地球へめぐり紀行

新制中国の望郷編

ミャンマー北部探訪㉔ プーターオの高床式住居

 プーターオではシャン族のディンゴ君(31歳)が、日本製の車パジェロで2日間案内兼通訳をしてくれた。

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日本製の車パジェロで案内兼通訳してくれた、シャン族のデインゴー君

 私は、いろいろな民族の住んでいる様子を見たかったので、彼に頼んでまず村々を訪ねることにした。彼は、プーターオから南へ10数キロ離れたマチャンボ地域まで行くことに同意し、午前11時半過ぎにホテルを出発した。

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プーターオ郊外、シャン族の高床式住居

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シャン族の老夫婦

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シャン族の木製の家

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シャン族の代表的な高床式住居

 まず最初のミタンの村へは12時15分に着いた。ここにはミズー族が住んでいるそうだ。次のナンパー村もミズー族。12時25分に着いたナムカイ村には、ミズー族、シャン(タイ)族、ジンポー(カチン)族が混住しているそうだ。

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ナンパー村の仏塔

 12時30分に着いたマチャンボ村には、約5000人のジンポー(カチン)族が住んでいるそうで、かなり大きな村であった。この辺からはもうプーターオではなく、マチャンボ地区になる。

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マチャンボ村、ジンポー族の市場

 午後1時、水のきれいなムニカ川沿いのナムカイ村に簡易食堂があり、ビーフンのスープメンを500チャット払って食べる。

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ナムカイ村の食堂

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ナムカイ村食堂の台所

 午後1時半にジンポー族のブンボー村、そしてすぐ近くのワイポ村に着いた。車を止めて眺めただけで通り過ぎ、1時47分にはナムカム村に着いた。ここにはラワン(ロワン)族が約1400人住んでいるそうだ。

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ナムカム村、ラワン族の家

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ナムカム村、竹製の家

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ナムカム村、竹で垣根を作る村人

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ナムカム村、チンゴ(やし)の葉で屋根をふいた家

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ナムカム村、ラワン族の家の軒下

 外国人はこの村から遠くへは行けないと言うので、彼の案内で村を歩いて見ることにした。村の家は全て高床式だが、竹製と板製の2種類ある。屋根はトタンもあるが、“チンゴ”と呼ばれるパームヤシのようなヤシの葉で葺いている。トタン屋根は長持ちするが、家の中が夏は熱く、冬は寒くなる。昔からのチンゴは長持ちしないが、夏は涼しく、冬は暖かいので村人には好まれる。しかし、葺き替えに手間が要るので、若い人はトタン屋根にしたがるそうだ。

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”チンゴ”と呼ばれる椰子の一種

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ナムカム村、トタン屋根の家

 この辺の村では、6月に稲の苗を植えて、10月から11月初めにかけて収穫するそうで、田の近くや屋敷の中に“サパティ”と呼ばれる米倉があった。1月には、稲株が残る田園が広がっているだけであった。

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12月初めの稲株が残る収穫後の田園と仏塔

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アパーシャントン村のラワン族親子

 ナムカム村からの帰り道、ムニカ川を渡ったすぐの村“マンコ”には、300人ほどのシャン族が住んでいた。その近くのドロンバン村にはラワン族が住んでいると説明されたが、ラワンとシャンの家は殆ど同じ型で、人も同じように見えたが、ディンゴ君によると女性の衣服や言葉使いが違うのですぐ分かるそうだ。

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アパーシャントン村、建造中の高床式住居

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アパーシャントン村の井戸

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ローワシャントン村、古い高床式住居

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ローワシャントン村、モダンなシャン族の住居

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竹製のトタン屋根の住居

 いろんな民族の村を見たが、私には家も人も区別がつかなかった。家は全て高床式で、何が違うのかよく分からないままだった。

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シャン族の村にあった、大木の下の祠

 帰りにプーターオへの別の道を通って、途中マリカ川沿いにある、この地方で最も古い黄金色のカムロン・パコタを見物した。ここから川の遥か彼方に雪を被った高い山が見えた。

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プーターオで最も古いカムロン・パコダ

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カムロン・パコダから北西に見える冠雪の高い山

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カムロン・パコダのそばを流れるマリカ川

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カムロン・パコダにある長い髪の女性像

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マリカ川で長い髪を洗う女性

 プーターオに戻って、マナウの開催場所に案内された。5本が並んでいるマナウ用の柱(ムノーダイ)に、大きなサイ鳥の木彫が横たわっていた。オチンと呼ばれる大サイ鳥は、一度つがいになると、ずっと寄り添っているので、幸運に恵まれる鳥だそうだ。

 午後5時半頃ホテルに戻り、プーターオの一日が終わった。

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マナウ用の柱の前に立つ筆者

ミャンマー北部探訪㉓ 最北西端の町プーターオ

 2017年11月24日から、ミャンマー北部の民族踏査に訪れ、マンダレーから北のミッチーナーに飛んだ。ここから更に北西へ約300キロ離れたプーターオへは、山また山の悪路で、外国人が陸路で行くことは禁じられている。

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プーターオの飛行場

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飛行場で賓客を迎えるプーターオの人々

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飛行場から見たプーターオの平原

 現地人も殆ど飛行機を利用するので、1日1往復の飛行便は、向こう3週間に空席なし。外国人はほぼ不可能に近いが、ミッチーナーの多くの人の協力を得て、特別に搭乗が許可されて、11月30日にプーターオを訪れ、3日間滞在することができた。

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プーターオの中心地から東側の通り

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プーターオの中心地にあるホテル

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ホテルのベッド

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中心地から北側の通り

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オートバイ修理屋

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ガソリン売り場

 プーターオは、標高1200メートルで、周囲を山に囲まれた広い盆地で、シャン族中心に多くの民族が住んでいる、人口3万人の町。もともとはシャン族の大きな尊長がいた村“ブダオン”を、19世紀後半にイギリス軍が侵入して、“PUTAO(プーターオ)”と表記したための地名。とにかく、ミヤンマーでも最もへき地で、外国人などほとんど訪れることのない、最北西端の山の中の町プーターオの人々をまず紹介しよう。

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プーターオの田園

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プーターオ郊外の村にあったパパイヤ

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標高が高く朝もやの中での朝市

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早朝は摂氏13度くらいで肌寒い

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プーターオで食べたビーフン料理

 シャン族も自称はタイ族なのだが、イギリス人たちが、“シャンとかシャム”と呼称。現在のプーターオの中心地は本来“タイ・ヤムティ”と呼ばれていた。“カチン”と呼ばれる、“ジンポー族”もイギリス人の呼称で、現地の人々は、シャンやカチンの意味は分からないと言う。

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朝市での婦人たち、何族かな?

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朝市で見かけたジンポー族の婦人

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シャン族(左)とジンポー族の娘

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ミズー族の女性か?

 プーターオ地方には、大きく分けてシャン(タイ)、ミズー、カチン(ジンポー)、ラワン(ロワン)など4民族が混住している。イギリス軍が侵入して来るまでは、それぞれの民族が独立し、異なった言葉や風習があって、紛争が多かった。イギリス植民地時代になって、軍事力によって統合されて英語を話せる人が多くなり、紛争は少なくなった。

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顔にタナカの化粧水を塗ったシャン族の女性

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ジンポー族の娘

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シャン族の婦人

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ナムカム村のラワン族の女性

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アパーシャントン村のラワン族の女性たち

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ローワシャントン村のラワン族の女性たち

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ローワシャントン村のシャン族の女性

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シャン族の老婆

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ジンポー族の婦人

 さらに独立後にはビルマ政府、そしてミャンマー政府の軍事力によって統合がなされ、今では学校でミャンマー語が教えられて、若い人たちは共通のミャンマー語を話せるようになっている。

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カンキョ村のシャン族中心の小学生たち

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カンキョ村のシャン族の少女

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ドロンバン村のラワン族の子供たち

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プーターオの朝、登校中の女学生

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霧で霞んだプーターオの朝、登校中の男子学生

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アパーシャントン村のラワン族の少女

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アンパン村の学校の先生と筆者、左ジンポー族、右シャン族

 ビルマ戦線において、旧日本軍は、こんな山奥の僻地までは来なかったのか、ここでは日本軍に関することは一度も耳にしなかった。

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ブンボー村で柿を切って干すジンポー族の婦人

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ナムカム村のラワン族の親子

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井戸から水を運ぶシャン族の婦人

 とにかく、多民族が混住する地域は、統合する軍事力がないと、不安・不信が強く、不安定な社会状態が続くのだが、今ではミャンマー政府の軍事力による統合が進んで、言葉・衣服・風習などが共通の生活文化となりかけている。

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道路工事をする人々

ミャンマー北部探訪㉒ カチン州の踊る祭典”マナウ”

 ミャンマー北端のカチン州には沢山の部族がいる。カチンはビルマ語で、カチン州の人々は自分たちのことをカチンとは呼ばない。それぞれの部族、例えばジンポー、リスー、ロワン、タイ、アジン、トーチャン、ラショー、ザイワなどと呼ぶ。しかし、イギリス植民地当時に付けられたビルマ語、今日ではミャンマー語でカチン族などと呼んでいるし、カチン州が存在しているので、各部族を総称してカチン族としている。

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カチン州立マナウ公園の入口

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公園内の物産販売て

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公園内のレストラン

 そのカチン州で年に一度の踊る祭典“マナウ”が、1月5日から開催され、全カチン州から各部族の代表がミッチーナーに集い、踊りを披露するのを見た。

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ノーチャン族のコーウイン女史と筆者

 午前10時からマナウ会場の『カチン州立マナウ公園』を訪れた。中央から左側にはステージがあり、ファッションショーなどが催されたり、中国製などの商品展示会や物産展、販売店などがあり、いろいろな民族衣装の人出が多かった。

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踊る祭典マナウの始まり

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マナウ先頭の人たちのいでたち

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一列になって踊る人たち

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ノーチャン族の人たち

 中央から右の方に円形に囲われた運動場があり、中央に大きな柱が一列に6本立ち、小さいカラフルな旗を結び付けたロープが四方へ無数に伸びて、上空が華やいでいる。

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中央の華やかに飾った6本の柱

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民族衣装の女性たち

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銀飾りを身につけて踊る婦人たち

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両手を交互に振りながら踊る

 一列に並んだ柱の表にはステージがあり、マイクが7本立っている。柱の裏側には車輪のついた直径1メートル、長さ3メートルもある大太鼓が1つと、直径50センチほどの銅製の鉦(かね)が5個ずつ、2組吊るされている。

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銅製の鉦を叩き続ける男たち

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長さ3メートルもある大太鼓を叩き続ける男

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中央の舞台の上で歌う7人の人たち

 ミッチーナーから北へ300キロ離れたカオリコンシャン地方から来たノーチャン族の中に、コーウィンという21歳の可愛い娘がいた。顔立ちは日本人と同じだが、頭に黒っぽい布の帽子を被り、首に黄色と柿色のビーズの輪をかけていたので撮影させてもらった。

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中年女性も休むことなく踊り続ける

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リズムに乗って楽しげに踊る娘さん

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両方からきて中央で遭遇した先頭グループ

 午前11時過ぎから各部族が会場に入り、開会のセレモニーがあり、11時半から1列になって踊り始めた。音楽はステージに立つ7人が一斉に歌う。その歌の伴奏は、大鉦や大太鼓の打ち鳴らす音。野外ではあるが拡声されて耳がはじけるように鳴り響く。

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渦巻き状になる隊列

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渦巻き状になった隊列

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渦巻き状から出る隊列

 踊る人たちは右回りと左回りの二手に分かれて、歌や太鼓のリズムに合わせて踊りながら進む。先頭は司祭者なのか長さ1メートルほどの太刀を捧げ持ち、次の5人の男は太刀を日本の神主が用いる笏(しゃく)のように捧げ持って、リズミカルに歩いている。その後に踊る人たちが、足を交互に前に出し、反対の足を寄せてステップを踏み、次には後の足を前に出しながら、両手を交互に振り上げつつ前に進む。

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太刀を持つ先頭の人たち

男も女も同じように踊るのだが、参加者の数は女性が多い。どの部族も一般的に男の衣装は地味だが、女の衣装はカラフルで目立つ。男は弓矢、刀、槍などを手にしている人がいるが、女は素手か布を持っている人が多い。

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太刀を手にして踊る男たち

 一列縦隊の踊り手たちは、先頭に従って交差したり、円形や渦巻き状になったり、斜めに進んだりと行動様式は少々変化するが、1時間たっても休むことなく踊り続ける。

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女性は布を手に、男性は太刀を手にして踊る人が多い

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踊るコーウインさん

 最初の1時間は、私自身興奮して撮影とリズムに陶酔気味であったが、さすが1時間半も過ぎると、雰囲気に飽きるというよりも、呆れ返ってしまった。

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1時間以上も踊り続けている娘さん

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1時間半以上も休むことなく会場内を進み続ける隊列の先頭

 彼らは水も飲まないし、食事もしないで、歌や太鼓、鉦のリズムに乗って、休むことなく踊り続けている。共同体の集団的陶酔感によるのだろうが、歌う人たちの声帯や太鼓や、鉦を叩く人の腕の筋力がよく続くものだと感服させられた。踊りは3時間程続くそうだが、私は、他にも用事があったので途中で退席したので、最後まで見届けられなかった。 

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1時間半以上も踊り続けている女性たち

ミャンマー北部探訪㉑ ミッチーナーの路上マーケット

 ミッチーナーは、エーヤワディー河沿いにある、人口30万人もの大きな町。川沿いには常設の大きなマーケットがある。人口増加が激しいので、それでは足りなくなったのか、夕方になると、川沿いのマーケット街から直角状に延びた、駅近くのZay Gyi St(ザイ・ギー街)と呼ばれる大通りの、川寄りの一部が交通止めになって、巨大な路上マーケットが開かれる。近郊の農民や漁民などが直接物を持ち込んで、直販的な市場。

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午後4時ころから路上マーケットが始まる

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準備をする人々

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道路の中央に商品を置く

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いろいろなものが売られている

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午後4時半頃

 ミャンマー北部では、私の知る限り一番大きな路上市場で、どのような具合に開かれているのか、取材できなかったが、とにかく午後4時頃から、広い道路の中央部に、あっという間に物がどんどんと置かれ、両側を人が行き交う、長さ300メートルほどの路上マーケットが発生する。

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午後5時頃

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エーヤワデイー河で採れる魚

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料理用の酢みかん売り

 売られている物は新鮮な野菜、果物、川魚、それに食料品類などが多いが、とにかく日常生活に必要なものはたいてい何でもある。

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午後5時半頃

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人出が多くなる

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5時から6時ころまでがピーク

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川魚売り

 午後5時頃から6時頃に人出が一番多く、夕暮れが近くなるとマーケットの人は徐々に少なくなり、路上の市場もあれよあれよという間に消えてなくなる。暗くなると、いつもと変わりない車の通る道になる。

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午後6時頃

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豆腐も売られている

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6時ころまでは大変賑やか

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6時を過ぎると徐々に人が少なくなる

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6時半頃には客が去る

 ミッチーナーには2015年以来3度訪れたが、最も活気があり、人出が多かったのは、2016年1月に見た、この夕方に発生する路上マーケットであった。

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市場近くで客を待つオートバイタクシー

ミャンマー北部探訪⑳ ジンポー族のケタプー村

 ミッチーナー2日目の午前9時半、ラー・ターウンさんがホテルにオートバイで来た。今日は彼のオートバイでミッチーナー郊外を案内してもらうことになった。彼はヘルメットを被り、シャツの上にジャンパーを着て、腰下にロンジーと呼ばれる布を巻いてオートバイにまたがっている。私もヘルメットを被って彼の背後にのり、落ちないように彼の腰に両手をあてる。 

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観光地ツオブンの展望塔

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展望塔から見るミッチーナ平原

 いろいろ回って、午後1時過ぎにツオブンと呼ばれる観光地に着き、丘の上の展望塔に上がって周囲を見渡した。ミッチーナーの平原が一望できる見晴らしの良い所。日曜日なので若者が多かった。ラー・ターウンさんは高所恐怖症らしく、20メートルもの塔に上って来なかったので、若者たちに話しかけて記念写真を撮ってもらった。 

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ツオブンにいた娘さんたち

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展望塔から降りるロンジー姿の少女たち

 ツオブンから町に帰る途中、道沿いの食堂で遅い昼食をした。そこの店の名物料理で野生の乾燥鹿肉のサラダを食べた。大変美味で、ビールのつまみに最高であった。他には焼きそばのようなビーフンを食べた。

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乾燥鹿肉のサラダ

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食堂の娘さん

 午後3時前に、ミッチーナーの北2キロにあるジンポー族の住むケタプー村を訪れた。カチン州にはカチン族はいない。カチンはイギリス人がつけた呼称で、現地の人々はその意味や理由を知らなかった。

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ケタプー村の田園

 ラー・ターウンさんによると、カチン州の総人口は約150万人で、その中心地ミッチーナーには約30万人が住んでいる。そして人口の40%がジンポー族。ジンポー族はミッチーナー地方に多いが、各地に散在しているそうだ。

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ジンポー族のツオンさん

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ツオンさんの家

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ツオンさんの家の中

 ラー・ターウンさんは、このケタプー村で英語教室を開いているので、教え子や知人が多かった。彼は私を自慢気に連れ廻っていたが、そのうちに、一般的な木製の高床式住居の家を訪れ、65歳のツオンさんに紹介された。彼女は、彼の教え子の母親で親しいのだそうだ。彼らが楽し気に話している内に、近くに嫁いでいる娘のターマイ(25歳)さんがやって来た。彼女は、10代の時に2年間英語を習ったそうで、彼とは親しかった。彼女は、日本人に会うのは初めてと、驚きの表情をしていた。しかし、彼女の母親のツオンさんは、日本の兵隊がこの村にも来ていたことを両親から聞いていた。若いターマイさんは何も知らなかったが、65歳の母親は日本兵のことを聞き知っていた。

 近くの老人は、日本兵からいろいろなことを教えられたそうだ。

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ツオンさんの娘ターマイさん

 朝起きたら顔を洗って歯を磨き、部屋を掃除する。水ではなくお湯を浴びる。嘘をついたり騙したりしてはいけない。他人の物を盗んではいけないとよく叱られたそうだ。

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ケタプー村道沿いの家

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庭に植えられたバナナ

 その老人は、80歳過ぎても少年時代に教えられたことをよく覚えていると言っていたそうだ。

 日本人にとってはごく普通のことなのだが、当時の少年にとっては、見たことも聞いたこともないことが多く、大変新鮮に感じられたのだろう。

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ケタプー村の道

 ケタプー村はミッチーナーに隣接している村だが、道はまだ未舗装で、高床式の木や竹で作られた家が多く、昔ながらの田舎のような村で、人々は大変純朴で親しみやすかった。

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ミッチーナーに戻ってからのぞいた夜店

ミャンマー北部探訪⑲ ミッチーナーの日本残像

 ミャンマー北部を訪れるにあたり、北端の町ミッチーナーには、日本兵の慰霊碑があることを聞いていた。観光客などあまりゆく所ではないが、民族踏査もかねて行くことにした。

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ミッチーナー空港

 私は、2015年1月2日、マンダレーからミャンマー北端チン州の州都で、エーヤワディー河沿いのミッチーナーへ飛んだ。

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ミッチーナー郊外のエーヤワデイー河

 マンダレーのホテルから“シン・ジャン・ホテル”に電話予約をしていたので、空港からタクシーを走らせた。夕方であったせいか車が多く、人出もあって活気はあるが、街の整備がまだ不十分で雑然としていた。

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ホテルの屋上から見た北西側市街

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ホテル屋上からの西側市街

 ホテルに英語を話せる人がいたので、明日から3日間の通訳兼ガイドを捜してくれるように頼んだ。  

 翌3日の朝、ラー・ターウンとういう40歳の男が来てくれた。彼は英語教室を開いており、政府公認の通訳だと言って身分証明書を見せてくれた。

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カレン州ジンポー族の料理店

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カレン料理を食べる筆者

 ミッチーナーは人口約30万人の大きな町だが、ここにも日本軍が1942年ころから進駐していた。しかし、イギリス・アメリカ・国民党重慶の連合軍に反撃され、双方に多くの死亡者が出た。なんとしても死守せよと参謀本部から玉砕を求められていたが、1944年8月、ミッチーナー守備隊の最高司令官の水上源蔵少将は、部下をおもんばかり、全軍にミッチーナーからの退去命令を出し、自らは軍命令に違反した責任を取って、ミッチーナー対岸のノンタロー村で8月3日に自決した。

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水上源蔵少将の墓参当時の写真コピー

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舟でエーヤワデイー河を渡り、水上少将の自死地を訪ねる筆者

 生き延びて帰国できた元兵士や遺族が、戦後この地を訪れて慰霊の寺院や碑、塔を建立していた。私は、その痕跡を確認することも兼ねてやって来た。

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ミッチーナーの学校

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ミッチーナーの散髪屋

 ラー・ターウンさんの案内で、市内を巡ることにした。まず対岸のノンタロー村跡を訪れてから、当時の激戦地の一つでもあったホテル近くの古いミッチーナー駅近辺を見て回った。

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先に汽車が停車しているところがミッチーナ駅

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ミッチーナー駅前の大樹”コッコ”

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駅前通リの一部

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駅前の店

 駅前には、現地語で“コッコ”と呼ばれるニセアカシアのような巨木が生えていた。もう100年以上も生え続けているそうなので、日本兵たちも見たことだろう。もしかすると、雨・霰とやってくる弾雨に晒されていたかもしれないし、この木の下で戦死した兵もいたかもしれない。

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駅前通りの屋台

 この後サイカ(三輪タクシー)で町の北西になる時計塔へ行った。大きな通りの十字路に、緑色の高さ10メートルほどの塔があり、4面に丸い大きな時計が設置されていた。これは、生き残った兵士たちが、戦友の慰霊碑として建立したものであった。その足元の銅板には、“第18師団(菊兵団))、第56師団(龍兵団)、軍直配属部隊”と記されていた。

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慰霊碑の時計塔(拙著写真のコピー)

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時計塔の足元の銅板

 時計塔を後にし、町の東北のエーヤワディー河沿いにあるスータ・ウンビー・パヤを訪ねた。ここには福岡県の坂口睦さんが寄贈した2000年4月に着工し、2001年1月に完成した巨大な寝仏があった。

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日本人が作らせたスータ・ウンビー・パヤの巨大な寝仏

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寝仏に膝まづく現地の人々

 私は寝仏に手を合わせ、この地で死せる兵士たちへの供養のつもりで、僅かであるが寄付させてもらった。我らが先輩たちは、この地でも大変な苦労をされ、尊い命を落とされていることを肝に銘じて、寝仏に別れを告げた。

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中国製のオートバイに乗るミッチーナーの若者たち

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詳しくは、拙著をご覧ください。 

 

ミャンマー北部探訪⑱ ラーショーの温泉と田園風景

 ラーショーには温泉があるというので、着いた日の午後4時から、三輪タクシーを雇って行って見ることにした。旧ラーショーの中心街にあるホテル前の坂道を下って、西方の新市街を通り抜けて、大きな道を7~8キロ進んだ右側に、“ラーショー温泉”と英語で表記された看板と門があった。

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ホテル前でチャーターした三輪タクシー

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ラーショー温泉の入口

 そこを右折して小道に入り、田園地帯を3~4キロほど進んだ所に小さな森があった。温泉はそこにあり、入場料3米ドル払って森の中に入った。

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小道に入った最初の橋の上

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日本のような田園地帯

 温泉は、森を通り抜けた田園の中のやや低い所にあり、長さ200メートル、幅3~40メートルの池になっていた。その低い方の一番端をコンクリートで仕切り、長さ20メートル、幅10メートルくらいのプールのようにしている所が入浴場所。

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田園地帯の低地が大きな池になっている温泉

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池の一部を仕切って入浴用としている

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仕切られた温泉池

 入浴場の近くの平地は歓楽地のようになっているので、現地の人が多く訪れているが、外国人も入場料を払えば自由に入れる。広場の椅子に座って歓談したり、飲食している人、温泉に入っている人、岸辺で洗濯している人もいる。池の岸辺で洗濯しているのであまり感じは良くないが、はるばるこんな遠くまで来た思いがあり、記念にと思い、パンツ一枚になって入口近くの方で温泉に入った。

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温泉池のふちに座る現地の人たち

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温泉池のふちで洗濯する女性たち

 中は階段になって段々深くなり、3段目以下は背が届かなくなった。反対の広場のある方が段は緩やかで、現地の人はそちらで浸かっている。水温は40℃以上もあるようでかなり熱く感じられたが、泳いでいる人もいた。

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温泉に浸から筆者

 15分ほど肩まで浸かっていたが、熱くなって外に出た。岸辺のコンクリートの上に座って、しばらくの間大汗をかいた。 

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壁に「ラーショー温泉へようこそ」と、英語で表記されている

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夕方の温泉風景

 温泉からの帰り、日本と変わりない爽やかな夕暮れに、田園の中の一本道を、三輪タクシーに揺られながら、この地に3年近くも駐留していた日本の兵隊さんたちは、この温泉に浸かったのであろうか、と70数年前の若い兵士たちが裸で戯れている残像を想像した。

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夕暮れ迫る温泉近くの田園地帯

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日本の田舎のような温泉近くの村

 温泉に浸かった後の解放感もあったであろうが、日本の田舎に似たような田園風景に、何とも言われない郷愁に駆られながら三輪車に揺られてホテルに戻った。

ミャンマー北部探訪⑰ 丘の上の町ラーショー

 ピン・ウールインの町から乗り合いタクシーで、約250キロ北のラーショーに向かった。山坂越えて大変厳しい道を走り、約5時間で着き、町の中心部にある1泊20米ドルのロイヤル・グランド・ホテルに泊まることにした。

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ピン・ウルチンからの乗り合いタクシー

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ピン・ウルチんからラーショーまでに5,6か所あった検問所

 ミャンマーでも辺境の中国との国境に近いこの地に、今から73年も前に、日本軍が山や谷、川の多い大地を数日間で2~300キロも走り抜け、イギリス軍が駐留するラーショーを攻撃したと聞いていたが、当時としては信じがたい神業のような速さだ。

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ラーシー旧市街地の一部

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ラーショー中心街にあるロイヤル・グランド・ホテル

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ホテル前の東西に続く緩やかな坂道

 ラーショーは、人口15万人もの大きな町なのだが、最初は丘の上にできたシャン族の要塞化した村であったそうだ。今でも町の中心である旧市街地は丘の上にある。

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南北に長い丘に広がったラーショーの町

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ラーシーの中心地(西側の丘から撮影)

 イギリスが植民地化してできた新しい町は、旧市街から約3キロ西の平地にある。マンダレーから中国雲南省昆明に物資を運ぶためにできた、鉄道のラーショー駅も3キロ余り南西の平地にある。

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ラーショーの繫華街

 古くからの町と植民地化によって作られた町の2重構造的なラーショーは、駅近くの大ラーショーと丘の上の小ラーショーの2つの地区に分けられている。小ラーショーはシャン族の居住地域で、マーケットや商店街、病院、郵便局、消防署などがあり、今も人口が多く中心地になっている。

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ラーショー中心街の夜店

 ラーショーは、古くから雲南地方への通商の中継地として栄えた町であった。特に、旧日本軍が1940年頃から中国大陸の東海岸地帯を占拠して以来、米英連合軍が蒋介石率いる中国国民党軍を支援する重要拠点になった。そのため、首都を南京から重慶に移動した国民党軍は、英米との話し合いの下にいち早くラーショーに派兵し、守備についていた。

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街の屋台

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屋台に並ぶ料理

 1942年4月末にラーショーを占領した日本軍は、ここを拠点にして北の雲南地方にまで侵攻したが、1945年4月には、英米支連合軍に反撃され、南へと撤退したという。

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夜の屋台で食事する女性たち

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ラーショーでの筆者の夕食

 ミャンマービルマ)語でシャムとかシャンとか呼ばれる人々は、自称タイなのだが、タイ族は、北の中国大陸の方から移動してきた民族なので、国民党軍の兵士たちとは言葉は違っても顔形はほぼ同じ。そんなこともあって、シャン州、特にラーショー近辺の人々は、中央部のビルマ族を中心とした独立国ビルマ、1989年6月以後はミャンマーに対して、国民党の残兵と共に反政府運動が活発であった。そんなこともあって、ラーショーは数年前まで政情が不安定とのことで、外国人の立ち入りが長く禁止されていた。

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街の中のガソリン売り場の女性たち

 ラーショーにはシャンと呼ばれる人々や国民党の残留兵もいて、街中に漢字が見られる。それにインド系のヒンズー教徒やイスラム教徒もいるし、仏教徒ビルマ族キリスト教徒のシャン族もいるので、仏教寺院や仏塔、教会、イスラム寺院のモスクなどもある。

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ラーショー中心街

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ラーショー中心地の白いモスク

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ラーショー中央部の学校

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ラーショー西部にあるラーショー大学の入口

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ラーショー郊外の仏塔

 ラーショーは南北に続いた山の尾根にできた町。山の尾根から南西の斜面に家が密集している。赤褐色に錆びたトタン屋根の木造の2階や3階建ての家が密集する中にポツリ、ポツリと3~5階建ての近代的なビルがある。そして、旧市街の真ん中辺りに、大きな白亜のモスクがある。あちこちに仏塔や寺院もあるが、モスクが最も目立っていた。

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ラーショー郊外沿道のみかん売り

 

ミャンマー北部探訪⑯ 桜並木のあるピン・ウールイン

 1981年1月、マンダレーから70キロ東のピン・ウールイン(旧名メイミョー、日本軍の司令所があった町)へ向かった。「ヒロミ・イン」という名の宿泊所は日本人が経営しているというので、予約の電話を入れておいた。

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ヒロミ・インの入口

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ヒロミ・インの玄関に立つ筆者

 ヒロミ・インに着くと小柄で中年の美女が応対してくれた。日本人かと思いきやミャンマー人で、10年間大阪で働いている時、日本人技師と結婚して、数年前にミャンマーに戻り、夫と2人でヒロミ・インを始めたという。しかし、夫は今病気療養のためヤンゴンに滞在中なので、1人で経営の切り盛りをしているそうだ。

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ヒロミ・イン入り口での筆者

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筆者が宿泊したコテージ

 標高1,100メートルのピン・ウールインは、イギリス植民地時代から避暑地として有名な町であり、早くから西欧化していた。

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西洋風の庭園

 イギリス統治時代からの旧名“メイミョー”は、“メイの町”、すなわちここを切り開いたイギリス人のメイさんの名前の町名であったので、独立以後、“ピン・ウールイン”、“ピン”は高原を意味するので“ウールイン高原”という地名に変更された。

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ピン・ウールインの松の木

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ピン・ウールインの竹

 ヒロミ・インから馬車で中心地に出た。市場や有名な時計塔を見た後、午後1時半に市中心地から約2キロほど離れた町の東側の林の中にある、ヒロミ・インに歩いて戻ることにした。

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中心街の時計塔(拙著写真のコピー)

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桜の街路樹

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コヒガンサクラのような桜の花

 その途中、何度か桃色に咲いた桜の花を見た。特にサーキュラ通りに面した両側に桜の木が多かった。ここの桜は、山桜に近く、花が小さくて桃色なので、信州高遠のコヒガン桜のようで美しい。“チェリーバン”と呼ばれる桜は、12月から1月にかけて咲くそうで、もう終わりかけているとのことだった。

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桃色のコヒガンサクラのような花

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街路の桜の樹

 ここは、イギリス人の避暑地として誕生した町なので、植民地時代の建物が林の中に多く点在するのだが、1942年5月にマンダレー地方を制覇した日本軍も、いち早くこの地に陸軍の戦闘指令所を設置し、撤退するまでの約2年半の間、ミヤンマー北部戦闘指令の中心地としていた。

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ミヤンマー国軍施設の中の平地にある日本軍の墓地

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ピン・ウールインの国軍施設の中にある「陸軍墓地」の碑

 道沿いの林の中には、かつての立派な豪邸があり、桜と古い大きな邸宅を見ながら、地図を頼りにゆっくり歩いて、午後3時すぎに、やっとヒロミ・インにたどり着いた。

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平成27年9月に出版した拙著

ミャンマー北部探訪⑭ インワの遺跡

 マンダレーからエーヤワディー河に沿って南に下り、インワ鉄橋を過ぎて真っすぐ延びる道を進むと、ラーショーの方から流れているミンツゲー川に突き当たって行き止まりになっている。そこの船着き場からボートに乗って対岸に渡った所がインワの町。

 インワは、1364年にシャン族の都となったが、やがてビルマ族の都となって栄えた。しかし、1752年にはモン族の攻撃を受けて破壊された。そして、再びビルマ族の王都となって復活したが、1838年に発生した大地震で壊滅的な被害を受けた。そして、1841年には、近くのアマラプラへ遷都した。それ以来、インワが王都になることはなかった。

 私は、船で渡った後、馬車をチャーターして2時間かけて、インワの遺跡を見て回った。

 現在のインワは、いくつかの集落と化し、王宮跡は畑になっており、畑の中に立派な仏塔や壊れた寺院などの建物があり、林の中に厚い城壁があったり、王都の遺跡がいたるところに残っている。

 最後に見たのは、1834年に建てられた総チーク材の立派なバガヤー僧院であった。建物全体が木彫りで装飾されており、暗いお堂の中には仏像があり、200年以上も静かに佇んでいるような神秘的な雰囲気があった。

 それにしても、インワは多民族地域の王国の盛衰の激しさが思いやられる、歴史的証明のような場所だ。大陸における独立国の維持がいかに困難であったかの思いにかられながら、馬車にゆられて船着き場に戻った(残念だが、インワの写真が見当たらない)。

 

ミャンマー北部探訪⑮ ミングオンの大鐘

 マンダレーから10キロほどエーヤワディー河をのぼった川沿いにあるミングオンは、王都になったことはないが、史跡があり、マンダレーから近いこともあって有名な観光地になっている。

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マンダレーから対岸のミングオンにわたる筆者

 私はマンダレーから船で半日間の観光に出かけた。マンダレーヒルの対岸にあるミングオンには、巨大な仏塔跡があることでよく知られている。

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 エーヤワディー河の船上から見たミングオン・パヤ(仏塔)の台座

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遠くからでもよく見えるミングオン・パヤの台座

 それは、ビルマ族のボートーパヤー王(1782~1819)が、世界最大の一辺140メートルの仏塔を造ろうとしたが、残念ながら建設途中に亡くなり、1790年から工事が中断したままになっているミングオン・パヤの台座のことである。

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巨大なミングオン・パヤ台座の入口

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壊れかけたミングオン・パヤの上部に上がる新設された階段

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ミングオン・パヤの上から北方への眺め

 ミングオン・パヤと呼ばれるこの仏塔は、1839年の地震で大きなヒビが入って、ところどころ崩れかけているが、補修されて上部に上ることができる。私は、仏塔の上に登って周囲を眺めた。

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ミングオン・パヤの上に立つ筆者

 この近くに、“ミングオンの鐘”と呼ばれる世界一巨大な鐘がある。これは、建設中の巨大な仏塔のために、ボードーパヤー王が1808年に造らせたのだそうだが、塔が完成しなかったので近くのお堂の中に吊られたままになっている。

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ミングオンの鐘が吊るされている建物

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世界一大きなミングオンの鐘

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ミングオンの鐘のそばに立つ筆者

 この鐘は口の外径が約5メートル、重さ90トンもある、ヒビの入っていない鐘では、今も世界最大級だそうだ。私は近づいて触って見たが、本当に大きな鐘で、当時の王の卓越した見識に驚かされ、近くに佇んでしばらく眺めた。その後、隣にあった白亜の仏塔シンピューメェを見た。

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シンピューメェの入口

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白亜の仏塔シンピューメェ

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横から見た、七段になっているシンピューメェ

 シンピューメェは、バーヂード王(1819-1837)が、王子時代に他界したシンピューメェ婦人を偲んで建てた仏塔で、須弥山の山並みを表現した、7段の回廊があり、本堂の正面には仏像が安置されている。 

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シンピューメェの中にある仏像

 2時間程見物し、熱かったので、果物を買って食べたが、甘くなく酸っぱかった。

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切り売りしているマンゴーやパイナップルなど

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ミングオンで見かけたコブウシの牛車

ミャンマー北部探訪⑬ 僧院の僧侶たちの食事

 ウー・ベイン橋を見終えて、車に10時に戻ると、運転手が、僧院の僧侶たちが10時15分から一斉に食事をするので、是非見るようにと勧めてくれた。彼の案内で橋の近くにあった大きなマハーガンダーヨン僧院を訪ねると、すでに沢山の観光客が取り巻いていた。

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マハーガンダーヨン僧院の僧侶の洗濯物

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マハーガンダーヨン僧院の中庭

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僧侶たちの宿舎

 マハーガンダーヨン僧院は、ミャンマー国内最大級、最高位の僧院のひとつで、約1,500人の僧が修行しているそうだ。その僧たちが大食堂で食事をする風景を見ようと沢山の人が集まって食堂を取り巻いていた。それではとばかりに私も、カメラマン意識が向上し、中に入って遠慮なく撮影させてもらったが、少々暗くてもフラシュは禁止されていた。

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小僧たちの食事

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食事中の小僧たち

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食後のわずかな間の団欒

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食後それぞれが食器を下げる

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大食堂での食事中

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大勢が一斉に食事をするので騒がしい

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広い食堂での大勢の食事は、修行中の僧たちでも賑やかであった。

 後で知ったのだが、1日に1回だけ、この僧院が開放され、僧たちの食事時が観光化されているので、誰もが自由に見られるとのことだった。それにしても、子どもから老人までの多数の僧たちが一斉に食事する光景は迫力があり、珍しいことであった。

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僧侶たちが使う食器類

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僧侶たちの洗面器

 

ミャンマー北部探訪⑫アマラプラのチーク材の橋

 マンダレーの周辺には、シャン族・モン族・ビルマ族などが都にした町が3カ所ほどあり、その1つがアマラプラの町。

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アマラプラのタウンタマ湖

 マンダレーから11キロほど南にあるアマラプラは、エーヤワディー河とタウンタマン湖に挟まれた所にある。ここにはいろんな民族が都としたが最後は、ビルマ族の王が1841年にインワから遷都した。しかし、1857年には次の王がマンダレーへ遷都した。主要な建物などは、マンダレーに運ばれてしまい、さらに地震の被害などもあって、今では都であったことを偲ばせる建物はほとんどない。

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160年も前に作られたチーク材の橋は今も健在

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硬いチーク材の柱

 残っている唯一の建造物は、“ウー・ベイン橋”と呼ばれる160年ほど前に作られたチーク材の橋。これは、インワからアマラプラへ遷都された当時の市長ベインさんが、インワの旧王宮からチーク材を運び、タウンタマン湖を渡るために造った全長約1・2キロの立派な木製の橋。

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全長1,2キロもある、タウンタマン湖上にかかるウー・ベイン橋

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所々修復されており、木材が新しくなっている。 

 私は、そのチーク材の橋を見るために、半日車をチャーターした。マンダレーから朝8時に出発し、約30分でウー・ベイン橋のたもとに着いて、すぐに橋を渡り始めた。

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橋は今も日常的に使われている。

 160年も前に作られた全長1・2キロもあるチーク材の橋は、今も修繕を重ねながら市民が日常的に使っているし、文化遺産になっているので国内外の観光客も多い。

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タウンタマン湖畔の水田

 朝日を浴びながら30分ほど歩いて対岸にある、チャウッド・ヂー・パヤーを訪ねた。ここには、上半身が女性、下半身がライオンの伝説の生き物「マヌーシャ」の像があることで知られている。

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橋を渡った村で、米を入れた竹筒を焼いていた。

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竹筒を焼いた飯は、竹の油がしみてうまい。

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村の女性
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村の中で糸を紡ぐ女性と米を選別する婦人

 帰りには橋から下りて大地を歩きながら、下から橋を見上げた。そして橋の側にあった露店で青いココナツの実を1000チャットで買った。イスに座ってココナツジュースを飲みながら、湖にかかる橋を眺めた。大変珍しいが、高くて長いチーク材の古い橋が、なんとも素晴らしく、史跡としての価値は十分にあるように思えた。

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橋下の露店でココナツ水を飲みながら眺めた。ここは雨季には水没する。

ミャンマー北部探訪⑪ ザガイン・ヒルの日本兵墓地

 マンダレー南部郊外のエーヤワディー河の対岸にあるザガイン・ヒルは、沢山の仏塔が建っていることで有名なのだが、日本人にとっては、旧日本軍兵士の墓地があることで知られている。

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マンダレー側から見たザガイン・ヒル

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ザガイン・ヒルの仏塔群

 ザガインの町は、エーヤワディー河にかかる大きなインワ鉄橋を渡った所にある。ここは、1322年にシャン族の王が都としたが、1364年にはインワに遷都している。その後、あまり顧みられることはなかったが、今では多くの仏教遺跡がある町といわれている。

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エーヤワデイー河にかかるインワ鉄橋

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マンダレー側からザガインへ渡るインワ鉄橋

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インワ鉄橋上の車窓から見たザガイン・ヒル

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ザガイン西郊外にあるカウンムード・パヤの仏塔

 ザガインの町北外れの、エーヤワディー河沿いにある小高い丘のザガイン・ヒルには、なんと150以上もの仏塔と僧院が点在している。その丘の一つの頂上には、日本兵の墓地があり、日本パコダもある。そのパコダの台座には、無数の戦没者の名前が記されている。

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日本兵墓地や日本パコダのある丘の上

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ザガイン・ヒルの日本人墓地

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丘の上にある「高知パコダ会」の慰霊碑

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四国の善通寺部隊鎮魂碑前の筆者
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鎮魂碑とその後ろに記されている言葉

 四国の善通寺部隊の墓碑もあった。高知県出身の私の父も善通寺部隊に所属し、中国大陸の戦いに出向いていた。父は2年後に無事帰還したので私が生まれた。私は、持参していた線香と日本酒やせんべいをもって供養し、死者の霊を弔った。

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日本パコダ この台座に無数の戦没者名が列記されている。

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無数の戦没者名の列記 心当りの氏名はないだろうか?。

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無数の氏名が列記されているが、よく見ると関係者名があるかも。

 今日の若い日本人の多くは知らないだろうが、1942~1945年までのビルマ戦線におけるミャンマー北部では、何千もの日本兵が戦病死し、今も帰還できない遺体が多い。私が訪れる北部のどんな町や村でも、既に多くの日本兵が訪れていた。そんなこともあって、ミャンマー北部は、中年以上の日本人の多くの方には、幼少時代に耳にした地名がある、関心のある地方なのである。

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亡き戦友への慰霊碑

 今、ミヤンマー国軍がクーデターを起こし、問題になっているが、国軍がビルマをイギリスから独立させたきっかけを作ったのは、死せる日本軍の兵士たちでもあった。その後ビルマ独立を守り続けたのは国軍であったが、今回のクーデターにはミヤンマーの空で悲しんでいるだろう。

ミャンマー北部探訪➉ 衣類の多様なデザイン

 マンダレーのゼーチョー・マーケットの隣りにあるショッピングモールの中の衣料品市場をのぞいてみると、通り狭しと衣類が陳列され、多くの女性で混雑していた。

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ショッピングモール「ミヤンマー・ラザ」の入口

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ショッピングモールの中の衣類街

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所狭しと並んだ衣類

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派手やかな布が並ぶ店

 市場の中では多種多様な出で立ちをした女性たちが活気にあふれ、暑い国らしく原色の明るいデザインの布が所狭しと吊るされたり、並べられたりしている。一般的に三ヤンマーの女性は、明るい色の布を腰に巻いている。腰巻(ロンジ)用の布は種類が多い。

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中高年用の地味な布

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若者用の明るい布

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明るい反物

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普段着用の布

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少女用の布

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上等な布

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柄物

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模様の入った布

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各種の布

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ワンピース用の布

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各種反物

 古来の女性は、ロンジーと呼ばれる布を腰に巻き、上半身はブラウスであったが、今

ではカラフルなワンピースを身につける若い女性が多くなっている。

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若者用のワンピース

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中年用か

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中年用

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若者用

  ミャンマーの女性は、明るい色彩の衣服を身につけるので、日本では見かけないはでやかな布が多く、市場全体が華やいでいた。

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カラフルなブラウス