内蒙古からチベット7000キロの旅㊱ ナクチューから羊八鎮へ

 ナクチューを出発するとすぐに、漢名で“怒江”と呼ばれるナクチュー川があった。この川ははるか南のミャンマービルマ)のモルメンまで続くサルウィン川の上流である。

 道は西南の方向へ続いていた。高い山のない大地は、全体的になだらかな平原である。北チベット高原は、標高4,400メートルくらいで、ゆるやかな起伏のある平原になっており、ところどころに小さな湖がある。樹一本生えていないが、草は生えている。

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ヤクを追っていたチベット族の青年

 ナクチューから60キロくらい走ると、道の左右に冠雪した山々があった。大地から7、800メートルの高さだが、標高は5,000メートルを越している。車が走っていると、西の山麓から霰のような雪が勢いよく降ってくるのか見えた。雨と同じように、天と地のあいだを無数の白糸で結んで、灰白色の布をたらしたような光景は、凄まじく、どんどん近づいてくる。運転手の張さんが、それを意識して、負けてはならじと、アクセルを踏みこみ、逃げるように車を走らせた。

 道から5、6キロ離れた両側に山が続いているが、その間に広がる平原には羊やヤク、馬などの家畜か多い。ところどころに牧民のテントが張られているが、住んでいる人は少ない。

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チベット族の家畜の放牧地

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標高4,400メートルの高地に住むチベット人

 ヤクの毛は黒いせいか、平原の中でよく目立つ。何千頭ものヤクかいると、大地が黒くなる。これはすべて家畜化されたヤクであるが、数百年も昔には、このへんには野生のヤクがたくさんいたという。それにしてもこれだけの数のヤクを、これまでには見たことがない。いつ道に飛び出してくるやもしれない不安が、しばらくの間続いた。

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ヤクを放牧するチベットの村

 サチューと呼ばれる川にかかる橋のたもとで、チベット人の村を訪れようとした。すると、子どもたちが、ウルトと呼はれるチベット特有の石投げ綱で遠くから石を投げ、卵大の石がブーンと鳴って近くに飛んできた。何か叫びながら石を投げるので、通訳のヤガレイさんにたずねた。

 「お前たち漢人は悪人だ!帰れ……」

 子どもたちは口ぐちにそう叫びながら、上手にウルトを回して石を投げつけてきた。

「俺は青海チベット人だ。漢人ではない」

 ヤガレイさんか大きな声で叫び返した。そして、私たちが日本人であることも伝えた。子ともたちは石を投げることをやめ、黒テントや土の家に入った。私たちは村に入って撮影したが、数軒あったどの家の中にも入ることはできなかった。無言の拒否にとまどいを感じた。解放という名のもとに漢民族が侵入したことによって、何かの被害を受け、敵対心が強く残っているのかもしれない。北京政府からすると解放なのかもしれないが、チベットの人びとからすると侵略のほか何ものでもないのである。それは、漢民族には理解し難い、チベット人の心の傷跡として、今も尾をひいている。そのことが、子ども心に石を投げる抵抗として、私たち外者(よそもの)にも向けられたのだろう。

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ヤクの放牧地にいたカラス

 ラツイのある峠から二キロほど下ると平原となり、道端に四角い台座に7,8メートルも高い円錐形の大きなチョルテン(仏塔)が八個並んでいた。近くに村は見えないが、この辺の牧民たちの聖地になっているようだ。さらに下ると、はるか遠くの両側に山のある平原かつづく。西側の山は高く険しく、冠雪しているが、東側の山はゆるやかで丸味があり、やや低い。道沿いの平原には家畜が多く黒テントもたくさん張ってあった。

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標高4,400メートルの高地にあるチョルテン

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八個並んだチョルテン

 午後7時ごろ、当雄(とうゆう)についた。標高4,130メートルで、解放軍という名の立派な宿舎があったが、さらに進むことにした。平原の中央を流れていた川が、当雄の下流で平原がなくなって狭い谷間を流れていた。北チベットの平原は、当雄か南端である。それから南は山か多く谷間の道を走り、羊八鎮(ヤンパーチン)に着いたのは9時すぎていた。

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経文の”オン、マニ、ペメ、ホン”と表記された石

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小型の仏塔

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内蒙古からチベット7000キロの旅㉟ アムドーからナクチューへ

 タンラの峠を越すとチベットに入り、道は徐々に下っていたが、周囲は灰褐色の荒涼とした大地で、寒々としている。やはり標高4,000メートル以上は、人間にとって好ましい自然環境ではない。月の表面のような、緑のない世界を眺めるのは、もう飽きて、何の感動もない。

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白く凍結している高原の川

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標高4,400メートルのナクチュー川

 峠から一気に下り、標高4,400メートルの町、アムドーに着いたのは午後4時を少し回っていた。また昼食をとっていなかったので、道沿いの小さな漢族食堂に入った。が、疲労と高地のせいで食欲はなかった。

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アムドーの街

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アムドーの自由市場

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アムドーのチベット婦人

 食事後、自由市場の立つ街頭を撮影していると、急に風が吹き、小豆大から小指くらいの雹が降ってきた。安物の衣類や雑貨、ズックくつ、野菜などを売っている市場の人びとはたいして慌てることなく露店をたたみ、軒下に入った。

 今夜は、ナクチュー川沿いのこの町に泊る予定であったが、中国側の要望で135キロ南の町、ナクチューまで行くことになった。出発前に用足しをと、便所をさがしたがなかった。空地でするのも気がひけるので橋の下へ行った。何のことはない、橋の下が大きい方の場所で、その跡が一面に残っていた。この町のふつうの家には便所がないのである。

 午後6時近くになってアムドーを出発した。しはらくアムドー平原を走った。羊、ヤク 馬などがいたが、なんといってもヤクか最も多かった。チベットではヤクが最も重要な家畜で、荷を運んだり耕作するほかに、乳や肉は食用となり、毛は糸に縒ってテントやじゅうたんに織られ、骨は道具、糞は燃利に用いられるので、日常生活と切り離すことはできない。

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ヤクや羊の放牧

 やがて太陽が落ち、暮れなずむ大地に羊やヤクなどの家畜を追って家路につく牧民の姿が見られた。暗くなって、外か見えなくなると、急に疲労と寒さに襲われた。昨日から歩いての山越えはきつく、全身の力が抜け落ちてゆくように感じられ、いつしか寝こんでしまった。

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ナクチューの町

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ナクチュー

 午後9時半、北チベットで一番大きな町、ナクチューについた。人口3万人の町は大都会である。まだ開いていた食堂で夕食をし、ナクチュー招待所に泊った。

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ナクチューの招待所

 中国大陸の奥地を1ヵ月以上も旅しているが、大きな町には、外見の立派な招待所や賓館がある。しかし、中身がよくなかった。いくら見かけを良くしても、施設を管理する人の能力や資質か悪ければ、十分な機能を発揮させることはできない。このナクチュー招待所も大きくて立派なのだが、お湯どころか水も出なかった。熱い風呂の期待もむなしく 疲労と寒さに、膝小僧を抱いてわびしく寝入った。

内蒙古からチベット7000キロの旅㉞ 魔の峠に向かって登る

 翌9月18日朝、山々は白く、一夜で雪化粧となった。11時ごろ、標高4,800メートルのテーラマズの村についた。ここから標高5,321メートルもある、タンラ(チベット語のラは峠の意味)と呼がれる峠を、西川さんと同じように歩いて越すのである。

 私は、アフリカのキリマンジャロを登頂したことがあり、ヒマラヤ南麓の標高4,500メートルに住むシェセルパー族を踏査したこともあり、日本山岳会の会員でもあるので、比較的高地には耐えられるが、普通の日本人にとっては大変厳しい高さだ。

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テーラマズの村

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テーラマズの羊飼い

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羊を追う牧童

 タンラの峠は、昔から、蒙古や青海地方からチベットのラサへ向かう、巡礼者や隊商にとってたいへん危険な高所で、「魔の峠」として恐れられていた。通行人の多くが高山病で死んだといわれている。私はこれまで高地に順応させてきた身体で、西川さんと同じようにヤクを追って、その峠に歩いて登るのである。

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旧式の鉄砲を持つ牧童

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鉄砲を構えて見せる牧童

 ヤク20頭に必要な荷物をつけ、正午に出発した。同行者はアルーさん(42歳)とノスンさん(35歳)夫婦に子ども2人。それに協力者としてソノンタチ君(18歳)とケフシャン君(18歳)である。出発の時だけ撮影し、日本人は誰も同行しない。

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雪原につながれたヤク

 現地生まれの彼らは、高地の山坂をヤクを追って歩くのが早い。ついて行くのがやっとである。アルーさんの長男のツェンリンキ君(7歳)は ヤクの鼻緒についた綱を手に 急な坂道を登る。長女のポルボンツモちゃん(5歳)は、母親に手をひかれて登る。

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雪に埋もれたヤクの死骸

 木の生えていない山肌にこけのような草か生えているが、昨夕の雪が溶けて、大地はやわらかく、ぬかるみのようなところもある。すべりやすく、足をすくわれて歩きにくい。道などない山肌を滑りながら歩く。

 午後2時から10分間、小さな尾根で休む。吐く息が白く、5分も休むと寒くなった。休んでいると寒くなるので、足もとを選びなから歩く。彼らは足もとなど気にすることなく、前を見てとんとん歩く。標高4,900メートルの山坂を登っているのに、平地を歩いていると同じようである。上がるに従って雪がひどくなり、前がよく見えない。道のない山肌を、ヤクを追う彼らに従ってただ歩くだけ。

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ヤクの乾いた糞を燃やすテントの中のアルーさん

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テントの中でのアルーさん一家

 午後5時、標高5,000メートルの谷川近くについた。ヤクの背に乗せて運んだコルトと呼ばれる、白い布の簡易テントは、4人で20分もしないうちに張り終わった。テントの中ではノスンさんが、チュマと呼ばれるヤクの乾いた糞をふいごを使って燃やし、やかんを五徳にかけて湯を沸かした。テントの中は急に暖かくなり、ぬれた衣服やズック靴から湯気か立った。外は冷気に身か凍る。 

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標高5,000メートルに張られたテント

 テントの中てお茶を飲む。チョーと呼はれるチベットパンとノルヒヤーという羊肉の水煮の冷たいものをナイフで切って食へる。1番ありがたいのは熱いお茶。寒さと疲労と高山病の一種である頭痛に悩まされつつ 笑顔で彼らを見る。言葉はよく通じないが、共通のことをしているので、ただ笑って見合うだけで通じあえる。

 近くに張った自分のテントに入って、7時すぎに横になった。しかし疲労と寒さと頭痛で寝つかれず、寝袋の中てじっとしていた。やがて稲光があり、雪か降り、風か強く、テントがゆれた。夜中には零下15度になった。

 9月19日の朝9時すぎにアルーさんのところに行くと、テントの前に白い物かいくつもあった。よく見ると 昨夕遅く、1本のロープにつながれたヤクたちであった。夜通しの雪で、大地に伏したまま雪に埋まったのである。

 お茶とパンの朝食後、ヤクの背に荷物を載せて出発した。霰(あられ)のような雪が顔に降りかかる。風もやや強い。昨日の疲れがまだ残っており、足や腰の筋肉か痛む。

 今朝、アルーさんが冬用の重いチベット服を貸してくれた。表は布で、裏は羊毛がついた服は暖かいが、付着した雪か溶け、布か水をすっていっそう重くなった。

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標高5,321メートルにあるタンラ(峠)のラツイ

 1時間もすると足腰が痛み、頭痛や息切れがする。撮影用のスタッフは、誰もついていない。日本人は私だけ。何度も辞めようと思った。しかし、より高い峠にむかって、重い荷を背負って登りつづけるような苦しみが、「同行2人」の母への弔いになるような思いにかられ、吹雪の中を登りつづけた。そして標高5,321メートルの峠にあるラツィ(オボ)を雪の中に見た。凍傷になるような痛みを顔に感じつつ、最後の力をふり絞り、息を弾ませなから、母に追いすがる子どものように足を早め、やっとのことで峠に立つことができた。

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タンラのラツイ

 「やった!万歳!」

思わず両手を上げて、万歳を叫んでいるうちに、胸が熱くなり、涙があふれた。蒙古からチベットヘの旅で、西川さん同様に最難関の峠を自分の足で突破することができた実感がこみあげ、アルーさんたちの手を握った。

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このラツイを右回りに三周した

 石を高く積み上げたラツイを、アルーさんたちと3回右に回って、無事に到着できたお礼と安全祈願をした。そしてラツイに菓子と即席ラーメンを供え、新盆に帰らなかった罪ほろぼしのような気持ちで、母への供養をした。

 案内してくれたアルーさんたちは、ここからテーラマズ村へ引き返したが、私は迎えに来た車で、タンラの峠からさらに南へ向った。タン峠を越すと、もうチベット自治区であった。

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タンラ峠に無事たどり着いた直後の筆者

内蒙古からチベット7000キロの旅㉝ 死の川でヤクを追って

 翌16日の朝、雪山賓館を出て、リチューと呼ばれる川沿いの道路工事事務所についたのは、午前11時すぎだった。

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標高4,500メートルにあった雪山賓館 中はベッドがあるだけ

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雪山賓館があった陀陀河近くの村

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村の中を走るラサへの道

 蒙古高原やチベット、青海高原では、川で泳ぐ者はいない。水の冷たい川に入ることは死を意味するのである。標高4,400メートルの高地にあるリチューの自然状況は、正午の気温摂氏14度、水温摂氏8度、風速10メートル、水の流れ秒速1メートル、川幅約50メートル、水深1メートル、水の色は灰緑色、上空には雲が多い。温かみのない寒々とした荒野。

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リチュー川沿いの道路工事事務所とヤクの隊商

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私が追いかけたヤクの隊商が遠くからやってくる

 私は、撮影のため、このリチュー川で西川さんがヤクを追って泳いだ追体験として、同じように水泳パンツ一枚になってヤクを追って泳いだ。2分も水中にいられなかった。とにかく水が凍りつくように冷たかった。水から出て間もなく、空気も冷たいので全身か硬直しはじめ、筋肉が棒のようになり、歯がカチカチ鳴って震えた。こんな経験は初めてだし、どうすれば良いのかわからない。身体が段々硬直して関節が自由に動かせない。まるでロボットのような動きになって、徐々に感覚がなくなったが、スタッフは撮影で私の側には誰もいない。とにかく身体を温めなければと思い、硬直した体をロボットのように動かして、やっとのこと、近くに駐車していた車の中に入ることができた。

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荷物を背にしたヤクと隊商のチベット人

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隊商のリーダー格のチベット人

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私が追いかけて川に入った隊商のヤクたちの休息

 暖房を強くした車の中で手足を動かしているうちに、筋肉のひきつりは10分ほどで徐々に冶って、衣服に包まれてしはらくすると暖かくなってきた。スタッフは私のこのような死にかけた状態をだれも気付いていなかったし、説明もしなかった。やはり、衣服はありかたい。何より車の中での暖房がなければ、私は死んでいただろう。

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ヤクを追って冷たい水に入ったリチュー川

 その夜は雁石坪(がんせきへい)の招待所で1泊し、標高4600メートルの温泉についたのは、17日の午後1時を回っていた。温泉とはすばらしい地名だが、木一本生えていない荒涼とした大地に、軍の施設があるだけ。雪が舞い、外では寒くてどうにもならず 軍の食堂に入れてもらってラーメンの昼食。温泉などないのに、漢字の名称”温泉”とはけしからん地名だ。

 私たちは、温泉から少し下った旧唐古拉山兵舎(たんぐらさん)に一泊した。夕方から雪が降り、山は真っ白になった。

 

内蒙古からチベット7000キロの旅 ㉜高山病になる

 9月15日、北麓川沿いを午前10時半に出発してタンブリウラ山脈を上った。岩が赤く、全体が赤っぽい山である。谷間には清流があり、真水だった。川沿いにチベット式の黒テントが8張りあった。

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タンブリウラ山脈の中の道を南に向かう

 標高4,700メートルの地点で車を止めて撮影していると、風邪気味で、体調が悪かった運転手の張さんが、運転席で突然体を震わせ、顔色が青くなった。軽い高山病だろうということで、何度も深呼吸させたら、少しおさまったが、数分もしないうちに、今度はせきこむように泣いた。連絡官の欒女史や通訳の池上さんたちが、指圧やマッサージーをした。約1時間くらいで落ち着き、中国製のポットから熱いお茶を注いで飲み、ゆっくりと進みはじめた。

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風火山の峠の標識と名称碑

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標高5,000メートル以上の高地におけるヤクの群れ

 さらに山道を登ると、「風火山口、海抜5,010メートル」の標識があった。漢語の山口とは峠の意味である。この峠をチベット語で「ラツーラ(角峠)」と呼ぶ。青蔵公路が開通する以前には、このへんにたくさんの野生ヤクがいたからである。今は1頭もいないが、この峠よりもさらに300メートルも高い斜面に、羊の群がいた。羊は5,300メートルの高さまでは棲息することができるそうだ。残念なことに、私はすでに軽い高山病で、頭痛はするし、鼻腔はカサカサ、唇はひりひり痛み、気分がよくない。それに注意力が散漫で、ややいらだちが感じられる。1分でも早く、もっと低地に下りたいのだが……。

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標高5,000メートルの羊とヤクの群れ

 峠を下って平地になった。といっても、まだ4,500メートルもある。しかし、わずか500メートル下っただけで、少し楽になった。

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標高4,500メートルでの羊の群れ

 周囲に見えるのは緑色のない大地と岩山ばかり。そんな時、張さんが元気になったのか、運転しながらカセットテープをセットし、日本の歌を流した。先ほどのお礼のつもりなのか、お互いに親しくなったのか、初めてのことだった。

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標高4,500メートルの岩山

 “だれかさんが、だれかさんが、だれかさんが見つけた。小さい秋、小さい秋、小さい秋見つけた。目隠し鬼さん、手のなる方へ、すましたお耳にかすかにしみた。呼んでる口笛もずの声、小さい秋、小さい秋、小さい秋見つけた”

 めくりくる日本の自然を、今さらのように感じつつ、『小さい秋見つけた』を口ずさみながら、まるで乳呑み児が母乳を飲むように聞きいり、日本の秋が走馬燈のように脳裏を駆けた。次には『浜千鳥』が流れた。

 “青い月夜の浜辺には 親を探して泣く鳥か 波の国から生まれでる、濡れた翼の銀の色”

 幼い頃によく遊んだ故郷の浜へ引き戻された。波打ちぎわには母がいた。その母は、一言の挨拶もなく、何も告げず、まったく突然に、浜千鳥のように飛び立って冥土へ行ってしまった。すでに渡し賃六文払って三途の川を渡り、今頃はどこまで行っているのだろう。

 まるで賽の河原のような荒野で聴く童謡や叙情歌は、睡眠不足と疲労のせいか、また高山病のせいか、やけに感傷的な気分にさせられ、熱い思いが鼻先に突き上がり、無味乾燥の高地かうるんで見えた。

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陀陀河大橋の標識

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長江源流第一の橋(陀陀河大橋)

 遅い昼食をとり、木1本としてない大地を走り続けた。暫く走り、陀陀河(トトホ)についた。1976年に、揚子江(長江)の源流であると分かったこの河に橋があった。この橋の袂に「長江源流第一橋」と記されていた。揚子江は、この近くのククシリ山を源流として、東にむかって流れ、東シナ海まで6,300キロの旅を続けている。

 

内蒙古からチベット7000キロの旅㉛ 赤い川と塩湖

 9月14日の朝、不凍泉を出ると、道は南西へむかった。やがてチュマル平原に出た。北には崑崙山脈が東西に続き、南には崑崙山脈の支脈であるククシリ山脈がある。道沿いには、チルーが草をはみ、小さな穴から草ねずみか顔を出している。このねずみを狙うチョウゲンボーか電柱に止まっている。

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高原に棲む草ネズミ

 このあたりは野生の口バの棲息地だそうだが、遠くにそれらしき姿を見かけただけだった。南北を白い連山にはさまれたチュマル平原は広い。わずかだが草も生えているし、水もあり、無人地帯であり、いろいろな動物か棲む。かつては野生動物の天国であったそうだが、青蔵公路の開通によって、軍隊と商人たちが、ここの野生動物を狩りつくし、一時は絶滅しかけるほどであったという。

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遠くに見える冠雪の山はククシリ山脈

 午後1時ごろ、チュマル川という赤い水の流れる川について、パンとインスタントラーメンの昼食をした。チュマル川の赤い水を口にふくんでみた。泥くさいか真水である。しかし血のように赤いので、あまり気持ちのよいものではない。チベット語で「チュ」は水、「マル」は赤色のことである。

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チュマル川

 ククシリ山脈を源流とするチュマル川は西からやや北東へ流れている。川の上流には丘のような山があるたけたが、下流の方には真っ白い崑崙山脈が見える。赤い水か白い連山に続いている光景は、美しいというより、不思議な自然現象で、驚かされる。

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チュマル平原と崑崙山脈

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赤い水が流れるチュマル川

 チュマル平原の名はこの川に由来しているのだか、川は平原を過ぎて東へと流れ、やがて通天河に流れこむ。そして、長江(揚子江)となって中国大陸を横断し、ついに東シナ海に流れ出る。しかし、ここから海までは、なんと6,300キロメートルもの長旅である。

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チュマル平原の川

 ククシリ山脈の中に五道梁という村があった。この辺は、冬期には強い吹雪になり、よく人が遭難するそうで、たいへん厳しい自然環境だそうである。

 ククシリ山脈を越すと、ククシリ平原に出た。ククシリというチベット語は「緑の平原」の意味。ククシリ平原には赤い土と砂丘があり、水の赤い小川も流れている。チュマル川の水の色は、この平原の赤土か流れ出たものだろう。この平原の南にはタンブリウラ山脈がある。

 9月14日の午後4時すぎ、南のタンブリウラ山脈を越さずに、北蔵河沿いの水のきれいな湖畔にテントを張った。周囲に樹は1本も生えていないが、草は生えている。

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丘の盛り土の上に立つタルバガン

 テントから100メートルほど離れた丘の上に、ヒマラヤマーモットともいわれるダルバガンの巣穴があった。盛り土をして、直径40センチほどの穴を斜めに掘っている。タルバガンとは蒙古語で、げっ歯目リス科の動物である。体長は25~35センチで太く、四肢は小さく、毛は淡褐色。タルバガンはときどき土の上に後足で立つ。そして短い前足を手のように胸において周囲をみながら、肩をいからせてギョギョと鳴く。タヌキぐらいの体を背伸びし、頭を上下させなからギョギョギョと鳴くこともある。その仕草が滑稽で、しはらく観察した。大自然に生きる動物にしては警戒心か強く、50メートル以上近づくと、穴の中に入ってしまう。

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ククシリ平原を南に向かう道

 午後5時ころから夕食の準備にかかった。ところが米をといでいる時に気づいたのだが、この湖の水か塩水であった。炊事用の真水を探したが、このへんの水はすへて塩水であった。なんと車で1時間半も要してククシノリ山中まで行き、やっと真水を求めることかできた。こんな内陸の、しかも標高4,400メートルもある高地の水か塩水であるというのには驚かされた。この青蔵高原は、はるかなる太古に海底か隆起してできたといわれている。その証拠がこうした塩水湖だともいえるのである。

 この標高4,400メートルの高地が、かつて海底であったとは、なんとも不思議な地球の歴史を感じる。

内蒙古からチベット7000キロの旅㉚ 崑崙山を越えて

 小雨降るゴルム市を9月12日午前11時に出発し、南へむかった。道は上りになっており、やがて氷雨になった。午後1時すぎには雪になった。標高3,180メートルの地点で、東から西へ流れる赤褐色のシキンゴール川と、西から東へ流れる灰緑色のナイジゴール(崑崙)川が合流し、ゴルム川となっていた。川幅15メートルほどの川は、ツァイダム盆地に流れ込んで消える。

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二つの川が合流したゴルム川

 道はさらに上る。すでに山は白く薄化粧である。時にあられがフロントガラスに音高く降りつける。車は上り坂を時速40キロくらいで走る。標高3,920メートル、富士山よりも高い谷間の雪の中に、羊を追う牧民がいた。この近くに軍の給油所かあり、何台ものトラックが停まっていた。

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雪で白く薄化粧した山

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富士山より高い高地で暮らすチベット族

 標高4,000メートルの高地では粉雪か浮遊して空気が霞み、幻想の世界のようだ。その中を、軍のトラックが4~50台もチベットの方から下りてきた。

 午後4時30分、標高4,767メートルの崑崙峠についた。富士山より1,000メートルも高い。途中は吹雪いていたが、峠は晴れていた。周囲には冠雪の白い山々か連なり、冷たい風が肌を刺す。

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雪の降る高原で放牧されている羊たち

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崑崙峠の標識

 崑崙峠を越した南の高地を「青南高原」と呼び、平均標高が4,500メートルである。この青南高原とチベット高原を一緒にしたのが「青蔵高原」で世界の尾根といわれている。そしてこの世界一の高原を、ゴルム市からラサまでつつく道が「青蔵公路」である。

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崑崙山の峠

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崑崙山峠の岩についていたコケ

 私たちは 青蔵公路を南へ進み、不凍泉についた。ここは、人の気配がないので、道から1キロほど離れた小川のほとりにテントを張った。

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青蔵高原

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青蔵高原の雪山

 標高4,400メートルの不凍泉は、暗くなると急に寒くなった。夕食後、寒さで何もできず、テントの中で寝袋にくるまって横になった。昼前にゴルム市を出発し、わすか半日でこんなに寒くなるとは思いもしなかった。

 夜が深まるとますます冷え、テントの外側が凍結するカサカサという音か耳につく。物も空気もすべてが凍ってしまうように寒く、何枚も着こんだか、少しも暖かくならなかった。

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青蔵高原の南に向かう道

 翌9月13日の午前8時ごろ起き上がり、テントの外に出た。空は信じられないほど青く、雲一つない。それぞれのテントから這い出してきた隊員たちが、白い吐息をはずませなから、昨夜の寒さを語る。今朝7時のテント入口の気温が摂氏零下10・5度であったという。テントのフライや本体のみならず、内側にも霜がついていた。

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標高4,400メートルの不凍泉近く

 洗面しようと、10メートルほど離れた小川へ行った。川は凍結し、氷の下にも水はなかった。これでは不凍泉なる地名にそぐわないではないかと思いながら100メートルほど川上に歩くと、氷の下に水があったので、石で叩き割って洗面した。渡り鳥だろうか、10数羽、カン高い鳴き声を残して南の方へ飛んでいった。

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不凍泉近くで見かけた羚羊(チルー)

 午前中、このへんの野生動物を撮影した。羚羊(れいよう)の一種で「チルー」と呼ばれる、黒くて長い角をもった鹿のような動物かいた。この角は解熱に効く漢方の原料である。このチルーを狙う狼がいたが、人間の姿を見ると、遠くへ逃げた。

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崑崙山峠でのA隊 左端が筆者」

内蒙古からチベット7000キロの旅㉙ 荒野のゴルム市

 ツァイダム盆地は乾燥が激しく砂漠化しているが、土壌の性質は単純ではない。砂漠、土漠、礫漠、それに低木の生えたところもある。風か強いせいで地面は土や砂がなく、小さな礫が塩で固まった平原もある。都蘭からすでに2日間走っているのだが、南に山脈、北に平原のある光景はほとんど変わらない。砂漠の砂は黒・白・褐色だが、全体的には灰褐色に見える。黒い岩山に白い砂が風に吹かれてせりあがり、まるで氷河のようである。

 ゴルム市の手前20キロのあたりに、小山のような灰黄色の砂丘がいくつもあった。しかし砂漠ではない。ところどころに檜(ひのき)のような細かい葉のタマリスクが群生している。

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ゴルム市の招待所

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ゴルム市の近代的なホテル

 午後1時半、荒野の中のゴルム市につき、人民政府招待所に泊まることにした。この招待所から、南のチベットのラサ行きの公営バスが出発する。北の甘粛省敦煌行きや東の西寧行きのバスもあり、旅行センターの役目もしている。外国人や、漢、チベット、蒙古、回、ウイグル族など、いろいろな民族か往来するので、いろいろな言葉が聞かれる。便所の入口の扉には、英語を含めて5種類の言語が書かれていた。

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チベットのラサ行きのバス

 ゴルム市は、西寧から西へ伸びた鉄道の終着地である。チベットヘの物資は、ここからトラックによって輸送される。この町は甘粛省、新彊ウイグル自冶区、チベットヘの物資流通の十字路になっているので、青海省西部では最も活気がある。

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外市

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市場で売られていた漢方薬の原料

 9月11日は日曜日だった。ゴルム市の自由市場へ行くと、路上に衣服を吊した店が何十軒と並び、人出か多かった。饅頭や豆腐、麺類なとも売られ、野菜や果物も多かった。また路上に多くの雑誌が並べられていたし、本屋もあった。雑誌は北京、南京、上海など、東部で発行されたものばかりである。

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ゴルム市で売られていた東部で発行された雑誌

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街頭に並べられたビリヤード台

 この町もビリヤードがさかんで、街頭に20台も並べられて人だかりがしていた。1ゲームが1~3元で借りられる。中国はどこへ行ってもビリヤードの台か置いてある。青海湖畔の草原の丘にも、ポツンと1台置いてあり、少年が見張っていた。

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農産物市場

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街頭の歯医者さん

 中国の漢民族は、麻薬や賭博で戦争や経済不安を起こし、国を衰亡させたことのある人びとである。こうも多くなってくると、賭博ビリヤードか国中に蔓延し、社会問題になるやもしれない。麻雀やトランプも盛んだが、ビリヤードのように大衆の面前で公然とは行なわれないので救われている。

内蒙古からチベット7000キロの旅㉘ ツァイダム盆地の植物と刑務所

 9月8日の夕方、パンテンシャンという村につき、かつてチベットのパンテン・ラマの公館であったラマ教寺院の庭にテントを張った。この寺院のそばの土の家に、もと僧であった66歳の蒙古人がいた。彼は、1959年に侵入してきた解放軍に追われて、この寺院から逃げた。その6年後に帰り、今では結婚して4人の子供がいる。

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パンテンシャン村の並木道

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道沿いの用水路

  この村は、もともと蒙古族の村であったが、解放後は漢民族の村になった。寺院は文革中に破壊されつくしたが、昨年から再建され、いまは寺院内の壁画を、ラサの仏画師に描いてもらっている。

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かつてパンテン・ラマの公館であったラマ教寺院

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寺院の屋上にある動物像

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寺院の壁画を描くラサの仏画師mm

 パンテンシャン村をさらに西へ向かうと砂地で、私たちはすでにツァイダム盆地の荒野に入っていた。ツァイダムとは蒙古語で「塩沢」の意味であるが、この盆地は、北を阿爾金(あるきん)山脈と礽連(きれん)山脈、南を崑崙(こんろん)山脈に囲まれ、面積は25万平方キロで、標高が2,600~3,000メートルもあり、典型的な高原盆地。盆地には湖や沼地が多いが、ほとんどが塩湖である。

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砂地に生えるクコの木

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クコの実

 ツァイダム盆地にはいろいろな植物か生えている。漢語で“コーチ”、チベット語で“シノナーロン”と呼ばれる枸杞(クコ)の木が赤褐色の実をつけている。この実は関節炎に効く漢方薬の王者であり、このへんの特産の1つである。漢語で“白刺果”、チベット語で“ツェルマーシー”という白い刺のある樹の実は、砂漠のグミともいえるもので、赤色に熟した実は甘く、汁は少し酸味かある。卵型で緑色の種子のまわりは甘くてねばっこく、赤い皮は少し苦みがある。この実は、乾燥した荒野では水分補給に充分役立ち、食料にもなる。

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水分の多いツエルマーシーの卵型の赤い実

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砂漠のグミ”ツエルマーシー”の実

 ほかには“蒿子”と呼ばれる、よもぎのような香りのする背の低い草かあり、チベット語では“ネ”と呼ばれていた。ここの草の大半が、乾燥のために葉肉が厚くサボテン化していたり、ドライフラワーになっていたり、花弁の先にトゲがあったり、たんへん不思議な形状の植物が多い。

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砂を取り込んで小山を作って生える灌木

 しばらく西へ走り、標高3,100メートルの脱土山を越えたが、草が紅葉し、全山が紅く燃えていた。

 やがて平地に出て、ふたたび大平原を走る。南には崑崙山系のボルハンブタ山脈がつづき、北は一望千里の荒野である。道沿いには100メートルごとに距離数表示があり、1キロごとに石の標識があった。道と平行して、電柱が並んでいる。植物の少ない、まったく無味乾燥の大地は、自然の死骸のような、退屈な風景である。

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一望千里の荒野を走る道

 夕方6時半ころ、平原の中の中継地になっている諾木洪(ノムホン)についた。道から5~6キロの砂漠の中に緑地帯があった。それは東西に約10キロにも及んでいた。そこは立入禁止であり、撮影も禁止された。そこが一体どういうところなのか、尋ねてもなかなか答えてくれなかったが、やっとのことで、ツァイダム刑務所であることがわかった。

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砂と礫(小石)に覆われた無味乾燥の大地

 中国全土、とくに東部の長春、北京、南京、上海、抗州、広東などからの政治犯や重刑の犯罪人が投獄されているそうである。1966年の文革がはじまって以来、東部から多くの政治犯が送りこまれたという。

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ノムホンからゴルム市への道

 それにしても周囲が砂地の広い荒野なので、逃亡は不可能なのかもしれない。今も多くの犯罪者が投獄されているそうだが、文革中のように政治犯が多いわけではない。むしろ今は政治犯が少なく、殺人者などの重犯者が多くなっているとのことだった。しかし、青海省甘粛省などではあまり知られていない刑務所で、やはり東部からの犯罪者が多いのである。外国人は立入禁止で、遠くからの撮影もできない厳しさだった。

内蒙古からチベット7000キロの旅㉗ 茶卡(ツアカ)は「塩の税関所」

 ドジヤさんたちに別れを告げ、午前9時半に茶卡(ツアカ)に向かって出発した。黒馬河平原の東方に見える山頂にはうっすらと雪があった。まだ9月7日なのだが、山頂はすでに初雪である。青海湖を見下ろしながら、大きな岩山の道を上る。峠に「橡皮山、3,705メートル」と標記してあった。

 峠を越して下ると、道沿いに仏塔である白いチョルテンがあった。しばらく下ると大水橋かあり、山には草も樹もなく、乾燥した空気か目に見えるようである。

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高原を移動するチベット族

 この辺は乾燥しているからか、平原につむじ風がたびたび発生した。大地から立ち昇るかげろうのせいで、水や人、家畜などの蜃気楼が見える。

 わずか78キロしかなかった茶卡の町に着いたのは午後2時だった。この町の軍の施設で給油している時、砂埃を巻き上ける竜巻が襲ってきた。ほんの五秒くらいであったが、車かグラグラゆれ、すさまじい勢いであった。

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タブスノール塩湖

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塩湖の表面

 茶卡の近くにタブスノールと呼ばれる塩湖がある。真っ白い純粋な塩が層をなしている。なめると甘く感じた。中国大陸の乾燥地帯には、ところどころにこうした天然の塩が存在している。白い塩の上を歩くと、雪のように靴底にくっついて歩きにくかった。見わたす限りの塩湖では良質の塩がとれ、青海・甘粛の2省に必要な食塩を永遠に供給することができるそうだ。

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塩湖から掘り出した塩の新しいボタ山

 茶卡は、ツアカと発音するチベット語を漢字で表記したものである。ツアは「塩」のことであり、カは「税関」または「関所」という意味である。だから、ツアカとは、もともと「塩の税関所」のことであったが、今では町の名称になっている。

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灰色のボタ山は古く、白い山は新しい

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塩を運ぶ貨車

 町はずれの平原に内蒙古で見たと同じアンパン型の移動式住居ゲル(包)がー張りあった。不思議に思って訪れた。

 39歳のネリヨさんが気軽くゲルの中に案内してくれ、お茶をサービスしてくれた。彼女は蒙古語とチベット語しか話せなかったが、中学生の娘は漢語を話した。主人は家畜を追って平原に出て不在だったが、奥さんと息子と娘の3人がいた。

 彼女の一家は、夫婦と祖母、子供4人の7人家族で、馬十頭、ヤクと牛35頭、ラクダ5頭、羊600頭を所有している。今の中国ではかなり豊かな一家である。上の2人の息子は大学に通っている。1人は西寧に、もう1人は北京にいる。ネリヨさんは、明日から北京に遊びに行くそうである。

 異郷の地で逞しく生きる蒙古族一家の幸せそうな暮らしぶりを聞いて、なぜか安心させられた。というより、あの蒙古高原の人びとが懐かしかったし、同郷者を訪ねたような気分でもあった。

 茶卡は大きな盆地にあり、南の方へ10キロも真っすぐな道が続いていた。疲れもあってか、ランドクルーザーの前席で、車のゆれに身をまかせているうちに、身体か風に舞い上がるように軽くなり、いつしか夢の世界に入っていた。

 車かガタンとゆれて目が覚めた。ほんの数分の白日夢だった。もう少し続けて夢の世界にいたかったが、残念なことをした。それにしても、殺風景な自然の中で、全身が乾燥と土埃の汚れと疲労にボロボロになっているのに、天女を抱きしめる夢を見たせいか、すっきりした気分になった。

 標高3,560メートルの峠を越すと、ふたたび荒野が続いた。山に樹なし、地に動物なしの自然環境は、見ているうちに飽きてくる。

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標高3,000メートル以上の荒野

 道はどんどん下り、夕方、ツァイダム盆地の入口にある夏日哈(シャラグ)についた。ここには漢人の農民が住み、麦の刈り取りをしていた。灌漑用水路が張りめぐらされ、水が流れているが、畑以外の大地は砂地である。村の外は砂漠で、砂丘が続いている。

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シャラグ村近くのラマ教寺院

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高原にできた漢民族の新しい村シャラグ

 道沿いには楊樹が植えられ、夏日哈から20分ほど走ると緑地帯が広がっていた。そこが旧名チヤハンウスと呼ばれた都蘭(とらん)の町である。これまでにもあったが、内蒙古青海省では、漢民族化、漢文化がすすみ、人名や地名が漢名になっている。

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都蘭近くにいたラクダの群れ

 西寧から西南西へ約450キロ走ったツァイダム盆地の東端にある古くからの町が都蘭である。標高3,200メートルの都蘭の招待所で、久しぶりに風呂に入った。しかしお湯が少なかったので身体か十分に温まらず、風呂を出たあと寒くなり、水筒に熱い湯を入れて湯タンポにして寝た。

 

内蒙古からチベット7000キロの旅㉖ チベット系牧民の生活

 9月5日の午後、青海湖南岸の黒馬河(こくばがわ)村まできた。この村の南西の一部が平原になっており、多くの牧民たちが黒テント“バー”で生活している。私たちは、牧民であるドジャさん(74歳)一家を訪ね、2泊3日の許可を得、生活を共にすることにした。

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黒馬河村

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黒馬河村の漢方医

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黒馬河村で見かけた正装のチベット婦人

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黒馬河近くの湖岸に作られたラツイ

 ドジャさんのテントは、ゆるい丘の北麓にあった。家族は夫婦と息子夫婦、それに孫が4人で、三世帯同居の一家である。

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黒馬河の平原に張られたチベット族のテント

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平原に放牧されたヤク

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ドジャさんのテント

 ヤクの毛で織る“レー”は、幅20センチ長さ12センチが一体になっている。レーは、縦糸の端を棒に結び、手前から順に横糸を入れて織ってゆく。1人の女性が、朝から晩までかけて約5メートル織ることができる。黒テントは、長さ6メートルのレーを縫い合わせてつくるのだが、大きいもので片側20枚、小さなもので10枚と決まっている。ドジャさんのテントは、両方合わせて40枚のレーを縫い合わせた大きなものである。 

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”レー”と呼ばれる、ヤクの毛で織る織物を作る女性

 テントの中は16畳ほどの広さで、屋根の中央が開いている。その下に土製の長いカマド「クゴワス」があり、乾燥した羊やヤクの糞を燃やす。屋根の中央が開いているのは、明かり取りと煙が外に出やすいためである。テントは、中央に棒を3本、前後に並べて立て、屋根を八方に張っている。

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テントの中の土で作られたかまど

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テントの中の様子

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ヤクの乾いた糞を燃やして湯を沸かす

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バター茶を作る婦人

 垂れ下かった入口のレーを押して中に入ると、右側が男性や客人が座る場所で、寝具や衣類などが置いてある。左側が女性の場で、食料や水などかある炊事場である。中央のカマドは、後方か高く、すべり台のようになっており、乾いた糞が燃やし場にすべり落ちるように作ってある。

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テントの入口で孫たちと遊ぶドジャさん

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平原に座って用を足す子供たち

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杖を馬に見立てて遊ぶ男の子

 私は右側の奥のカマド寄りに座るように指示され、寝床も同じところで、足を入口の方に向けた。女性は左側に寝る。ドジャさんは、入口に敷いた布団に、孫といっしょに裸で眠った。

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テントの中でマニコロンを回して祈るドジャさん

 9月6日の朝は冷え込みが強く、外気は零度まで下がったのか、薄く霜がおりていた。まだ薄暗い6時に、主婦のソンチージャさん(36歳)がカマドに糞を入れ マッチで火をつけた。煙がテント内に充満したが、燃えはじめると煙は消え、やかんで湯を沸かした。息子のパムータリさん(38歳)や他の大人は6時半に起床した。男たちは洗面器で顔を洗い、女たちは湯にひたした小さなタオルで顔をふき洗った。

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ゴリと呼ばれるチベットパン

 7時ごろ「ゴリ」と呼ばれるパンとツァンパ、それに「チャシュマ」と呼ばれるバター茶で朝食。子どもたちは起きっぱしに食べ、後で顔を洗う。4歳のルーザンには、お尻に「ウノゴンボ」と呼ばれる蒙古斑があった。

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用便の後始末をする婦人

 7時40分、孫のホワンクル君(17歳)とヘモちゃん(7歳)が、ヤクの背にポリエチレンのタンクを2個ずつ載せて水汲みに出かけた。

 8時ごろ、ソンチージャさんがヤクの乳を絞りはじめた。長い綱の左右につないだ母ヤクの乳をまず仔に吸わせて、乳が出はじめると引き離して搾乳をする。仔ヤクは、そばでうらめしげに眺める。ひとしきり絞ると仔ヤクが離されて飲む。これは、家畜とともに生きる牧民の生活の知恵である。

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ヤクの乳を搾る婦人
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バターを作りバター茶を注ぐ婦人

 彼女は30分ほどで十数頭の乳を絞り、その後、バターを作ったり、発酵乳を作る。8時半ごろには、6歳と4歳の孫がヤクや羊を平原に追い出して行った。私は、10時半から12時半までドジャ老人について、馬上から羊やヤクを追った。

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草原で夕食の準備をする探検隊

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チベット族は魚を食べないが、我々が食べた青海湖のうろこのない魚

 テントに戻り、シュマ茶とパンで昼食。午後は仕事がなかった。4時にお茶とパンの間食をとる。老人は夕方までテントのそばで孫たちと遊んでいた。暗くなる前に、ヤクや羊をテントの前の所定の場所に連れもどした。ヤクは綱につなぎ、羊は放置されていた。息子のパムータリさんは、地区委員をしているので、会議のため、朝出て夕方帰ってきた。

 夜は近所の牧民も集まって宴会がはじまった。めったにないことで、女性は青海チベットの正装をし、華やかである。食物は羊肉の水煮と内臓料理。酒は、麦で作った地酒のチャン。

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夜の宴会にやってきた近所の女性たち

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正装したソンチージャさん

 酔うほどに歌が出た。リズムは日本の民謡の木曽節や馬子唄に似ている。彼らは専門に習ったわけではないが、音程がしっかりして、声が大きく美しい。男はみな歌手である。

 牧民は夜が早い。普通は9時過ぎると横になるそうだが、11時すぎまで歌った。私は、煙とシラミに悩まされつつ、酔いにまかせ、布団にくるまって寝入った。

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黒馬河湖岸のラツイのそばに立つ筆者

内蒙古からチベット7000キロの旅㉕ 壁のできた草原

 9月5日の朝、旅行社の招待所から西へ向かった。半島のように突き出たところを横切って江西鎮(こうせいちん)という漢族の村に着いた。1983年以前には人民公社があり、活気づいていたそうだが、今はさびれていた。

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青海湖岸の道沿いにできた高さ1,5メートルの土の壁

 しばらく走ると、道は湖岸に近づき、ゆるやかな斜面から草原になった。道沿いには有刺鉄線が張ってある。やがて南側の道沿いに、高さ1・5メートルほどの土の壁が続く。これは軍が経営する農場である。たいへん広大な農場で、機械化している。コンバインでは端の方の麦が刈り取れないので、軍人たちが鎌で刈り取っていた。道の北側の湖岸に近い草原には何百頭ものヤクや、何千頭もの羊が放牧されている。湖岸近くには、チベット式テント「バー」が何十張りもある。

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人民軍が経営する農場

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軍の農場で麦を刈り取る人たち

 羊やヤクの群が湖に入っている。家畜は1日に1回、午前中に湖水を飲む。この湖水は、現地人でもソーダ分が強くて飲めない。10キロも南の山麓からもやってくるので、午前11時ころは湖岸に家畜があふれる。

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青海湖岸に放牧されたヤクの群れ

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湖岸に張られたチベット族のテント

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テントの傍に積み上げられた石

 青海湖周辺のチベット系牧畜民は、年に3回移動する。9月から翌年の4月までは、山麓の冬用の土の家で生活し、5月から6月までは山の上の夏用の地域でテント生活をする。そして7月から8月末または9月初めまでは、青海湖の草原にテントを張って生活する。

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ヤクの背に荷物を載せて湖岸から南の山麓へ移動するチベット族

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移動の準備をしているチベット族の女性

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ヤクの背に荷物を載せ、馬に乗って移動中の女性

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歩いて移動中の女性

 牧民たちは、すでに湖岸から冬用の山麓の場へ移動をはじめていた。このへんの牧民は、9月1日から1週間のうちにすべて南の山麓に移動する。彼らは、衣食住のすべてをヤクの背に載せて運ぶ。馬に乗る者、歩く者、中にはトラクターやオートバイに乗る者もいる。一家族が所有する何十頭ものヤクや何百頭もの羊を追って移動するさまは、家畜を追う人の声、家畜の鳴き声 足の爪音、砂ぼこりなどで活気があり、迫力さえ感しられる。

 湖岸の方から南の山麓へ向かうと、道沿いに土の壁が続いている。ところどころに、南への通路がある。牧民たちは家畜を連れて自由に南へ向かうことができず、農耕民によって築かれた土壁や有刺鉄線の間にある通路を求め、遠回りしながら進む。

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道沿いに作られた壁にそって、南への通路を求めて移動中のチベット族

 1959年、まず解放軍という名の軍隊がこの地方に進駐してきた。そして 牧民たちの大地に有刺鉄線を張り、土の壁を築いて境界線を作った。牧民たちには土地の所有観念がないので初めは何を意味しているのか理解できなかった。ただ、移動の通路をふさがれたことに対して抗議した。しかし軍はそのことを認めず、自給自足の名のもとに農業をはじめた。間もなく漢人たちが新天地を求めて移住し、平原の多くを農耕地化した。大農場は軍直営で、小農場は漢人のものであった。

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青海湖で水を飲むヤク

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青海湖岸に集まった羊の群れ

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青海湖で水を飲む羊

 牧民たちにとって、母なる青海湖の水は、家畜とともに暮らすに欠くことのできないものである。その湖が、いまではすべて土壁と有刺鉄線に囲まれている。何度も抗議はしたが、国家権力の前に何も効果はなかった。

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青海湖岸で家畜を見守る牧民たち
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チベット族中年女性の簾のように編んだ髪

 彼らの大地は、支配者側からの解放という名のもとに、漢民族の侵入を受け入れざるをえなかった。以前のように自由に遊牧できる草原は、もう2度と戻ってはこない。やはり青海湖畔は漢民族にとって、新しい植民地なのである。

内蒙古からチベット7000キロの旅㉔ 青海湖へ

 西寧を午後4時に出発し、100キロ西の青侮湖へむかった。1時間ほどで湟原の町に着いた。道はここから南へ折れた。道沿いに漢族やチベット族、土族などの村がぽつり、ぽつりと点在し、麦やエンドウ豆などの収穫期であった。道沿いの岩山に石を積み上げたラツィ(蒙古語ではオホ)を見かける。すでにチベットラマ教文化圏に入ったのだろう。

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西寧から西にある煌原の町

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大地に伏す五体倒地礼でラサに向かう女性

 やがて標高が3,000メートルになり、漢時代にチベットとの境であった、石頭山と呼ばれるタコの頭のような岩山が2つ並んだところに着いた。ここから、はるか左前方に新雪の日月山を眺める。このへんは土族が多く、高山裸麦の青稞(チンコー)を栽培している。今は収穫期で、黄金色の麦畑がゆるい斜面に広がり、青い空に映えて、一幅の絵のように美しい。

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麦畑

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麦畑と放牧地

 車はさらに山道を登った。大地に木はなく、こけのような背丈の低い草が一面に生え、モスグリーンー色である。その斜面で、羊とヤクの群が草をはんでいる。ヤクはチベット特有の家畜で、野牛のような動物である。すでに、農地から牧地へと、自然は大きく変わった。

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日月山記念碑

 標高3,520メートルの日月峠に着いた。ここは、7世紀ころの唐時代にチベットとの国境であったので、その旨を記した碑が立っている。この峠は土地が赤いこともあって、チベット人たちは赤嶺と呼んでいた。7世紀中葉、唐の文成公王か政略結婚のため、チベットである吐蕃のソンツウェン王(ガンポ)に嫁ぐ時、この峠で後を振り返って、2度と戻っては来られないだろうと泣いたところだともいわれている。

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唐時代の唐とチベットの境界碑

 この峠には数年前に、日帝と月帝と呼ばれる記念碑が建立され、観光の名所にもなっている。また、1986年にパンテン・ラマが訪れた記念の大きなラツィもある。

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パンテン・ラマの記念ラツイと日帝,月帝記念碑

 峠から東は急に低くなっているが、西の方は峠との差が少なく、高地になっている。この峠から流れている倒淌河は、青海湖へ通じている。私たちは、その河に沿って東西に長い倒淌河平原を西へ走った。このへんはチベット系牧畜民の放牧地で、羊、山羊、ヤク、馬などが多い。蒙古の草原でも見たことのないほどの数である。そして八角形の黒いチベット式テントや白い三角テントがあちこちにあった。

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日月山峠から南を見下ろした光景

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草原の白いテント群

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草原の羊の群れ

 しばらくの間、暮れなずむ草原に魅せられていたが、ふと前方を見ると、草原の彼方に湖面らしきものか見えた。

 「青海湖だ!」

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青海湖

 突然だったのでつい叫んでしまった。中国大陸で最も大きな湖についに来た。しかし草原の彼方に広がる湖面は、どこからどこまでか湖なのか、その実体がつかめない。

 青海湖の南湖岸に出たのは、それから20分ほど走ってからだった。あまりにも広くて湖とは思えない。まさしく海である。省の呼称の由来にもなっているのだが、内陸にこんな大きな湖があるとは信じられない。道は湖岸近くを、西へ西へと続いている。しばらく走って漁村を通り、青海湖旅行社の招待所に着いたのは9時すぎだった。

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青海湖の西に沈む夕日

 招待所にはシャワーの設備はあるが、水も湯も出ないし、テレビも故障していた。中国では田舎でも立派な招待所があり、設備もかなり整ってはいるが、管理が悪いので、それらが機能していないことか多い。文明は簡単に普及し、画一化することはできるのだが、人間の素養や管理能力を教育によって向上させるのは、早くて20年、遅いと100年はかかる。

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日月山峠での筆者

内蒙古からチベット7000キロの旅㉓ ラマ教のタール寺

 西寧から西南方向へ33キロの湟中県(こうちゅうけん)にあるタール寺までの道は舗装されていた。標高2,500メートルにあるタール寺は、ラマ教黄帽派を創立したツオン・カパの出生地である。彼の後継者たちはダライ・ラマとして尊崇され、黄帽派チベットの国教となり、1960年代まで存続し、今もまだ宗教的勢力が強い。このタール寺は、ラマ教を信仰する多くのチベット族、蒙古や土族などが参拝する聖地でもある。また蒙古族が、蒙古高原からチベットのラサヘ巡礼に行く中継地でもあった。

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標高2,500メートルにあるタール寺

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タール寺入口の一つ

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タール寺前の青空市場

 現在のタール寺は、明朝時代の1560年に建立されはじめ、77年にほぼ一定の規模を備えるまでになったといわれている。この寺の占める面積は40ヘクタール。建物はチベットと中国の技術を結合したもので、特有な風格を備えた殿堂が多い。

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タール寺の中庭の一つ

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タール寺の中

 タール寺の事務僧と交渉し、明日と明後日の取材許可を願ったが、交渉は難航した。夕方になって、明朝活仏に直接話してくれということになり、仕方なく西寧に引き返した。

 翌9月1日の早朝タール寺を再訪した。九時の約束であったが、10時すぎになって事務僧が出勤した。約束の時間を正したら、北京の夏時間ではなく、1時間遅い時間を使っていた。

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タール寺の小坊主

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中庭での僧たちの問答研修

 タール寺には6人の活仏がいる。活仏とは、ラマ教特有の考えで、仏や聖僧などの生まれかわりと信じられている聖僧のことである。チベット語では「ゲゲン」と呼ばれ、寺の中では大変な権威と権限をもっている。

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ツオン・カパ像

 担当の却西活仏に会った。まず、ラマ教徒の習慣にのっとって、ハ夕を差し上げた。大変にこやかな、上品な顔立ちで、権威あふれる雰囲気があった。しかしなかなかの商才で、すべてお金によって許可を出す抜け目のない人であった。タール寺には現在、15歳以上の僧か500人いる。これは、お経を学ぶ勉学僧や管理運営の事務僧、その他の雑役係の労務僧も含めたタール寺全体の住民の数である。

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午前中の問答学習

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中庭でたむろする僧たち

 西川さんが旅の途中立ち寄って、泊まっているので、私たちも特別許可を得て、タール寺の招待所に1泊した。なんの飾りもない、四角形の殺風景な部屋は寒々としていた。鉄製の簡易ベッドで、2枚の布団にくるまって寝た。

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チベット・漢風建築

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複雑な様式の建物

 9月2日、午前6時に起床し、大経殿横の炊事場へ行った。ここでは、五右衛門風呂よりも大きな、直径1・5メートルもある釜で、500人分の頭巴(ドーパ)と呼ばれる肉入り雑炊を煮こんでいた。

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タール寺内の立派な仏塔

 午前2時ころから火を入れて焚いていた大釜の中では、米、牛肉、バター、植物の根である蕨麻なとの材料が、すでに形をとどめないほどに煮込まれていた。そして赤い法衣の炊事当番僧たちが、最後に干しぶとうと葱を入れ、大きな長い棒で釜の中を何十回もかきまぜる。そのたびに湯気が立ち、甘い香りかただよう。

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合図用の大太鼓

 6時55分、当番の僧が大経堂の門の上にある鼓楼にのぼり、朝の勤行合図の大太鼓をドンドン叩く。その音にひかれるように、まだ明けきらぬ朝ぼらけの中を、赤い法衣をまとい、ラマ経独特の、船型の黄色いフェルトにトサカのような赤毛がついた帽子をかぶった僧たちが、次々に大経堂に入った。

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中庭で休息する高齢の僧たち

 7時から、低いが伸びのある、よく通る声で読経が始まった。僧たちは、板の上にじゅうたんを4~5枚重ねて敷いた長い台座に並んですわっている。私は、信者たちがすわる入口の床にあぐらを組んだが、尻が冷えた。読経はチベット語だが、日本の僧が読経するリズムと似ているので、違和感はなかった。

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朝の勤行中

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バター茶を運ぶ少年僧

 僧たちは7時半と8時に、桶に入ったバター茶を、懐に入れて持参している椀に、当番の小僧たちから注いでもらって飲む。中には麦こかしのツアンパをこねて食べる僧もいる。バター茶は、空腹で、しかも寒い時に飲むとたいへんうまい。

 8時すぎると、いっそう声か大きくなる。1時間以上もすわって瞑想しているのに、眠くならない。低音のまろやかな読経の声が、まるで鐘の音のように、すみきって脳裡に響く。心が安らぎ、気持ちのよい合唱である。それは、頭上から降り注ぐ光にも似たような、暖かく、心地のよい音色であった。

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チベット風建築

 9時から当番の小僧たちによって、特別料理の頭巴が手桶で配られた。小僧たちは桶を脇に抱え込んで競うように走り、忙しく配るので、まるで戦場のような雰囲気。僧たちは、頭巴を椀に受け、中指ですくって食べる。私も、僧たちに習って、冷たい床に座って、右手の中指ですくい上げて食べた。たいへんおいしく、空腹だったせいか、すべてが滋養になるように思われた。

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朝の勤行が終わった僧たち

 頭巴を食べ終わると、ふたたび読経が流れ、全僧がともに手を叩き、朝の勤行を終了した。僧たちはいっせいに立ち上がり、脱兎のごとく外に走り出した。そして、経堂の前の大地にしゃがみ、赤い法衣に隠し、座って排尿をする。

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勤行が終わって小用に急ぐ僧たち

 僧のいなくなった大経堂の中は静かで、薄暗い空間に、ローソクの明かりに映える仏像がぼんやり見えるだけだった。

 

内蒙古からチベット7000キロの旅㉒ 道教の北禅寺

 西寧市には、北、西、南の3方向から川が流れこみ、西寧河となって東へ流れている。町の北にある北山に“北禅寺”と呼ばれる道教の古い寺がある。道教では、寺を“道観”僧を“道士”、尼を“女冠”と呼ぶ。

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北山の絶壁にある道教の北禅寺

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北禅寺に登る建設中の階段

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北善寺の碑

 北山には、大地が陥没したような岩石が絶壁になっているところがある。下から見上げると絶壁の上は台地になっており、高さが100メートルほどもある。下の方は急な斜面だか、中腹以上は垂直な岩壁である。道観は、その岩壁を穿って作られている。いま修復中で、臨時に設けられた坂道を登った。

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壁に沿って臨時に作られた道

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臨時に作られた坂道を上る参拝者

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道観の中心的建物”土楼観”

 「土楼観」と大書された朱塗りの山門をくぐって入った。

 石窟の壁には神像が描かれており、線香が煙って、その前で数人がひざまずいて祈っていた。まだ修復中で、残された壁画以外は何もない石窟。

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土楼観の前に立つ導士

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土楼観の壁に描かれた神像

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土楼観の壁に描かれた地獄絵

 道観を修復している畔宗静(らそうせい)道士(46歳)は、もともと建築技師であった。今から1,400年ほど前の唐時代に建立されたこの道観は、文革中に地元の紅衛兵にことごとく破壊された。それ以来草も木も生えず、訪れる人もなかった。文革が終わって1978年に、彼はこの地を訪れ、荒れ果てた道観を見かねて、草花や木を植えはじめた。やがて道観を修復しようと思い立ち、1980年に建築会社を退職し、ここに小屋を建てて住みつき、道士となって再建を始めた。

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北禅寺の見晴らし台
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絶壁に掘られた通路

 やがて83年頃から市民が訪れて寄進してくれるようになり、協力者が増えた。いつしか道士が6人になり、86年からは市当局の金銭的な援助もあり、急速に修復が進んだ。そして88年の今年は、道観に登る数百もの石段が修復されている。これが完成すれば、多くの市民が訪れるようになるという。

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土楼観の屋根

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北山の絶壁

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案内してくれた道士と筆者

 この土楼観が建立された唐時代には、国家鎮護の恩典に浴し、道観が官設され、賦役上の特権も与えられたりしたので、経済的勢力となり、貴族化すらしたが、やがて衰微した。13世紀の元朝にも保護されたが、この時にも繁栄腐敗の道をたどったといわれている。

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北禅寺を修復している畔宗静道士(46)

 しかし道教漢民族社会に、広く、深く行き渡り、健康や不老長生を求めて祈祷、まじないを行ない、神符(札)や神像の霊威に加護を祈る風習となって残っている。そして神符や神像は民衆の繁栄と団結の守り神ともされ、多子、富貴、長命などを祈る対象となった。そしてついには、長寿を象徴する福禄寿なるものまで出来上がった。

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北禅寺の通路から下を見る

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修復中の北禅寺

 道教は、文革中に激しく攻撃されたが 一掃されることなく、いまも漢民族社会の生活文化を支配し、社会主義社会と共生しながら、習俗に大きな影響を及ぼし続けている。

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参拝に訪れた親子

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北禅寺の通路から西寧市の西側を見る

 北山の石窟を中心とする土楼観からの、西寧の町を見下ろす眺望は絶景である。すでに多くの神像が安置され、神符が貼り付けられ、人びとの心のよりどころとなりつつある。

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北禅寺の全景

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北禅寺の通路に立つ筆者