここに泊まることにした。人口1万ほどのこの町には、ここに勝る宿泊所はなかった。

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モーライクの船着き場

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乾季の船着き場から上がる長い階段

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AKZゲストハウス前の我々一行

 我々は荷物を部屋に運び込んで、すぐに外に出た。そして、戦争当時にこの地に起ったことを聞くために、70歳以上の老人を捜して歩いた。最初に会ったのが、90歳の老婆、キンタさんだった。彼女は、16、7歳の時、マセイン村に駐屯していた日本兵から習ったそうで、「あなた、ありがとう、村長、娘、かわいい」等の日本語をまだ覚えており、久し振りに会った我々日本人に、懐かし気によくしゃべった。しかし、彼女は結婚してからこの町に来たので、戦争当時のモーライクに関することは何も知らなかった。その彼女に紹介されたのが、モーライク生まれの76歳の老人ウー・タンセンさんであった。

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モーライクの町中の通り

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モーライクの街を歩く人々

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道沿いに干した洗濯物

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マセイン村出身90歳のキンタさん

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76歳のウー・タンセンさん

 彼は、この町で英語塾を開いている英語の先生であった。「私の幼少年時代の記憶は確かではないので、当時のことをよく知っている女性を紹介する」と言って、彼の家から道を挟んで反対側にある大きな家に案内してくれた。2階に続く木製の階段を音高く踏み鳴らし、大きな声で女性の名前を呼びながら上がった。2階の板の間に、日本人のような、眼鏡をかけた老婆が1人座っていた。

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88歳のドー・ベインチンさん

 ウーさんが事情を説明してくれ、彼女が当時のことを話してくれることになった。我々は88歳になるドー・ベインチンさんを囲んで座り、チョーさんとモンさんの通訳でインタビューした。

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熱心に話してくれたドーさん

 インパール作戦に失敗してこの地に退散してきた日本兵は、傷つき、飢えと病気でひどい状態であった。彼女たちは、初め日本兵たちに食べ物を与え、世話をしていた。しかし、あまりにも数が多くなったことと、悪臭がひどいのとで途中から世話するのを諦めた。彼女の家の近くにビルマ人の医者がいたが、手の施しようがなくなって逃げた。何よりイギリス空軍の爆撃が激しく、町の人々も大半山の方へ逃げた。

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大木に覆われた古くからの建物

 日本兵の多くは、イギリス空軍の激しい爆撃で死んだり、病気や飢えで死んだりしていた。その数は無数で数え切れず、どこもかしこも死体や遺骨が溢れていたそうだ。

 1944年のインパール作戦が終わって1カ月後くらいの9月ころに、町の人々が戻ってきて、街を清掃するために、30人が1組で4グループ作り、日本兵の遺体を集めた。そして、それらをチンドィイン川に投げ入れたり、爆弾の跡の穴にゴミと一緒に投げ入れて埋めたりした。

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モーライクの朝市

 当時15歳であった彼女は、そのグループの一員になって、日本兵の遺体を来る日も来る日も集めたと、暗い表情で語った。

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米の粉を練って蒸しパンを作る女性

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米の粉の蒸しパン

 遺体を投げ入れて埋めた所は、今では家が建てられたり、道や沼地、林になったりしていて、その場所がはっきりしていない。唯彼女の記憶によると、森林署の建物があった所の大きな穴には、特に沢山の遺体を投げ入れたそうだ。戦後再建された今の森林署の建物の下には、今も沢山の遺骨が埋まっているとのことだった。

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国営森林署の入口

 私たちは、彼女に礼を述べて家を出た後は、北の方へ500メートルほど離れた国営の森林署を訪ねた。門番はいなかったので、国旗が掲揚されていた庭に入った。やがて2人の女性が出て来たので、日本から来た旨を伝え、許可をもらって皆が入った。

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国営森林署の庭

 私は、かがみこんで、多くの将兵の遺骨が埋まっているだろう床下を見詰めながら、「ごくろさんでした」と呟きながら合掌した。

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町の北側にある時計塔

 私たちは、暗くなりかけたモーライクの町を歩き、街の北側にある大きな時計塔の横を通ってチンドィイン川沿いに出た。そして寺院の建ち並ぶ川沿いの道を歩いて、街の南側にあるゲストハウスに戻った。

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雨季との水面差が40メートルほどあるそうだ

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モーライクの川沿いにある寺院群

 

ミャンマー北部探訪㊳ 大蛇のいるシュエジン村

 チンドゥイン川の左岸にあるシュエジン村は、南北を低い砂岩の山に挟まれた谷間にあり、入口は幅200メートルくらいで狭いが、奥行きがあるのか、小川が流れ出ており、砂の多い重厚な砂地が続いている。カレワから10数分下って来た船は、その砂浜に乗り上げるように停泊し、私たち一行は下船した。川辺には沢山の長い竹が運び出されており、竹の筏を組んでいる人がいた。

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舟から見たシュエジン村の入口 右に小川の出口がある

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我々の船は、シュエジン村の砂地に乗り上げて停泊した

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村の南側を流れる小川の出口

 砂地の坂道を上った所に、コックベンと呼ばれる大木があり、その近辺にニッパヤシの葉で葺いたり、トタン屋根の高床式の家が散在していた。

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乾季で干上がった川床の砂地

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砂地を耕して落花生を植えていた

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村の入口にある”コックベン”と呼ばれる大木

 我々がやってくるのを見ていた村人たちが、すぐにコックベンの木の下に集まって来た。そして、モンさんやチョーさんの説明を聞いた、村長だと言う55歳のウ・テンマンさんが対応してくれた。

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村長のウ・テンマンさん

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村の高床式住居

 この村は、以前は大きかったが、戦後まもなくから村人の多くが仕事を求めて村を出て、今では14軒、50数人の小さな村になっているそうだ。

 戦争当時、最初はイギリス軍が駐屯していたそうだが、やがて日本軍がやって来て、激戦の末イギリス軍を追い出した。その後日本軍がやって来て、一部の兵は残ったが、多くの兵はイギリス軍を追って川を渡ったそうだ。

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戦争当時の武器の残骸を見る筆者

 村人たちは、当時の銃剣や中型爆弾、機関銃の弾、鉄兜などの遺留品を次々と家から持ち出してきた。もちろん日本軍が駐屯していたこと、多くの戦病死者がいたこと、遺体を川に捨てたことなど、まるで現場を見たかのようにさまざまなことを話してくれた。

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村の奥へ通じる道

 しかし、こんな小さな村に、イギリス軍や日本軍が何故駐屯していたのか疑問にかられ、私は村の奥の方へ向かった。

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村の入り口から300メートルほど入った平地

 300メートルほど中に入って山陰になっていた奥の方を見ると、村の入口の狭さと違って、小川のある広い谷間に田畑が広がっており、この村の食料生産量が多かったことが解った。

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広い谷間の田園地

 稲が実っている広い稲田のあぜ道に立って眺めていると、村人たちがやって来て、この広い稲田は、日本軍が駐屯していた場所で、傍らの赤い花をつけた“パウ”と呼ばれる大木は、通信用のアンテナとして使われており、当時この木に打ち込んだ白い碍子が、木の成長によって食い込まれ、わずかに頭を出していた。

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かつて日本軍が駐屯していた跡地にできた広い稲田 この辺に大蛇がいるのだそうだ

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日本軍が通信用に使っていたという駐屯地傍の大木、バウ

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大木パウの木肌に食い込んで残っている碍子

 驚いたことに、この広い稲田には、5、6メートル以上もある大蛇がいるそうだ。大蛇は水田の神様で、村人たちは大蛇を恐れることもなく、守るように共存しているそうだ。

 今もいるかと尋ねると、「その辺にいるか、山にいるか分からない」と答え、村人たちは楽し気に笑っていた。

 食糧が乏しかった当時の日本兵は、蛇やトカゲを食べたと聞いていたのだが・・・。50代の村人が子どもの時からいたそうなので、もしかすると日本兵にも喰われずにいたのかもしれない。

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谷間の奥から”ワ”と呼ばれる竹を切り、水牛にひかせて運び出す村人

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谷間の奥から切り出された竹 川で筏に組んで南へ運ぶ

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チンドウイン川沿いの砂地に立つ村の娘たち

 この谷間の奥は、“ワ”と呼ばれる竹の生産地でもあり、長い竹竿を10数本束ねて、牛に引かせて川辺に運び出していた。となると、食糧になる筍も豊かなのだ。

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チンドウイン川で洗濯しようとしている村の婦人

 南北を砂岩の山に挟まれ、西側をチンドゥイン川に守られて東へと延びているこの谷間は、小川沿いの農耕地に恵まれた要塞の地であった。そんなこともあって、日本軍は、この地を食糧供給地として確保していたようだ。

ミャンマー北部探訪㊲ カレワの町

 カレワはチンドゥイン川沿いの古い小さな町で、外国人が泊まれるようなホテルはなかった。ここから45キロ西のカレーミョまで行き、そこのモダンなホテルに泊まった。

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舟から見たカレワ全景

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船溜まりが二つの川の合流点

 12月15日、カレーミョからメタ川沿いに車でカレワに戻った。メタ川とチンドゥイン川が合流する三角状の頂点近くの、小高い丘の上にあるシュエモト・パヤから街を一望することにした。  

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右メタ川 左チンドウイン川の合流点 向こうは南北に走るメンゲン山脈

 1944年当時は、この町にも日本軍が駐屯していたし、インパール作戦に失敗して敗退してきた多くの将兵が、ここからチンドゥイン川を東に渡ったそうだが、その当時にもあった古い寺で、多くの日本兵が訪れていた。

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カレワの町の中心地

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カレワ中心地の米屋のコメをついばむ雀たち

 私たちは、その寺院に下で靴を脱いで素足になり、長い階段を上った。丘の上の寺の入口には、寺院再建のために募金をしている人が椅子に座っていた。我々6人の突然の訪問に驚いた表情の彼は、急いで立ち上がり、笑みを浮かべて迎えてくれた。

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丘の上の寺院の中にある仏塔

 私は、1年前に訪れた時も寄付をして、僧侶から手書きの立派な領収書をもらっていた。今回も1万チャット紙幣を差し出した。他の日本人も寄付したので、彼は大変喜んで、破顔一笑した。

 59歳のキンマウン・シエンさんは僧侶ではなく、午前中だけ奉仕で募金係をしているとのことだった。

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募金係をしていたキンマウン・シエンさん

 標高135メートルのカレワの町は、東と南西側を川に、西北側を標高2~3百メートルの山に囲まれた、三角形状の平地にある。ニッパヤシニセアカシアなどの高木の茂る、緑の多い町だが、これ以上発展するには地理的条件が悪い。

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寺の境内から見たカレワの町

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町の西北側にある山

 カレワは、川を利用した交通の便の良い商業地で、古くから栄えた町であったが、今ではこの西の平原にあるカレーミョの方が、陸路の交通の便が良いので繁栄している。しかし、この寺の境内から一望できる山と川と町並の眺めは素晴らしいので、今後は観光地として有望な所である。

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舟から降ろされた商品としてのツボ

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右側の小屋はカレワの船着き場の食堂

 キンマウンさんは、戦争当時のことを多くの人から聞いて、いろんなことを知っていた。

 日本軍は当時、西の山の麓に駐屯しており、町には沢山いて、この寺にもいたそうだ。イギリス空軍の飛行機に爆撃されて町は焼けた。この寺には当時落とされた爆弾を鐘として吊るしており、今も使っていた。

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左につるされているのは、イギリス空軍が投下した爆弾

 この町でも沢山の日本兵が死んだそうだが、その後どうなったかは聞いていない。多分、チンドゥイン川に流したのだろうとのことだった。ミヤンマーの仏教徒は、輪廻転生を信じる小乗仏教なので、埋葬して墓は作らない。一般的には焼き捨てるか川に流す。

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カレワ近くに建設中の鉄橋

 多くの日本兵が、インドの方から戻って来て、ここから川を東へ渡った。彼らが目指したのは、5、6キロ南の対岸にあるシュエジン村であったと教えてくれた。

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丘の上の寺の境内から見たチンドウイン川上流

 私は、この1月にモンさんと2人で、川上のトンビン村近くで、チンドゥイン川を西から東へ渡るフェリーボートの船上で、シュエジン村出身の40代の船員たちに会った。彼らによると、子どもの頃、村の近辺では時々日本兵の骨が発見されていた。村人たちは遺留品を保管したり、売ったりしたが、骨は素焼きの壺に入れ、チンドィイン川に流したと言っていた。

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カレワの昼間の船着き場の様子

 私は、皆に話して、シュエジン村を訪ねることにした。

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丘の上の境内に咲いていた花

 

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詳しくは拙著「チンドウイン川紀行」をご覧ください

ミャンマー北部探訪㊱ モンユワからカレワへ

 私たち日本人4人は、モンユワから570キロ北のホマリンまで、ミャンマー北西部を北から南へ流れるチンドゥイン川を船で遡上する、かつての「インパール作戦」において、チンドゥイン川沿いで、戦病死した万を超すとも言われる日本兵の霊を弔う、「チンドゥイン川慰霊の旅」に出た。

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モンユワのチンドウィン川岸の客船

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モンユワの対岸への渡し船

 2016(平成28)年12月14日午前6時すぎ、一隻の客船をチャーターしてモンユワを出発した。私達日本人一行はNHKエンタープライズディレクター新山賢治、カメラマンの新田義貴、若い田中教伍と私の4人。そして私の通訳として何度か旅を共にした女性のモンさん、それに新山さんの通訳兼現地コーディネーターの50歳代男性チョー・メエツウーさんの合計6人。それに船長と助手が2人の全員9人の乗船である。

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私たち一行4人と通訳のモンさん

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船長のアウン・ミヨーメイ(41歳)さん

 モンユワを出発して間もなく、川床の砂利を採取する船が10数艘もいて、早朝から活動していた。川の両側には山などなく平原が続いており、午前6時45分に東の空に太陽が昇り、川面が一段と明るくなった。

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川床の砂利を採取する 採石船  

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砂利採り舟のかなたに橋が見える

 午前7時頃、チンドウィン川にかかる唯一の大きな鉄橋の下をくぐった。大陸の大川にかかる橋は、日本では想像もつかないほど巨大な規模だ。

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チンドウイン川唯一の橋

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巨大な鉄橋の下をくぐって行く

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航行の安全を願って舳先に生けた神柴 「タビエ」

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船の艫にある厠

 船の舳先には、若芽が赤褐色で美しい葉をつけた“タビエ”と呼ばれる神柴が円筒形の筒に数本活けられている。船長によると、航行中の安全祈願のためで、枯れないように毎朝水を注ぎたして世話をするそうだ。

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川面より10メートル近く上にある村

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雨季には川面が10メートル近く上がる

 午前11時20分、乾季で水量が少なくなって干上がった、右岸の広い川床の川沿いに、竹やヤシで造った小屋が並ぶ村を見かけた。村人たちは、川から1キロも離れた雨季の村から出て、乾季の臨時の村だそうだ。大陸の大きな川沿いに住む人々の生活の知恵で、広い川床を耕して作物を栽培し、川魚を採って食べる、古来の特徴的な生活様式だそうだ。

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乾季用臨時の村

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川床の幅が1キロ近くもある

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竹と椰子の葉で作られた乾季用の家

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乾季の川沿いの人々

 これから度々使われる“右岸”と“左岸”の呼称は、国際的慣例で川の上流から見た右側を右岸、左側を左岸とするとされている。

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乾季でも川幅が1キロ以上もあるところがあるチンドウイン川

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村々を結ぶ貨客用の舟

 チンドウィン川には、川を下る竹の笩や竹船が多い。ミャンマーの南の方には、節の長い、肉の厚い“ワ”と呼ばれる竹はないので、川下のパガンや遠くヤンゴンまで、1ヶ月も2ヶ月もかけて下って売り払う。この竹はパガン地方の特産の竹かごや漆器の原材料となり、ヤンゴンでは、高い建物を建てる時の足場を組むに必要な建築材になる。

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ゆったり流れる竹の筏

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竹を運ぶ竹の筏舟

 11時41分、川幅500メートルほどの右岸にできた乾季用の村テンドーに接岸した。川面から10メートルも高い斜面に建てた簡易レストランで昼食。広く干上がった白い砂地を見渡しながらいろいろ想像した。

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昼食用に停泊したテンドー村 白い屋根がレストラン

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テンドー村での昼食

 雨季には数キロにも及ぶ大陸の川の異常に変化することを知らなかった、7、8月の雨季に直面した日本の兵隊さんたちは、さぞ困ったことだろう。何より、このチンドウィン川には万を超す日本兵の遺体が沈み、その遺骨は川床の砂となって、今は干上がった白い砂の粒になっているのかもしれない。

 昼食後、12時30分に出発した。川沿いにはあまり村は見えない。雨季の増水時には危険なので、川沿いから離れた安全な場所にあるのだろう。

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ミンゲン村

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林の中に見えるミンゲン村の仏塔

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川で水浴びや洗濯する女性たち

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ミンゲン村のはずれで水辺に座る娘たち

 2時30分、右岸の林の中に見えたミンゲン村を通過し、村はずれで水浴びをしたり、洗濯をしたりしている女性や子どもたちがいた。そして、川沿いの干上がった川床を牛に犂を引かせて耕している人がいた。この地方では、乾季の始まる10月下旬から川床を耕し始め、豆類、瓜類、落花生、トマトなどを栽培し、2月から3月には収穫し終わるそうだ。

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耕された川床 雨季には水没する

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川床を行く農夫

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牛にスキを引かせて川床を耕す農夫

 大陸における農業は、川沿いで始まったとされている。そして、古代において発展した町は大抵大川沿いにあった。それは、雨季に上流から肥沃な土が運ばれ、途中の川床に堆積し、乾季にその川床で作物を栽培し、食料が確保できたからだ。

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川辺に佇む女性

 午後5時15分には、チンドゥインがメンゲン山脈を西から東へと突っ切った、砂岩の岩壁が続く所を通った。川の流れが徐々に浸食した岩壁の間を抜けると、目の前にカレワの町が見えた。

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カレワ近くの砂岩の絶壁

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カレワの川辺

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カレワの船着き場

 初日の目的地カレワは、北からのチンドゥイン川と西のカレーミョーから流れるメタ川が合流している三角状の台地にある。午後5時22分、無事カレワの接岸地に着いた。

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川から見たカレワの町

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詳しくは拙著「チンドウイン川紀行」をご覧ください

ミャンマー北部探訪㉟ メイッティーラの慰霊所

 私は、ビルマ戦線における最後の激戦地ともいえるエーヤワディ会戦の、最終地であったメイッティーラの慰霊所を、2016年1月20日に通訳兼ガイドのモン女史と共に、マンダレーから車をチャーターして訪ねた。

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マンダレーから南のヤンゴンまで600キロも続くハイウエイ

 マンダレーから高速道路を南へ160キロ走った先のメイッティーラは、平地の中にあるメイッティーラ湖の湖岸にある人口約9万人の町。古くからの交通の要所で、町の中心に大きな時計塔があることで知られていた。町の中のメイッティーラ湖にかかる大きな橋の袂には、巨大な鳳凰鳥の形をした黄金の寺院ファンドーウー・パヤがある。 

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メイッテイラー中心地の時計塔

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鳳凰鳥の形をした寺院 ファウンドーウ・バヤー

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メイッテイラー湖にかかる大橋

 その大橋を西側に渡って100メートルも行くと、北側の右に、「世界平和祈念パコダ」の名で知られたナガヨン・パヤがある。この仏塔は、この辺の激戦で生き残って帰国できた、元日本兵の寄付によって1987(昭和62)年に建立されたものだそうだ。

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日本人が建設費を寄付したナガヨン・パヤ

 そのナガヨン・パヤから3、4キロ東へ行った湖畔に、古くからのトーンボ僧院がある。この僧院には、メイッティーラ地域で戦死した多くの日本兵の遺骨が埋葬されているとのことだったので、モンさんの案内で訪ねた。

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トーンボ僧院入口にある日本語の墓標

 木製の簡単な門から中に入ると、直ぐの右側に日本語の墓標があった。その反対の左側には日本兵の慰霊小屋がある。モンさんが寺の事務所から案内役として連れて来たのは、41歳のウー・ビニヤ・ソーダ僧であった。

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案内してくれたウー・ビニヤ・ソーダ

 彼がまず案内してくれたのは慰霊小屋で、熊本県の諏訪ハツノさんが寄贈したものだった。 

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慰霊小屋にあった碑文

“第四十九師団歩兵第百六十六聯隊 故陸軍大尉 諏訪利市之霊 昭和二十年三月二日 メークティーラに於いて戦死 熊本 諏訪ハツノ”と記された墓標の横には、“丸二式歩兵砲”が置いてあった。その砲には、“No.10241 昭和十七年製 名古屋陸軍兵廠”と明記されていた。

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丸二式歩兵砲

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歩兵砲に明記されていた文字

 諏訪さんが亡くなられたのは3月2日とあるので、メイッティーラが2月17日に一度イギリス軍に占領された後、日本軍が兵力を集結して逆襲し、激戦を展開した時だ。

 インド東北部のインパール攻略に失敗して退却した日本軍は、チンドゥイン川を西から東へ渡って、マンダレー近辺までやっと戻って来た疲弊した敗残兵を再度集結し、南下してくるイギリス軍をこの地で食い止めようとしたが失敗し、3月30日の夜中に、東へ後退したと言われている。

 この僧院は、旧日本軍駐留時代からあり、日本軍が近くに駐屯していたこともあって、日本兵の遺骨が集められている慰霊所があるとのことだったので、そこへの案内を頼んだ。

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慰霊碑の前に立つ案内してくれた僧

 僧は、入口から200メートルほど先の小さな広場に案内してくれた。そこには、広場を囲っているコンクリートの壁際に、緑色の碑が3個並んでいた。真中の大きな墓碑の前には卒塔婆が7枚立てかけてあった。

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真ん中の慰霊碑前に7本の卒塔婆がたてられている

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慰霊碑に明記された碑文

 墓碑は、一辺3メートルほどのコンクリートで仕切られた土の上に立っていた。僧によると、この土の下に日本兵の遺骨が埋葬されているとのことだった。このことは日本政府も承知しているとも言った。

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日本から持参した小瓶から土の上に酒を注ぐ筆者

 私は、日本から持参した日本酒の小瓶を取り出して、卒塔婆の前の土に注ぎ、「ご苦労様でした」と合掌して、自分も瓶の蓋に注いで飲んだ。

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酒を注いだ後、小蓋に入れて酒を飲む筆者(モンさん撮影)

 何体埋葬されているのか、僧は知らなかったが、1976(昭和51)年に生き残った旧日本軍の兵士や遺族たちがやってきて、この辺で戦病死した遺骨を集めて埋葬し、帰らざる兵士たちの法要を営んだそうだ。 

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メイッテイラーで食べた昼食 左の黒いのは小鳥の丸焼き

ミャンマー北部探訪㉞ インドとの国境の町タム

 2015年1月当時、ミャンマーはまだ外国人が旅行できない地域があった。1月10日頃、マンダレーミャンマー観光案内所に、インド東北部のインパールに最も近い国境の町、タムへの旅行許可願いに訪れた時、対応してくれた事務員は、次のように話した。

 「外国人は、カレーミョーまでは行けますが、その先のタムへは治安が不安定なので行かないでください」

 インド人以外の外国人は、タムへは行かないそうだが、別に罰せられることはないとのことだったので、旧日本軍がインパール作戦敗退後の現地の様子を見ようと思い、意を決してタムまで行くことにした。

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カレーミョー空港

 カレーミョーのホテル従業員によると、カレーミョーからタムまでは131キロあるそうだが、タム行きの直行バスがあるとのことだった。1月16日の早朝ホテルを出て、午前8時発の乗り合いバスに3000チャット払って乗り、運転手隣の壊れかけた古い席に座った。

 バスは前世紀物のオンボロ。客は現地人が20数名乗っている。ガタガタ、ブルブルと変な音を立てながら走るので、時代スリップしたような感じがするが、前を向いて座っている限り、ちゃんと進んでくれるので何も問題はない。道は、インドへ通じる通商路なので、舗装された2車線を、50代後半と思える運転手は、慣れた手つきでオンボロバスをいたわりつつ走らせる。

 3時間以上も運転手の横に座っていたので、片言英語を話す彼と親しくなった。タムの入り口で搭乗者のチェックがあったが、運転手がうまく取り計らってくれた。

 午前11時35分、タム中心街の三叉路の所でバスは止まった。運転手が親切に三輪タクシーを呼んでくれ、カレーミョーから電話予約をしていたホテルへ案内するよう指示してくれた。

 タムの町は晴れていた。ホテルの3階から西の方へは、インドの山々が見える。街はトタン屋根の家と2~3階のコンクリートの建物があり、新旧入り混じった街並みで、道はまだ整備がされていない。タムはチンヒル北部の東麓にある、まだあまり発展していないチン族中心だが、ビルマ族の植民地のようになった町。チン族、ナガ族、マニプル人、山岳民族、そしてビルマ族などが入り乱れて混住しているので、町の人口数はまだ分かっていないそうだ。私が見た限りでは、近郊も入れると少なくて2万、多くても4万人くらいのようだ。それに町の地図などはまだなかった。

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池の上に作られた立派なレストラン

 ホテルから約500メートル離れた三叉路近くに“Water World”と表記した、池の上に出来たレストランがあったので昼食をした。インド人らしい客が多く、100人は入れるくらいの広さで、夜は飲食兼用のクラブになるようだ。

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タム中心近くの丘の上に立つ古い見張り塔

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丘の上から見下ろしたタムの町

 昼食後、近くの丘に上って、見張り塔の上から街を見下ろした。タムの町は木が多くはっきり見えないが、もう戦争当時の残像はなく、かなり広範囲に広がっていた。

 1944年当時のインパール作戦中には、ここタムや隣のインド側の町モレーに沢山の日本軍人が駐屯し、インパール作戦の最前線は、モレーの低い山をもう1つ越したチャモールであったと言う。そして多くの戦病死者がモレー近辺に埋葬されているとのことだったので、タムからモレー近くまで行って見ることにした。

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インドとの国境の川沿いに立つ国境事務官 鉄橋の白い方がインド側

 私は三叉路近くで、体格の良い英語を話せる34歳のゾー・ミュー・メーンと言うタム出身で、チン族の男が運転する、サイカ(三輪タクシー)をチャーターして、モレー近くのナンファロー・マーケットへ案内してもらった。

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ナンファロー・マーケットの行きどまりにあるインドへの出入り口

 このマーケットはモレーに接しており、客の大半はインド側から来ているそうだ。マーケットの行き止まりが、インドへの出入口。係員に話しかけたのだが、インド側へは一歩も入れず、悪いことに、ここは外国人立ち入り禁止の地域だと言うことで、変な雰囲気になった。ゾー君が突然に私のメモノートを要求し、ここに来る前に立ち寄った国境事務所の移民官に、私の英文の名刺を渡した時に書いてもらっていた名前を見せ、彼の許可でここに来た旨を伝えると、係員が怪訝な表情で怯んだので、早々に引き返して助かった。

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マーケット沿いにある民家の屋上から見たモレーの町

 マーケットの途中にある民家に頼んで屋上に上げてもらい、インド側のモレーの町を眺めた。1944年7月に、インパール作戦を中止して日本軍がこの地から撤退して以来、日本人がこの地を訪れたのは、私が初めてではないだろうか。そんな思いにかられ、モレーに向かって両手を合わせて黙祷した。その後、タムに戻った。

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タムの大きな市場

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川魚を量り売りする女性

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自家製の食料品を売る女性たち

 1泊した翌日の早朝、1人で市場を見物した。市場の大きさと人出の多い活気からすると、2-3万人は住んでいる町なのだろう。

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自作の野菜を売る農家の人々

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市場では花も売られていた。

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朝市で「タビエ」と呼ばれる神柴を売る女性。

 日中は近郊の村々を、現地案内人と共に見て歩いた。タムには2泊3日滞在したが治安に問題はなく、無事であった。

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詳しくは拙著をご覧ください。

ミャンマー北部探訪㉝ モンユワの日本人墓地

 マンダレーからモンユワまでは西へ約160キロ。道の両側には稲の収穫が終わった切株田が続いているが、時々横切る小さな川には水がない。乾燥に強いねむの木科の木やユーカリなどが生えているが、大地は乾燥して、木々はあまり成長していない。

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モンユワ駅前の筆者

 沿道には家が少なかったが、平成27年1月12日午前11時40分にモンユワ郊外のバスセンターに着いた。親しくなったバスの運転手に相談して、シュエ・タウン・ターンという安いホテルを紹介してもらい、三輪タクシーの”サイケ”でホテルに向かった。モンユワ訪問の目的は、この地に作られている、日本兵が葬られている墓地を訪ねて、現状を確認することである。

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日本人墓地近くの大きな道の沿道風景

 ホテル1階のフロントで、日本人墓地に行きたい旨を伝え、案内人を頼んだ。午後1時過ぎに42歳のパティがオートバイでやって来た。少々話し合った後、1時半に彼のオートバイの後ろに乗って出発した。

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民家の間の細い道

 モンユワ中心地の十字路に、アウンサウン・スーチーさんのお父さんで、建国の父と言われているアウンサン将軍の馬に乗った銅像がある。そこから大通りを北西に約2キロ走り、サッカー場を通り過ぎてから右方向の東へ折れた。町中の道を800メートルほど進み、今度は左折して人家の間を通る小さな道を300メートルくらい走ると、人家がなくなり、ビニール袋などが散乱するゴミ捨て場のような小さな広場があった。パティさんは、オートバイを止めて、ここだと言う。

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ビニールが散乱するごみ捨て場のようなところ

 オートバイを離れて周囲を見ると、茂みの向こうの空き地に墓石のような物があった。茂みをかき分けて中に入ると、前4基、後ろに2基の慰霊碑が横に並べて建立されていた。

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ビニールが散乱する茂みの向こうに墓石が見える

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モニワ(モンユワ)日本人墓地の標識

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右の端にある慰霊碑

 最初の慰霊碑には、“水上勤務第三十八中隊”とあった。次は“鎮魂”と記され、その下には、“三十三師団二一五聯隊一同”とあり、“鎮心安魂魄(こんぱく) 昭和五十五年八月十五日建立”と明記されている。

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”鎮魂”の碑

 これらの墓碑が建立された当時は整地され、墓地らしかったのだろうが、30数年後の今は周囲にいばらや雑木が生え、墓地内は雑草が生い茂っている。

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墓石の下部に表記された文字盤

 モンユワは、昭和50年から55年当時、日本人がミャンマー国内を訪ねることのできる西北端の町であったので、この近辺で、またはこれから更に西北のチンヒルインパール・コヒマ・そしてタムの山や森で戦病死された兵士のために、生き残った仲間たちが熱い思いで建立したであろう碑は、草に埋もれてはいるが、今もしっかりと建ち続けている。

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日本人墓地のほぼ全景

 私は、それぞれの碑の前に立って黙祷し、線香と日本酒を供え、哀悼の意を捧げた。そして、次のように告げた。

 「日本から来ましたよ。日本は平和で豊かな国になり繁栄しています。そのおかげで私は一人で地球上を一周するこができました。みなさんの死は無駄ではなかったのですよ。ありがとうございました。どうか安らかにお眠りください」

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殉国碑の前で哀悼の意をささげた筆者

 ミャンマー北部の旅は、日本国を思い、遠く離れた異郷の地で若くして戦病死された、帰らざる兵士たちに、日本の現状を伝え、戦中、戦後を生き抜き、世界各国を探訪することができた日本人の1人として、自分なりの感謝の気持ちを伝え、心の整理をするためでもあった。

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当時日本軍が見張り台にしていた、日本人墓地近くの鉄製の水道塔(2016年12月撮影)

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イギリス空軍の襲撃で穴が開いた鉄柱。このときに死亡した兵士の埋葬地が今の日本人墓地になっている。

 

ミャンマー北部探訪㉜ ピュー世界文化遺産

 シュエボの町から25キロ東の平原の中に、紀元1世紀頃の“ピュー世界文化遺産”があると言うので見学に行くことにした。

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シュエボでチャーターした三輪タクシー 途中での修理中

 1月18日午前10時、三輪タクシーをチャーターして、モンさんの案内でシュエボを出発して、遺跡のあるハーンレンの町に向かった。山など見えない平坦な田園地帯を走る。何故か、道は舗装、未舗装が交互に続く。とにかく、悪路で三輪タクシーの揺れが激しく、のんびりとはゆかなかった。

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周囲5,6キロの城壁に囲まれていたピュー遺跡の図

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世界文化遺産標識前の案内人モンさんと筆者

 人口数千人の小さな町ハーンレンには午前11時20分に着いた。この町には13世紀のパガン時代の遺跡もあった。町から2キロ程離れた平地には、赤茶けたレンガを積み上げた王城の城門近くの壁跡があった。紀元1世紀頃、この地方で栄えたピュー時代の古びたレンガの、高さ5~60センチの壁が残っているだけで、他には見る物はなかった。しかし、いずれにしても2000年も前のレンガの壁がそのまま残っている。

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2000年前の城門近くのレンガの壁と石畳

 ピュー時代のこの城塞都市の城壁の長さは5~6キロもある巨大なもので、大変珍しい貴重な遺跡なのだそうで、ユネスコ世界文化遺産に認定していた。その立派な標識が城門跡近くに建立されている。しかし、まだあまり知られていないので現地の人々や国際的な観光客はなく、我々だけで閑散としていた。

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草木が生えて荒れ地になっている城壁内を、のんびり進む牛車 

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世界文化遺産標識前の筆者

 事務所や説明する人はなく、囲いはあるが、鍵がなく誰でも自由に中に入れる。ユネスコ世界文化遺産に指定し、立派な石の標識はあるのだが、野ざらし状態である。

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城壁の南側にある宗教儀式が行われたであろう場所の遺跡

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宗教儀式に使われたらしい8本の石板

 城門近くの城壁の外の南側に、古代からの墓地があり、現場を家で囲んで、そのまま博物館になっていた。現場の案内人と共に中に入って説明を受けた。

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博物館内の墓地を上から見た様子

 なんと一番上の層が紀元1世紀のピュー時代で、焼いた骨を壺に入れて埋葬している。2層目は鉄器時代、3層目は銅器時代で、死体と共に銅製品が多く埋められている。一番下の4層目が石器時代で、遺体がそのまま埋められていた。乾燥した砂地なので、保存が良かったそうだ。なんと石器時代までが同じ場所に層になっていたそうで、そっくりそのまま層にして保存しているのだと言う。

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階層になった古代の墓

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一番上のピユー時代の骨壺

 この辺で発掘された出土品の多くが別の博物館に陳列されていたが、その多さと多種にわたっていたのには驚かされた。何より、山もない、海から1000キロ近くも離れた平 原の地に、何故に石器時代から絶えることなく人が住んでいたのか、それに紀元1世紀頃には大きな城塞都市があったのか、大きな疑問を感じた。案内人に尋ねるとその疑問を解く鍵は、町の中心から1キロ程シュエボの方に戻った所にあった。

 道から右側(北?)へ2、300メートル離れた低い丘の所に古い民家の村があった。その丘の手前下には温泉や冷泉が湧いていた。古代から湧出しているそうで、温泉は摂氏35℃~43℃くらい、冷泉は普通の良質の水である。

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  温泉に浸かる村人

 ここから東へ13キロにはエーヤワディー河があるが、山も川もない乾燥した大平原の中である。しかし、この近辺には至る所に湧水池があり、その水を利用した農業が古代から盛んであったそうだ。

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向こうのプールは温泉 手前の穴は冷泉

 温泉場と道の反対側には、塩分を多く含んだ大地があった。この土を水に溶かし、その水を濾して天日で乾かすと、普通の白いきれいな塩になるそうだ。ここには古代から採塩場があり、今も採塩されている。と言うことは、生活に必要な食料、水、塩が揃っていたということだ。

 これで、この地には石器時代から人が住み、1世紀頃のピュー時代には、巨大な城塞都市があったことが納得できた。このピュー世界文化遺産のある地域は、古代から人が住むに都合がよい自然条件の揃った、熱帯に近い場所であった。

ミャンマー北部探訪㉛ 稲作地帯の町シュエボ

 2016年1月17日、マンダレーから130キロ北西の平原にある町シュエボを、通訳兼案内人のモン女史と共に訪れた。シュエボは、1752年にビルマ族の英雄アラウンパヤー王によって建設され、僅か8年間だけ首都であったが、ビルマ族にとっては発祥の地として大事な古都である。

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マンダレー⇔シュエボ間を走るバス

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途中にあるバスストップの食堂

 シュエボ近辺は水田地帯で、北ミャンマーでは古くからの米の主産地。ミャンマーは、ビルマ時代の古くから世界最大の米の輸出国でもあったが、その中心地がシュエボであった。

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シュエボのバスセンター前にあるアラウンパヤー王の像

 シュエボは、1942年から始まったビルマ戦線当時に日本軍の前線基地のあった所でもあり、特にここから更に北西部のインパール作戦に参加し、敗退してチンドゥイン川を東に渡った兵士の大半が、シュエボを目指して歩いたそうなので、どんな町なのか見ておきたかった。

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バスセンター前の宿泊したホテル

 私たちは、シュエボバスセンター前のホテルに午後1時頃着いた。

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シュエボで食べたビーフン料理

 遅い昼食後、午後3時頃から、モンさんの案内で町を歩いて見学した。

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旧市街の入口

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旧市街の中にあるジュエダザ・パヤの仏塔

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ジュエダサ・パヤの獅子像

 シュエボにはパコダが多い。まず最初に見たのは、パガン時代に建立されたと言う、500年以上もの歴史がある巨大なシュエダザ・パヤであった。なんとすぐ隣に大きなパゴダが2つも隣接していた。旧市街地を北側に出ると、3,7キロもある堀に囲まれた王宮跡があった。 

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チャンタヤ・パヤの入口

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二つ並んだチャンタヤ・パヤ

 旧王宮前一帯が、マンダレーと同じ名前の“ゼーチョー・マーケットで、シュエボで一番活気のある所である。ゼーチョー・マーケットでは有名な化粧用に使う“タナカ”の木や、タナカの葉で巻いた“タナペセーレ”と呼ばれる葉巻タバコなどが売られていた。珍しいのは“チュア”と呼ばれる大きな田ネズミが売られていたことだった。 

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市場での魚売り

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塩漬けのタケノコ

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市場での食事場

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いろいろなものを串にさして売っている屋台

 田圃で米を食べて太ったイタチよりも大きい程の田ネズミは食用で、焼いた一匹が700チャットであった。シュエボでは立派な野生の獣肉なのである。

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焼いた田ネズミを売る婦人

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開いたままの田ネズミを売る婦人

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大きな田ネズミ

 翌日は、郊外に出てみると、稲の収穫期で、多くの人出があり、稲を鎌で手刈りしていた。刈られた稲穂は田の中に干していたり、白い大きなこぶ牛が引く牛車に満載して

運び出されていた。

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シュエボ郊外の田園地帯

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田園で稲を刈り取り人々

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牛車に稲束を積み込む人々

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稲束を運ぶ牛車

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稲束を運ぶ牛車群

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用水路のアヒルたち

 稲が刈り取られた田圃には、アヒルや牛が放たれており、白鷺のような白い鳥たちも飛び交っていた。多分、食用になる大きな田ネズミもいるだろう。

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農家の庭で稲穂の脱穀をする農夫

 農家の庭では、稲穂の脱穀作業をしていた。その脇で、3羽の鶏や10数羽のスズメが脱穀された籾をついばんでいたが、農夫たちは気にもしないで、脱穀の作業を続けていた。

 

ミャンマー北部探訪㉚ マンダレーの波止場

 北部ミャンマーの中心地マンダレーは、海から600キロも内陸に入った、人口100万もの大きな町で、陸・空・川の交通網の拠点でもある。

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マンダレーの、エーヤワデイー河岸辺の波止場

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マンダレーの波止場に佇む筆者

 海の中にある日本列島とは違って大陸における大河は、海と同じ役目を果たし、古来物資輸送には欠くことのできない高速道路的な道であった。

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エーヤワデイー河岸辺の波止場

 ミャンマーの中央部を南北に貫通する大河,,エーヤワディー河沿いにあるマンダレーには、沢山の川船が行き交う港・波止場がある。海沿いの波止場や港と同じように表記すれば少々違うが、大陸の大河は季節によって水量が上下するので、常設の施設を設置するのが困難で、波止場は古来変わりなく岸辺の船着き場的な所である。

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エーヤワデイー河航行中の貨物船 対岸はザガインの丘

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接岸した物資輸送船

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タグボート

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接岸した荷物運搬船

 そこは、観光用の遊覧船や庶民が日常的に使っている客船、運搬用の貨物船、はしけ船、小さな漁船などが、絶え間なく行き交うなかなか忙しい船着き場のような波止場である。

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渡し舟

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大きな網を立てた漁船

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網を川の中に沈めようとする漁師たち

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小さな漁船

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漁網を引き上げる漁師

 北の町を訪れてからマンダレーに戻り、しばらく休みなく動いていたので、休憩を兼ねてエーヤワディ河の岸辺に佇んで、行き交う船を眺めた。

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マンダレーの波止場近くで、小舟に乗って魚釣りをする人々

 マンダレーの波止場、港である船着き場近辺のエーヤワディ河の様子をご覧あれ。

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ビルマ戦争中は破壊され、戦後再建されたエーヤワデイー河にかかるザガイン鉄橋