ミャンマー北部探訪⑨ マンダレーの王宮

 マンダレーは、ビルマ族最後のミンドン王によって、1851年に建設され王宮のある古都。その王宮の敷地は一辺が2キロもある正方形で、高さ8メートルの赤いレンガ造りの厚い壁に囲まれている。その壁の外には水を湛えた幅70メートルもの大きな堀が巡らされ、東西南北の4カ所だけに橋がある。

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マンダレーの王宮を取り囲む幅70メートルもある東側の堀

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王宮の西側にかかるチーク材の橋

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王宮西側の堀

 1824年には、イギリスが東インドからビルマを侵略し、まず南にラングーン(現ヤンゴン)を建設した。そして、徐々に北へ侵攻し、1885年にはマンダレーを占領し、ビルマ王朝は滅びた。1886年には全ビルマが植民地となり、王宮はイギリス軍の施設となった。

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復元された王宮の本堂

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王宮の中庭

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王宮の東門入口にある尖塔

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らせん階段のある監視塔から見た尖塔

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監視塔から見下ろした、見事に復元された王宮

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らせん階段のある監視塔の上での筆者

 その後、1942年には日本軍がイギリス軍を追い出してマンダレーを占領し、王宮は日本軍の司令部となった。しかし、英米支連合軍との戦いに劣勢となった1945年3月には、イギリス空軍機の爆撃によって、チーク木材中心にてきていた王宮の建物は焼失し、残ったのはレンガ造りの城壁だけであった。

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監視塔から北のマンダレーヒルを見る

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監視塔から見下ろす僧たち

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王宮西側の建物

 1948年1月にビルマ(現ミャンマー)独立後は、王宮の跡地が国軍の施設として利用されていた。そして、1990年末に、今日の王宮の建物が再建され、観光地化して、入場料を払って内外の人々が新王宮内に入ることが出来るようになった。

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王宮東側の入り口近くの建物

   

ミャンマー北部探訪⑧ マンダレー・ヒル

 マンダレーの中心街から北へ5、6キロ離れたマンダレーヒルまでサイケ(オートバイタクシー)を雇って行った。

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1978年1月当時の王宮の堀から北を見上げたマンダレーヒル

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マンダレーヒルの下から中腹を見上げる

 ヒルの入り口には大きな2頭のライオン像があった。これを“チンテー・ヂー・ナッカウン”と呼んでいる。チンテーはライオン、ヂーは大きい、ナッカウンは2つを意味する。

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マンダレーヒル入口の巨大な獅子像
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サンダムニ・パヤの白亜の小仏塔群からヒルを見上げる、右は入口のライオン像

 階段の入り口で靴を預け、素足で階段を上る。マンダレーヒルは全山が仏教の聖地になっており、沢山の寺院があるので、有名な観光地でもあり、外国人が多いが、現地のミャンマー人も多い。車でも7合目の頂上近くまで行けるのだが、地元の人は皆、天気に関係なく登れる屋根付き階段を使って上る。階段を上っても上っても果てしなく続く。

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登る階段に屋根の付いた中腹

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屋根の付いた階段

 一千以上もの階段が続いているそうだが、一気には上がれないので、休み休み上った。行けども行けどもなかなか行きつけなかったが、しばらく上っていると急な階段を上がった頂上近くに、土産物を売る店が並んでいた。そこでしばらく息抜きをした。聖地の頂上に着くための苦労だと思えばよいのだが、なかなかそうは思えず、悟ることもなくやっとの思いで頂上に着いた。

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美しい大理石の壁

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仏像の前で休む人々

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仏像の前で祈る婦人たち

 階段を上り詰めた頂上は、全てきらめくように輝いているスタウンピー・パヤの寺院になっており、床は美しい大理石が敷いてあった。多くの人が、仏像の前に座っていたり、広間に座ったりして休んでいる。

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床の大理石が光っている

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寺院置かれた壺の中には飲み水が入っている

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頂上のスタウンピー・パヤ

 日本と違って小乗仏教ミャンマーでは、多くの人が毎日のように寺院に詣でる。一面に明るいタイルが貼られている寺院は、極楽のような雰囲気があり、人々は至る所に座って休んでいる。

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マンダレーヒルから見下ろした西側の光景

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ヒルから見下ろしたサンダムニ・パヤの白亜の小仏塔群

 私は、しばらく床に座っていたが、スタンウピー・パヤの展望テラスに出て、広い広い果てしもなく北や東方に広がる大平原を見下ろした。南の方には、王宮やマンダレーの町が一望できる。樹木の少ない褐色の大地がむき出しになった所でも、山のないのっぺらぼうの所でも、どんな所でも人々の生活が営まれていることを感じながら、夕方近くまで眺めていた。

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マンダレーヒルの夕景

ミャンマー北部探訪⑦ 市場で働く女性たち

 マンダレーにはいろいろな人々が住んでいる。ビルマ族、シャン族、カチン族、モン族、インド系、中国大陸系、バングラディシュ系など多民族の顔や衣装が溢れている。しかし、はっきり見分けるのはたいへん難しい。まずは、ゼーチョー・マーケットの市場で働いている女性の様子をご覧あれ。

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飲み物を売る婦人

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親子で買い物に来た婦人

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オートバイで買い物に来た人

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ミヤンマーの葉巻タバコを吹かす婦人

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バナナ売りの婦人

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トマト売りの女性

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子どもを背負った婦人

 私は、長い間中央アジアから東の少数民族とされる人々を踏査し、人々の表情を撮影してきた。そんなこともあって、昭和45年頃に日本では最初に“民族写真家”を名乗った。その後親しくなった京都大学梅棹忠夫先生が、私も“民族写真家”だと言うので、それでは先生が1号で、私が2号としましょうよと笑ったことがあった。

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川魚を売っていた婦人

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市場内で道路工事をしていた女性

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客と会話する婦人

 東南アジアの諸国では、男性より女性の方が働いている。特に市場では男性よりも女性が多く、よく働いている。マンダレーのゼーチョー・マーケットでも売り子や買い物をするのはほとんど女性で、男性はあまり見かけなかった。

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果物売りの婦人たち

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みかんを売る女性

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落花生売り

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花を売る女性

 私は、これまでにアジア大陸の沢山の人々の様子を撮影し、写真集「写真で見るアジアの少数民族」を出版しているが、ここではマンダレーのゼーヂョー・マーケットでよく働いていた女性の表情を紹介した。

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「アジアの少数民族」全5巻の2巻目



 

 

ミャンマー北部探訪⑥ ゼーチョー・マーケット

 私は、マンダレーには5度訪れ、便利なのでいつも旧市街にあるニュースター・ホテルに泊まった。ホテルの目の前には、マンダレーで一番大きなゼーヂョー・マーケットがある。

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ゼーチョー・マーケットでのバナナ売り

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オートバイタクシーは、人も荷物も運ぶ

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タケノコの漬物

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雑多な市場街

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調味料としての唐辛子の粉

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川魚売り

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竹筒で焼いたモチ米の飯

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みかん売り

 熱帯の果物や野菜、川魚や肉、雑貨など、何でも木の台の上や路上に直に並べて売っている。屋外市場は、日本の朝市を大きくしたようなものだが、多民族で人出が多く活気があり、異国情緒や雑多な雰囲気があるので、異国情緒に慣れていない日本人は、異文化と未知への旅心をくすぐられる。

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黒米と白米で作った餅(柔らかくてうまい)

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表の殻を取り去って、ココナツミルクを取り出すためのココナツ売り

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餅の量り売り

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サトウキビから作った砂糖菓子

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餅や芋を売る婦人

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路上の市場風景

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野菜売り

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鶏肉売り

 このようなオープンマーケットは、一般的にあまり衛生的ではないのだが、そんなことよりも町の心臓部の鼓動が感じられ、人間本来の生き様としての食の原風景の活気にのまれ、時の経つのを忘れがちになる。何度訪れても、ついつい魅せられて、長居をしてしまう。私は、どの町を訪れても、まず市民生活のわかる市場を見ることにしている。 

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物を頭にのせて売り歩く婦人

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街頭で食事をする人たち

 

ミャンマー北部探訪⑤ 古都マンダレー

 ミャンマー東北の町チャイントンからヘイホー経由でビルマ族の都であったマンダレーに飛んだ。

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モダンなマンダレー駅舎

 ミャンマー北部の中心地マンダレーは、もともとビルマ王国の首都であった。人口100万人だそうだが、その3分の1が中国大陸から南下してきた人々だと言われている。まずマンダレーの歴史に少し触れておかないと、どうして中国大陸系の人が多いのか、多民族社会の現状が分からないだろう。

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中心地の商店街での中国大陸系の葬式

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漢字ばかりの葬式会場

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ミヤンマーとは思えない葬式風景

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三ヤンマー文字がなく、全く中国大陸風

 1857年、ビルマ族ミンドン王によって建設されたマンダレーは、ビルマ最後の王都として栄えた。マンダレー周辺には、インワ・ザガイン・アマラプラなど、シャン族やビルマ族、モン族などの王朝の都があった。

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マンダレー中心地の市場街

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市場の混雑

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市場での餅の量り売り

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市場での食事

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市場での食べ物売り

 1885年にはマンダレーがイギリスに占領され、1886年にはビルマ全土がイギリスの植民地となった。イギリスはビルマ支配に華僑とインド人を使い、マンダレーには華僑が多くなった。 

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頭に荷物を載せて運ぶ女性

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インド系の婦人たち

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ビルマ族の食べ物売り

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飲み物を売るシャン族の婦人

 約半世紀後の1942年1月には、旧日本軍がインドシナ半島からタイ国を経て、ビルマ南部に侵入し、4月にはマンダレーに進出して、マンダレーまで南下していた蒋介石率いる国民党の重慶軍と戦い、5月初めには重慶軍は北に脱出した。

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中心地にある古い商店街

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町を走る自電車タクシー

 1944年7月には、旧日本軍はインパール作戦に失敗し、徐々にマンダレーから南に脱出すると、イギリス・アメリカ軍と共に国民党の重慶軍も再びマンダレーまで南下してきた。

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1978年当時の国軍

 日本の敗戦後、イギリスはビルマの独立を許さなかったが、ビルマ国軍の努力にって1948年1月に独立することができた。国民党の多くは北に引き上げたが、1949年10月には共産党中華人民共和国が建国されたので、台湾に移動した国民党の残留兵の多くは帰郷できなくなり、マンダレーやシャン州、カチン州等に残った。彼らの多くは、現地の女性と結婚し、今では2世、3世になっている。そんなこともあって、マンダレーには中国大陸系の人が多いのである。

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モン族系の楽団

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顔にタナカを塗った少女

 マンダレーにはイギリスと共にやって来たインド系のヒンズー教徒も多い。それにイギリスに教化されたシャン族のキリスト教徒、ビルマ族仏教徒バングラディシュ系のイスラム教徒なども多いので、マンダレーは多民族、多文化、多宗教のミャンマー第2の大都会なのである。

ミャンマー北部探訪④ 多民族が集う市場

 朝8時、“シャン・マーシェチジー”と呼ばれる、チャイントンの中央市場を訪れた。朝の市場には、周辺の山岳地帯から1万人ものいろいろな民族が集まると言われていたが、噂に違わず多種多様な民族が集まった活気のある、大きな市場があった。

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チャイントンの宣伝用民族写真(コピー)

 300メートル四方くらいの広さに、大小さまざまの小屋や長屋のような家が並び、中に十字路があり、通りには店が無数にあって、いろいろな姿形をした人がごったがえしている。

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唐辛子を売る山岳民族

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売られていたビーフ

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売られていたナマズ

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食材を売るシャン族の女性

 野菜や魚類、野生の獣物や鳥、鶏の肉などの生鮮食品から、各種乾物、嗜好品、雑貨、衣類、軽機械類、家庭用具等、人間以外は何でも売られている。

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市場近くのオートバイ駐車場

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閑散とした市場に残った女性

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糯米のビーフンを売る女性

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乾物を売るTAI-LONの女性

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買い物をする山岳民族の女性

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子供を背負う女性

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市場の中の通り

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市場の人込み

 一通り見て歩いた後、人通りの多い十字路の交差点に立ち、行き交う人々の姿をながめた。身長2メートルもある人から 140センチメートルの小さな人がいる。横綱のように肥えている人、やせた人も中肥りの人もいる。色の白い人、黄褐色の人、黒い人、鼻の高い人、低い人、モデルにしたいようなスタイルのよい女性など、本当に多種なのである(今日では多くの民族が同化して分かりにくいので、チャイントン博物館に展示されている民族人形を、許可を得て撮影したので紹介する)。

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チャイントン民俗博物館

 この町に最も多いシャン族にもいろいろある。彼らは自分たちのことを“タイ”と呼ぶのだが、TAI LAI やTAI NAY と言う北方系の人、TAI LOI やTAI LON と呼ばれる古くからシャン地方にいる人々、TAI KHUN と呼ばれるチャイントンで最も多いシャン族。TAI KHUN の彼らはタイ国人と同系の人々。TAI LON をジャインジーと呼ぶが、“ジー”とは大きい意味なので、同系でもタイ国系の人々を兄貴分と見なしているようだ。

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シャン族の一派TAI-LAY

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シャン族の一派TAI-LOI

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タイ国と同系民族とされるTAI-LON

 その他にはアカ・ワ、ラワ、ヤオ・エン、そしてモンやバーマ(ビルマ)などの民族。長年アジアの少数民族を踏査しているが、これだけ多くの民族を同じ場所で、ほぼ同時に見ることはなかったような気がする。しかし、正確には見分けがつかなかった。

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アカ族

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ワ族

 北方の辺境地であったこの地方では、5、60年前までは、これらの民族がお互いに住み分けて戦いが絶えなかったし、国民党の残党やシャン族とビルマ族政府軍とのゲリラ戦もあったが、南からやって来たビルマ族を中心としたミャンマー中央政府の武力と経済力、教育力によって、やっと統合され、今は、風俗習慣、宗教を超えて同化して市場に集まっている。この市場には、多民族の人々が、生きるために必要な営みが凝縮されている。それは、戦場のような光景でもある。

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左:シャン族 右:ビルマ族

 行き交う人々の中には、唇を赤くし、歯が黒くなっている人がいる。これはシャン語で“ビテル”と呼ばれる植物の葉で、ココナツと“トーフ”と呼ばれる石灰、“ナッセー”と呼ばれる液体の様な物を包んで、口の中に入れて噛む習慣があるからだ。一種の噛みたばこのようなもので、少々刺激がある。

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左:ラフ族 右:エン族

 周囲の山岳地帯から朝早くにやって来る人々は、午前10時半頃にはほとんど帰ってしまうので、市場は活気をなくし、しぼんだ風船のような雰囲気になる。

 ビルマ戦線時代、日本軍もこの町に2~3年駐留していたので、多くの日本兵がこのような少数民族に接したことだろう。

ミャンマー北部探訪③ チャイントンの街

 タチレイの町から約160キロ北のチャイントンまで、バスで4時間余りかかった。

 チャイントン郊外のバスターミナルに着いたが、一般的に外国旅行者が訪れることは出来なかった町なので、町に関する情報はない。ミャンマーはイギリスの植民地であったので、老人に英語が話せる人が多い。

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タチレイからチャイントン行きのバス(日本の中古車)

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車窓に見えるチャイントン近くの水田

 いろいろ尋ねていると、英語がよく話せる中年の男がやってきて、「外国人が泊まれるホテルを知っている。オートバイで案内する」と、小型トラックのタクシーに乗ってついて来いと言う。

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案内されたGolden World Hotel

 案内されたのは、中心街の“Golden World Hotel”であった。

 ホテルの隣にある食堂で遅い昼食をとる。この店の壁には漢字が書いてある。ここから中国との国境の町モングラまでは約80キロ、車で3時間だそうだ。店で食事をしていた40代の男2人の客は漢語を話していた。中華人民共和国に近い町なのだ。

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ホテルの隣の食堂

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食堂で食べたビーフンのシャン族料理

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漢字で書かれた寺院

 ここは越系民族の末裔シャン族の住むシャン州。シャン族はもともと中国大陸東南部に住んでいたが、徐々に移動してきた民族で、隣国のタイ族とほぼ同じ民族。

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丘から眺めたチャイントンの町

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チャイントンの住宅地

 標高787メートルにあるチャイントンは、なだらかな山岳地帯の町で、人口20万。ノントウン湖を中心とした高原の町なので朝晩は涼しい。

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チャイントンの中心地ノントウン湖

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マハーミヤツ・ムニ寺院

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丘の上のワット・ションカム

 ホテルでもらった地図を頼りに歩く。まず、ホテル近くのマハーミヤツ・ムニの寺院を見る。屋根は褐色で、壁は黄色の立派な寺院。丘の上のワット・ジョンカムを見た後、周囲の丘に囲まれた、低地のノントウン湖に下りた。周囲4キロくらいの小さな湖だが、湖畔には西洋風の立派な住宅が立ち並んでいる。湖には水垢が漂っているし、濁っているのでお世辞にもきれいとは言えないが、周囲の建物が水面に映えて、絵葉書のような美しい光景。

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ノントウン湖

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ノントウン湖畔の高級住宅

 町中には仏教寺院が多いが、イギリス植民地時代の布教によるキリスト教徒もいるので教会もある。

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町を見下ろす丘に立った仏像

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指を差している巨大な仏像

 町が一望できる丘の上に登り、山に囲まれた平和郷のような町を見ながら歩いていると、金色に輝く大きな仏像があった。立ち上がって右手で指差している仏像は珍しいので、近くにいた老人に尋ねると、平和・悟りを示しているのだと言った。戦争の多かった多民族社会の平和を祈念する象徴的な仏像なのだろう。この町には旧日本軍も一時駐屯していた。

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巨大な仏像の前に立つ筆者

ミャンマー北部探訪② タチレイの寺院巡り

 東南アジアのラオスやタイにも多い、小型トラックや小型三輪のタクシー”サイカ”は、安いが乗り心地は良くない。20代と思える人の良さそうな青年が、200バーツ(約650円)で半日市内観光するというので、彼の運転する車に乗った。

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華やかな色彩のダイアナ寺院

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ダイアナ寺院の入口

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ダイアナ寺院の太鼓

 まず町中の大きなダイアナ寺院を訪れた。褐色の屋根に尖塔のある大きな寺の広場に輪タク”サイカ”が沢山止まって観光客が多く、読経も流れていた。タイやラオスには立派な寺院が多く、もう見飽きていたが、大きな寺院なので40分近くも見学した。

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ダイアナ寺院の仏壇

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仏壇

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ダイアナ寺院の仏像

 次には中心地から少し離れた丘の上の金色に輝くスエダゴン・パコダを訪れた。パコだは修復中で、下部がブルシートで囲われていたが、頼みもしないのに、中年の女性が案内についてくれた。しかし、英語ではなく、タイ語ミャンマー語交じりでよく理解できない。運転手は入口まで案内してくれたが中には入らなかった。

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スエダゴン・パコダの標識

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スエダゴン・パコダの入口にあるドラ

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スエダゴン・パコダ・(工事中)

 床は大理石を敷き詰めてピカピカ。靴を脱がされて素足で歩くのだが、12月の乾季とは言え日差しが強くて床が熱い。素足の彼女は慣れているのか、熱がる私を笑う。私はいつも靴を履いているので足の腹の皮膚が柔らかくなっているのか、床が痛いように熱いのでなるべく日陰を歩いた。

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日曜から左回に一週間の礼拝所が指定されている。

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月曜日の礼拝所で両膝をついた筆者

 大きなパゴタの台座には、日曜日から右廻りの順にお祈りをする場所が決められている。今日は月曜で、西側のその場所で参拝するように勧められ、両膝をついて手を合わせた。

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バコダの横にある仏像に膝まづいて礼拝する人たち

 30分近くも案内してくれ、最後に10枚ずつの絵葉書を勧められた。彼女は正式の案内人ではなく、絵葉書や土産物を売りつけるのが目的であったので、断るのも悪い気がして200バーツで買った。

 パコダの丘を降りると、道は未舗装で凹凸が多い。車は埃を立ててバタバタと音高く走り木製の門の前で止まった。150バーツ払って民族村に入った。私は民族研究家でもあるので各民族について少々の知識はある。

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カリヤン族の娘

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首輪をする前のカリヤン族の娘

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首を長くしたカリヤン族の老婆

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アカ族の女性たち

 首長のカリヤン族やアカ族の娘たちがいた。ここは観光村なので土産物を売るのが中心。あまり関心が持てなかったので長くはいないで門を出た。門の前で待っていた運転手が次の場所へと車を走らせた。

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タンマーヨン寺院の金色の仏像

   次にはタンマーヨン寺院を案内してくれたが、寺院はもう見飽きてもいるので、20分ほどで金色に輝く華やかな仏像などを一巡して、ホテルに戻った。 

ミャンマー北部探訪① 国際都市タチレイ

 タイとの国境メーサーイ川にかかる幅50メートルほどの橋を渡ってミャンマー側の町タチレイに入った。

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タイ国との国境”メーサーイ川”

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国境事務所を越してミヤンマー側の町タチレイの入口

 毎日大勢のミャンマー人が給料の良いタイ側に出稼ぎに行き、沢山のタイ人や外国の旅行者が物価の安いタチレイへ観光や買い物に訪れるので、国境は大変活気があり忙しい。

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タチレイの町最初のロータリー

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丘の上から眺めたタチレイの全景

 橋の袂(たもと)にある国境事務所を訪れて、100メートル余り進むと大きなロータリーから四方に道が延びている。右側の市場への道の方が広場になっており、三輪車のタクシー”サイカ”が数10台止まっている。その運転手たちが、タイ国から次々にやってくる客を呼び込んでいるので、大変賑やか。大半の客は日帰りなので、2~3時間の買い物や市内観光。

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タチレイの中心街

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化粧用のタナカの木を売る店

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タチレイの中心街に立つ筆者

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タチレイ中心街の果物屋

 タチレイの中心地であるバザールには、路上に並んだ露天の店が無数にあり、なんでも売っている。ここではミャンマーの貨幣チャットよりもタイの貨幣バーツやアメリカドルが流通しており、言葉は英語、タイ語ミャンマー語ヒンディー語が飛び交い、どこの国なのか分からない。

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バザールの入口

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バザールの中

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バザールでは多種多様な物が売られている

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顔にタナカを塗った婦人

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焼き栗を売る婦人

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日傘を立てた露店

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雑貨を売るイスラム教の女性

 入国に関しては厳しいミャンマー政府が、タイと接したタチレイだけは、早くから国境で1日から数日間の簡易ビザを発行して、外国人を受け入れていた。そんなこともあって、ミャンマーでは1番活気のある国際都市になっていた。

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日差しの強いタチレイの繁華街

ミャンマー北部探訪 序章

はじめに

 私は1965(昭和40)年2月に初めてビルマ(現ミャンマー)を訪れて以来、日本の民族的、文化的源流を探捜する目的で、中国大陸東南部から南下してきたと思われる、ミャンマー北部の山岳地帯に住む、越系民族を踏査することもあって、これまでに8回訪れた。最近では、一昨年の2018年4月であった。

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西北部シュエボの稲作地帯で稲を運ぶ牛車

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北端の町ミッチーナでの少数民族と筆者

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カチン州ミッチーナでの踊る祭典”マナウ”

 今、ミャンマー国軍がクーデターを起こして、いろいろ注目されているが、日本とは深いつながりがある。1942~1945年までのビルマ戦線において、ミヤンマー北部へ日本軍の将兵が10万以上も参戦し、多くの人が戦病死しているが、日本人には知られていないことが多い。しかし、遺族や将兵の関係者には知りたいことが多いだろうと思う。西北部地方のビルマ族発祥の地、マンダレー周辺を中心に、写真と簡単な文章で40~50回紹介する。

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マンダレー近くのミングオン・パヤの上に立たす筆者

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ミングオンの寺院

 ついては、今回再度のクーデターを起こした国軍が、旧日本軍と関係が深く、日本軍の協力の下に独立できたと思っているビルマ族の人々は、今も日本に親しみを持っている経過を、簡単に説明しておく。

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マンダレーのゼーチョーマーケットで餅を売る婦人

 多民族社会のミャンマー(旧ビルマ)は、西北部のビルマ族を中心とするビルマ王国を建国していたが、その首都であったマンダレーが、1885年にイギリス軍に占領され、1886年にはビルマ全土がイギリスの植民地となった。今日のミャンマーは、イギリスの軍事力によって作られたビルマ国の領土をそのまま引き継いでいる。

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マンダレーの新王宮

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新王宮のらせん階段上からマンダレーヒル方への景観

 その後、1942年に旧日本軍がミャンマーに進駐し、日本で教育されて帰国していたアウンサン(スー・チーさんの父親)らが率いる、ビルマ独立義勇軍が立ち上がり、当時の植民地国イギリスに対して日本軍と共に戦い、インドに駆逐して、長年の支配から脱出した。そして1943年8月には日本軍の支援の下、再びビルマ国が建国された。しかし、日本軍は、インド東部のインパールに駐屯していたイギリス軍との戦いに失敗し、1945年に敗退した。

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インドのインパールに近い西北部の町、タムの市場で川魚を売る女性

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市街地を托鉢する尼僧たち

 戦後、イギリスはビルマの独立を許さなかったが、日本軍の指導を受けていたアウンサンやネ・ウインらが中心に独立運動を続けた。イギリスからの独立の道筋をつけたアウンサン将軍は、1947年7月に暗殺された(その後建国の父となる)。ビルマミャンマー)は、その翌年の1948年1月に、ビルマ族を中心とする国軍によって、ビルマ連邦国として独立することが出来た。しかし、その後、カレン、シャン、カチン族など他の民族の叛乱や内乱、政変などがあった。しかし、宗主権を握っていた国軍が独立を守り続け、1989年6月に国名をミャンマーへと変更した。そして、スー・チーさんが率いる政党(NLD)が、昨年、2020年11月の選挙で大勝したのだが、国軍はそれを認めなかった。

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ザガインの丘の日本パコダ

 今日のミャンマー国軍は、戦前の日本軍の指導を受けて誕生したビルマ独立義勇軍が基盤になっていることもあって日本色が強く、保守的でもある。いずれにしても日本軍に親しみを持っていたビルマ族の人々は、今も対日感情が良い。

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1939~1945年における戦没者の共同墓地

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共同墓地の中

 ミャンマー北部を紹介するに当たり、まず北東部のタイとの国境の町、タチレイから始め、西北地方へと移動することとする。

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北東部の町、タチレイのタイからの入口

内蒙古からチベット7000キロの旅㊶ 旅の終わりに

 内蒙古からラサまでの西田さんの足跡をたどる、今回の探検旅行のコースからは外れるが、中国側の車がありよい機会なので、皆で話し合ってラサから500キロも西にある、ラマ教旧経派(赤帽派)の大本山があるサキャまで行くことにした。

 チベットは高山の連なる山岳地帯で、たとえ車でも、その旅は高地と悪路と厳しい自然環境によって難行苦行を強いられた。途中、標高5,000メートルの峠で貝の化石が層をなしたり散乱ているのを見て、ヒマラヤ山脈はやはり海底が隆起したことを具体的に知ることもできた。高い山また山の、上下差の激しいいろは坂の多い道を、ギャンゼとシガツェの寺町を経由し、何度も高い峠を越して、たどりついてみると、小さな寒村があるだけだった。

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中通りかかったヤルンザンボ川

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途中の小さな村

 日本の鎌倉時代と同じころ、蒙古族元朝政府の庇護を受けたチベットの中心地がサキャで300年間も栄えていた大きな寺院群があった。

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標高5,000メートルの峠

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標高5,000メートルの峠に貝の化石が散乱していた。

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峠に咲いていた花

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峠に咲いていた野菊のような花

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途中の峠のラツイのそばを通りかかった婦人

 標高4,300メートルの荒涼とした大地の川沿いにある寒村が、ダライ・ラマ政府以前に栄えていたとは信じられなかった。ただ、700年前に建造された、大きな高い土の壁に囲まれたサャ寺だけか 当時をかすかに忍ばせた。サキャ寺の壁画は見応えがあり、本堂の直径1メートル以上もある巨木の柱には、さすがと感嘆させられた。

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サキャ全景

 村に続く山の斜面には多くの寺院かあったそうだが、文革中にすべて破壊されてしまい、今は土塊と化している。よく見ると、斜面すべてが寺院の跡である。内蒙古の西南端の町アラシャン近くのオーラン山中にあった巨大なパロン廟の廃墟と同じように、文革の嵐によって何も残っていない。多くの寺院を失ったサキヤは、単なる寒村でしかない。

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サキャ寺の一部

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残っているサキャ寺

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破壊されたサキャ寺の一部

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サキャ寺の入口

 栄枯盛衰は世の常であるが、かつて一国の中心地であったとはとうてい思えない現状に、多民族国家である中華人民共和国に所属させられたチベットの歴史の、皮肉な一面を見せつけているようでもあった。この旅は、中国大陸西域のラマ教地帯を走り抜けたのだが、最終の地で一つの宗教文化の衰退してゆく姿を象徴的に見せつけられたような気がした。

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サキャの女性

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サキャ郊外の牧民の女性たちと筆者

 10月2日の夜、ラサとサキャ往復1,000キロもの旅を終えてラサに戻ってきた。今回の西域縦断6,000キロの探検旅行は、サキャ往復を入れて7,000キロの旅となったが、予定はほぼ終了した。

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サキャ郊外の農耕地(麦畑)での羊たち
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サキャ近くのヤルンザンボ川ととれた川魚

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川を渡る皮船を運ぶチベット人

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ヤルンザンボ川の魚

 10月6日、探検隊のすべての予定を無事終了し、10月8日に開催される日中共催の第8回「北京かち歩き大会」に共催者として参加するため、北京へ急ぐ私だけ一足先に四川省成都へ向かってラサを飛び立った。

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サキャ近くの峠のラツイのそばに立つ筆者

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ラサから北京に飛んで、中華全国青年連合会と共催した「第8回北京かち歩き大会」

中央筆者

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中共催のかち歩き大会に参加した日本人たちと、ゴールの"明の十三陵"での記念写真

  最後までご覧いただき、ありがとうございました。コロナのせいでどこにも行けない状態なので、来週からは、今、国軍がクーデターを起こして注目されているミヤンマーの北部を、写真と簡単な記事で紹介します。関心のある方は是非続けてご覧ください。

内蒙古からチベット7000キロの旅㊵ チベットの葬式”鳥葬”

 人間は自然の一部であり、生を受けた者の肉体には必ず死かある。しかし、チベット仏教では魂は屍を去り、永遠にこの世に存在し続ける。型のある肉体は必ず滅びて輪廻の自然界に組みこまれるが、魂は滅びることなく、転生して生き続けるものとされている。その肉体か自然に戻る葬送の儀式は、いかなる民族にもある。世界にはいろいろな葬式がある。土葬、水葬、風葬、火葬、鳥葬、獣葬。これらの一次葬のあと二次葬や三次葬をする民族もいる。いずれにしても、人間の知恵がなせる自然回帰への最善の方法なのである。しかし中には、いつまでも人間たらしめようとするミイラ葬もある。

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ラサの街頭で売られていたヤク

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街頭でヤクの解体をする牧民たち

 チベットでは死者を弔う葬送の儀式として貴族や金持ちは火葬とし、庶民は鳥葬で、罪人は水葬とする風習がある。チベットの岩山には木が生えていないので火葬はまれ。鳥に食わせる鳥葬はチベット独特の葬法で、死者の肉体はすべてをハゲワシに喰わせて天に還す。チベットの人びとは遺体を焼いたり、切り刻んで鳥に喰わせたり、川に流して魚に喰わせたりするが、凍土で土が少ないこともあって肉体の腐る土葬はしない。

 鳥葬をみる機会がやっと訪れ、9月26日の早朝7時にホテルを車で発った。また夜明け前で、暗くて見通しがきかなかった。

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鳥葬の場所はこのセラ寺の裏山の反対側の麓にある。

 

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セラ寺裏の岩に描かれた摩崖仏

 場所はラサ北方の郊外にあるセラ寺から岩山を1つ越した山裾にある。私たちはセラ寺の南を横切る道を通って7時20分頃着いた。

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セラ寺の厠の漢字とチベット文字

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女を意味するチベット文字

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セラ寺の装飾された柱

 ラサに続く大きな谷が南に向かって開け、川原には草も樹も生えていない。斜面が西に向いている山裾なので陽が当たるのは遅い。そこの大きな岩の上が、屍を切り刻んで鳥に喰わせる“鳥葬”の場所である。  

 人が亡くなり22日間の祈りがあったのち、4日目の早朝、トムテンと呼ばれる身分の低い鳥葬係のラマが4人やってきて遺体をかつき出し、鳥葬の場へ運ぶ。

 私たちは、鳥葬台の岩から100メートルほど離れた川原の堤に車を止め、秘かにみた。7時半に夜が明けた。夜明け後まもなく、数人が遺体の布を取り去り、岩から下りた。

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遠くから見た死体解体場所

 7時35分、大きな岩の突端近くに、黄色の法衣のラマ僧2人、赤色の法衣のラマ僧2人が座り、白い煙を勢いよく舞い上げる香を焚いて、お祈りをはじめた。

 僧が手にしたデンデン太鼓がドン・ドン・ドンと鳴る。死んだ人の大腿骨で作るといわれている人骨笛がプープー、プププーと激しく吹かれ、チンチンチン、チンチンチンと澄んだ鐘の音がリズミカルに響く。周囲には煙が漂い、4人のラマ僧が、低いがよく響く声で、次々と経を読みつづける。

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より近くから見たか解体場所

 7時42分、上空に、チベット語で“コイ”と呼ばれるハゲワシが2羽、大きな羽根をひろげ、ゆったりと舞いはじめた。やがて3羽になり、4、5羽と多くなった。

 8時、ラマ僧の吹く笛や太鼓、鐘の音がいっそう大きく、万物の目覚めを促すように響く。岩の上で焚かれた香の煙はすでになく、上空にはハゲワシが8羽舞っている。

 8時11分、1人の男が、大きな石を持ち上げ、「ウォー」という大きな声を発して岩の上に叩きつけた。

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解体場所の大きな岩

 仏教に「引導を渡す」という言葉があるが、それは、菩薩が衆生の苦海にあるのを救い出して、常楽彼岸、すなわち涅槃に渡らせるための儀式として、最後の意を宣告して諦めさせることであるが、大声を発して頭蓋骨を砕いたのは、死者に引導を渡す行為であった。

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解体場所の岩の上、解体道具と穴は骨を砕く場所

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解体する岩の下の大地に投げ捨てられた衣類が散乱

 8時20分、「ティワー、ティワー、ティワー、ティワー」と、大きな叫び声が山の方にむかって発せられた。すると、この叫び声に呼び寄せられるように、20数羽が岩の近くに降りて来た。

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上から見下ろした解体場所

 8時30分、再び「ティワー、ティワー」と大きな声が発せられると、鳥たちは無言で、長さ2メートルもある長い翼をひろげ、ぴょんぴょん跳ねるように大地を歩き、岩のすぐ下にやってきて、投げられた肉片を奪い合って喰った。中には肉を嘴でくわえて引っ張りあう鳥もいる。

 「ティワー、ティワー、ティワー、ティワー」

 不思議な叫び声に呼びよせられるようにどんどん近づいてきた鳥たちに、肉が投げ与えられる。やがて1羽、2羽と岩の上に上がって肉を喰う。投げ与えられるたびに2、30羽の大きなハゲワシが、泣き声も立てず、大きな身体をぶっつけあうようにして、奪いあって喰う。まるで鶏が飼い主に餌を与えられているようである。

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解体場所を通るチベット人

 解体をはじめてから1時間もしないうちに、1つの屍はハゲワシたちの胃袋におさまった。そして鳥たちは、何ごともなかったかのように、大空高く舞い上がって行った。

 私たちは、近くで見ることは許されなかったが、鳥葬が終わって誰もいなくなってから現場に行き、大きな岩の上に上がって見た。

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解体場所の岩のそばに立つ筆者

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内蒙古からチベット7000キロの旅㊴ ラサのチョカン寺

 インド亜大陸ユーラシア大陸がぶつかって隆起したのがヒマラヤ山脈である。その北側にある世界一高いといわれるチベット高原のほほ中央に位置するのかラサ。チベット自冶区の面積は130万平方キロメートルもあり、日本の3倍以上もあるが、人口はわずか180万である。そのうちの約20万人がラサに住んでいる。ラサは近年急速に人口が増加したが、半数はチベット解放の名のもとに移住してきた漢民族である。

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ポタラ宮から見たラサの中心街とチョカン寺

 ラサは高原の町で、年間の日照時間が3千時間余もあることから「太陽の町」ともいわれる。チベット高原では最も肥沃な谷を流れるラサ川沿いにある。周囲は岩山で、一見盆地のようであるが、豊かな谷間で、チベット一の穀倉地帯でもある。ラサ川チベット語では「ギイチュ」と呼はれ、「幸せの川」という意味である。

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ラサ中心の広場に面したチョカン寺

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チョカン寺の入口

 チベットの山々は一般的に低く見えるが、いずれも標高が4,500メートル以上はあり、気温の低さと乾燥で、木が生えることなく岩肌をむきだしている。なにより山に木が生えていないので緑か少なく、ぬくもりがない。

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チョカン寺前の広場にある香塔と香を投げ入れる婦人

 しかしラサ谷の平地には、草も樹も生えており、人もたくさん住んでいる。高地の岩山のあいだに、信しられないような桃源郷、ラサがある。ラマ教徒にとっては、やはり神の鎮座する聖地である。

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チョカン寺に向かって礼拝する人々

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チョカン寺の入口で五体投地礼をする婦人たち

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全身を大地に投げ出すチベット特有の五体投地

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チョカン寺入口での礼拝

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チョカン寺入口の仏画

 9月22日、ラサの中心地、八角街のチョカン寺を訪れた。寺の敷地か八角形で それを取りまく道も八角形なので八角街と呼はれる。旧市街はこの八角街を中心に広がっている。

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チョカン寺の中の壁画

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観音菩薩の壁画

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チョカン寺中での若いラマ(僧)たち

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チョカン寺の中庭

 チョカン寺はラマ教黄帽派大本山で、巡礼者か絶えない。八角街の広場に面した入口の石畳は、いつも多くの信者か五体投地礼をするので、すり減って窪みができている。そこを通って中に入ると、庭の向こうに大きな本堂があった。その周囲の回廊には、マニロンと呼ばれる回転経が壁にいくつも嵌め込まれており、人びとが列をなして回しながら歩いている。大蔵経の経文が内蔵されているという回転経を一度回すと、何百回もお経を唱えたと同じご利益があるという。回転経のカラカラ回る音と口の中でぶつぶつ唱える声が入り混じって、ラマ教寺院ならではの雰囲気がある。

 本堂の中に入ると、薄暗い中に小さな灯明か無数に並んでいた。灯明の油は、ヤクの乳からつくる「マ」と呼はれるバターである。

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チョカン寺の屋根

 明り取りの窓から陽かさし、中央の大きな釈迦牟尼像か輝いて見える。人びとはその前に押しあって進み 灯明の皿にマを注ぎ足し、両手を合わせ額にあてて、「オン、マニ、ペメ、ホーン」と熱心に祈る。

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チョカン寺の金色に輝く屋根

 ラマ教徒はたいへん信心深い。といっても、他人のために祈るのではなく、己自身の功徳を積むために祈るのである。より多くの功徳を積めは死後に極楽へ行くことかでき、来世も再びに人間に生まれかわるか、さもないと獣や昆虫に生まれかわると信じているからである。巡礼者にとっては、チョカン寺を訪れることか功徳を積むことである。ましてや本尊にでも触れて祈ることかできたならば、功徳はまちがいなしである。

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チョカン寺本堂の屋根

 仏教とは悟りを開いた人の教えだといわれている。その仏教はこの世を苦界としている。現世の4つの苦しみとは、①必ず生まれかわる、②必ず年をとる、③必ず病にかかる、④必ず死ぬことである。人間は何世代も死んでは生まれかわる輪廻転生をくり返し、業を重ねてきたが、それから解脱するために巡礼をするのだともいわれている。輪廻転生から解脱して悟りを開いた人はもう転生することなく、自由になって極楽に住むことができると教えている。

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チョカン寺の屋上から見たポタラ宮

 祈ることによって救われるものなら、素直に祈った方がよい。信じよう。疑う心を釈迦牟尼にあずけて、文明の檻に閉じこもってきた不安を葬り、「オン、マニ、ペメ、ホーン」と唱える素直な心に光を与えよう。

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チョカン寺の中にある回転経(マニロン)

 長いあいだ堂内の仏の世界にいると、信じる人びとの霊魂のうずに巻き込まれた。一心に祈る姿は美しくもあり、力強くもあった。その表情には生命力の強さすら感じられた。

 宗教は人がつくり、神や仏は心の中にもあるのだが、大きなチョカン寺には神も仏もいる。科学的には知り得ない、不合理な世界であるが、自然と共に生きるには、科学に勝るとも劣らない力である。

内蒙古からチベット7000キロの旅㊳ 威風堂々のポタラ宮

ラサ郊外に入ると、急に自転車が多くなった。これまであまり見かけなかった車も目についた。自転車がたいへんな文明的な乗り物で、町に近づいた雰囲気があった。

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ラサに向かうバス

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ラサ近くの道から見える摩崖仏

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川面に映るポタラ宮

 「あっ!ポタラ宮だ!」

 おとぎの国の建物のような、遠くに見えるポタラ宮に思わず叫んだ。ラサの象徴であり顔でもあるポタラ宮が、楊樹や楊柳の並木越しに見えた。青空にそびえ立つポタラ宮は絵のように美しく、立派な建物である。近づけは近づくほど威風堂々としており、赤褐色と白色を中心とした建物は、上空に向かって飛び立つ鳳凰のようでもある。

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ポタラ宮

 ”ポタラ”とは、華厳経の中に観音菩薩が住む山として出てくる「補陀落」のことであり、そこに住むダライ・ラマを観音の化身と考えてつけられた名称だと言われている。ポタラ宮最初の建物は、チベット仏教によってチベットを最初に統一したソンツウエン王(紀元569頃~650年頃)が、7世紀に作ったとされているが、その後、内乱や災害によって一部を残して崩れ、大半が17世紀になってダライ・ラマ五世によって今日のような姿に再建されたものと言われている。

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ポタラ宮の入口

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池の水面に映るポタラ宮

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要塞として頑強に作られたポタラ宮

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要塞としてのポタラ宮

 自然の岩山の上に造営されたポタラ宮は、600とも1,000ともいわれる大小の部屋がある。これはチベット最大の建物で、13層からなり、高さ117メートルもある壮麗な城塞である。しかし現在の第14世ダライ・ラマは、1965年以来インドへ亡命中なので、ポタラ宮に王、主はいない。

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ラサ川にかかる橋

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経文を描いたターチヨを両側につるした橋

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ラサ川にかかる安全祈願のターチョをつるした橋

 ラサという地名は「神のいる所」という意味だが、もともとのチベット語では「サッサ」と呼ばれていたそうだ。”サッ」神、「サ」は所。所が漢民族の発音で「サッ」が「ラ」に変化し「ラサ」と呼ばれるようになり、いつの間にかチベット人たちもラサと呼ぶようになったのだそうだ。

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市内を流れるラサ川で洗濯するラサの人々

 内蒙古から約40日、6,000キロに及ぶ距離を、事故もなく、無事にラサにつくことができた。ポタラ宮の下に立って見上げると、威風堂々の建物に、さすがチベットの都ラサなのだと実感し、やっと着いたという安心感と解放感に、胸の熱くなる感動を覚えた。

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ラサの医学校と街を歩く若い女

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ラサの街を歩いていた子供を背負う婦人

 ラサについて、ますポタラ宮の大きさに驚かされたか、次には超近代的な拉薩飯店、すなわちラサ・ホテルにも驚かされた。富士山頂とほぼ同じ高さにある神秘的なラサに、こんな立派なホテルがあるとは思ってもいなかった。

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街頭で売られていた水屋(戸棚)

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家の窓辺に置かれた鉢植えの花

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街頭でお茶を沸かす男性

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ラサホテルのチベット人従業員と筆者

 ラサ・ホテルは1985年に建設されたアメリカ系のホテルで、すべてアメリカ式に経営され、英語が話されていた。宿泊可能人数は800人というから大きい。日本やアメリカの高級ホテルにも劣らない5階建ての白亜の殿堂が、広い敷地にゆったり建てられている。

 ラサ・ホテルに着いたのは9月21日の午後2時で、遅い昼食をした。    

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ポタラ宮の中での筆者



内蒙古からチベット7000キロの旅㊲ 神がいる谷、ラサへ

 昨夜は羊八鎮の軍の招待所に泊った。今朝は6時ごろからみぞれが降りはじめ、8時ごろから雪になった。またもや北から雪を連れてきたようである。

 いよいよ今日9月21日はラサにつく日だと意気込んでいたが、雪が激しく降るので、道沿いの漢族食堂でゆっくり朝食をした。なかなか降りやまず、午前10時になって雪の中を出発した。

 標高4,100メートルの羊八鎮から東に向かって谷底の道が急に下っていた。道沿いに流れる川も急流。両側にそびえる岩山は急斜面で、狭い谷の上の方は雪雲がかかって何も見えない。標高3,900メートルまで下ると、山麓にポツリ、ポツリと土の家がある。山麓のわずかな平地を耕して青裸麦(チンコウムギ)を栽培している半農半牧のチベット人の居住地域である。

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エンドウ豆と青裸麦を刈り上げるチベットの婦人

 1時間もして、標高3,850メートルまで下ると、木で作られた家のそばや川沿いに楊樹が生えていた。久しぶりに見る樹木である。やはり緑は安らぎの色だ。たいへん新鮮で、活気のある雰囲気を漂わせている。

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エンドウ豆刈り上げの共同作業をする村人の休息所

 谷は徐々に広くなり、農業地帯となった。道沿いの畑にはまだ黄金色の麦がある。なんとなく日本的な風景でもある。すでに雪から雨になっていたが、麦やエンドウ豆の収穫期なので、多くの人が畑で働いていた。農耕地が多くなると、家畜はヤクが少なくなり、牛が見られるようになった。

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チベット族の村の子供

 白い壁の家が多くなり、土の家の屋上には赤、青、白、黄、緑の五色の小さな布をつけた木の枝が何本も突き剌してある。その布は経文が印刷された魔除けなのである。チベットではこの布を「ターチョ」と呼んでいる。

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ターチョを立てたチベット族の家

 標高3,760メートルまで下ると、谷間はさらに広くなり、川の流れもゆるやかで、用水路か設けられていた。すでに雨は上がり、青空が見られた。

 道沿いでたき火をし、食事をしていた3人の青年がいた。車を止めで立ち寄ると、彼らはなんと、青海省の南部にある王樹の町を3ヵ月前に出発し、ヤク47頭を連れてここまで来たのであった。兄弟と寺の労務僧の3人で、ナクチューを経て、1日に15キロくらい進んだというから、1,300キロ余りも歩いたことになる。

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青海省からヤクを連れてきた兄弟

 「今日中にはラサにつくよ」

 彼らは嬉しげに笑った。彼らによると、王樹ではヤク1頭が3、400元でしか売れないがラサでは1,000~1,500元で売れるそうである。

 3,700メートルまで下ると、晴れ間が多くなり、空気が暖かく感じられ、まるで標高1,000メートルくらいにしか感じられない。それでもまだ富士山とほぼ同じ高さである。

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ラサに向う道を行くロバ車

 川の水は灰緑色で、白い波しぶきを立てて流れている。この川はやがてラサ川に合流し、そしてヤルツァンボ河に合流し、ヒマラヤ山脈の東端を回ってインドのアッサムを流れるブラマプトラ川となって、はるか遠くのインド洋に流れ出ている。

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ラサ近くの道沿いで休息するヤクや牛を追う牧童

 空か明るくなり、道沿いには農耕地が続き、楊樹が多く、これまでとは異なった緑の谷になった。チベットの農作物は、青裸麦、エンドウ豆 天豆、菜種、しやかいもなどで、いずれも今が収穫期である。

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ラサ近くの農民夫妻

 チベット人の多くは、山麓や高原の草をはむヤクや羊なとの家畜とともに生活する牧畜民であると同時に、平地を利用して麦やじゃがいもを栽培する農耕民でもある。ラサに近づくと完全な農業地帯で、富士山より高い高地とは思えない豊かな表情を見せていた。