内蒙古からチベット7000キロの旅㉚ 崑崙山を越えて
小雨降るゴルム市を9月12日午前11時に出発し、南へむかった。道は上りになっており、やがて氷雨になった。午後1時すぎには雪になった。標高3,180メートルの地点で、東から西へ流れる赤褐色のシキンゴール川と、西から東へ流れる灰緑色のナイジゴール(崑崙)川が合流し、ゴルム川となっていた。川幅15メートルほどの川は、ツァイダム盆地に流れ込んで消える。
道はさらに上る。すでに山は白く薄化粧である。時にあられがフロントガラスに音高く降りつける。車は上り坂を時速40キロくらいで走る。標高3,920メートル、富士山よりも高い谷間の雪の中に、羊を追う牧民がいた。この近くに軍の給油所かあり、何台ものトラックが停まっていた。
標高4,000メートルの高地では粉雪か浮遊して空気が霞み、幻想の世界のようだ。その中を、軍のトラックが4~50台もチベットの方から下りてきた。
午後4時30分、標高4,767メートルの崑崙峠についた。富士山より1,000メートルも高い。途中は吹雪いていたが、峠は晴れていた。周囲には冠雪の白い山々か連なり、冷たい風が肌を刺す。
崑崙峠を越した南の高地を「青南高原」と呼び、平均標高が4,500メートルである。この青南高原とチベット高原を一緒にしたのが「青蔵高原」で世界の尾根といわれている。そしてこの世界一の高原を、ゴルム市からラサまでつつく道が「青蔵公路」である。
私たちは 青蔵公路を南へ進み、不凍泉についた。ここは、人の気配がないので、道から1キロほど離れた小川のほとりにテントを張った。
標高4,400メートルの不凍泉は、暗くなると急に寒くなった。夕食後、寒さで何もできず、テントの中で寝袋にくるまって横になった。昼前にゴルム市を出発し、わすか半日でこんなに寒くなるとは思いもしなかった。
夜が深まるとますます冷え、テントの外側が凍結するカサカサという音か耳につく。物も空気もすべてが凍ってしまうように寒く、何枚も着こんだか、少しも暖かくならなかった。
翌9月13日の午前8時ごろ起き上がり、テントの外に出た。空は信じられないほど青く、雲一つない。それぞれのテントから這い出してきた隊員たちが、白い吐息をはずませなから、昨夜の寒さを語る。今朝7時のテント入口の気温が摂氏零下10・5度であったという。テントのフライや本体のみならず、内側にも霜がついていた。
洗面しようと、10メートルほど離れた小川へ行った。川は凍結し、氷の下にも水はなかった。これでは不凍泉なる地名にそぐわないではないかと思いながら100メートルほど川上に歩くと、氷の下に水があったので、石で叩き割って洗面した。渡り鳥だろうか、10数羽、カン高い鳴き声を残して南の方へ飛んでいった。
午前中、このへんの野生動物を撮影した。羚羊(れいよう)の一種で「チルー」と呼ばれる、黒くて長い角をもった鹿のような動物かいた。この角は解熱に効く漢方の原料である。このチルーを狙う狼がいたが、人間の姿を見ると、遠くへ逃げた。
内蒙古からチベット7000キロの旅㉙ 荒野のゴルム市
ツァイダム盆地は乾燥が激しく砂漠化しているが、土壌の性質は単純ではない。砂漠、土漠、礫漠、それに低木の生えたところもある。風か強いせいで地面は土や砂がなく、小さな礫が塩で固まった平原もある。都蘭からすでに2日間走っているのだが、南に山脈、北に平原のある光景はほとんど変わらない。砂漠の砂は黒・白・褐色だが、全体的には灰褐色に見える。黒い岩山に白い砂が風に吹かれてせりあがり、まるで氷河のようである。
ゴルム市の手前20キロのあたりに、小山のような灰黄色の砂丘がいくつもあった。しかし砂漠ではない。ところどころに檜(ひのき)のような細かい葉のタマリスクが群生している。
午後1時半、荒野の中のゴルム市につき、人民政府招待所に泊まることにした。この招待所から、南のチベットのラサ行きの公営バスが出発する。北の甘粛省の敦煌行きや東の西寧行きのバスもあり、旅行センターの役目もしている。外国人や、漢、チベット、蒙古、回、ウイグル族など、いろいろな民族か往来するので、いろいろな言葉が聞かれる。便所の入口の扉には、英語を含めて5種類の言語が書かれていた。
ゴルム市は、西寧から西へ伸びた鉄道の終着地である。チベットヘの物資は、ここからトラックによって輸送される。この町は甘粛省、新彊ウイグル自冶区、チベットヘの物資流通の十字路になっているので、青海省西部では最も活気がある。
9月11日は日曜日だった。ゴルム市の自由市場へ行くと、路上に衣服を吊した店が何十軒と並び、人出か多かった。饅頭や豆腐、麺類なとも売られ、野菜や果物も多かった。また路上に多くの雑誌が並べられていたし、本屋もあった。雑誌は北京、南京、上海など、東部で発行されたものばかりである。
この町もビリヤードがさかんで、街頭に20台も並べられて人だかりがしていた。1ゲームが1~3元で借りられる。中国はどこへ行ってもビリヤードの台か置いてある。青海湖畔の草原の丘にも、ポツンと1台置いてあり、少年が見張っていた。
中国の漢民族は、麻薬や賭博で戦争や経済不安を起こし、国を衰亡させたことのある人びとである。こうも多くなってくると、賭博ビリヤードか国中に蔓延し、社会問題になるやもしれない。麻雀やトランプも盛んだが、ビリヤードのように大衆の面前で公然とは行なわれないので救われている。
内蒙古からチベット7000キロの旅㉘ ツァイダム盆地の植物と刑務所
9月8日の夕方、パンテンシャンという村につき、かつてチベットのパンテン・ラマの公館であったラマ教寺院の庭にテントを張った。この寺院のそばの土の家に、もと僧であった66歳の蒙古人がいた。彼は、1959年に侵入してきた解放軍に追われて、この寺院から逃げた。その6年後に帰り、今では結婚して4人の子供がいる。
この村は、もともと蒙古族の村であったが、解放後は漢民族の村になった。寺院は文革中に破壊されつくしたが、昨年から再建され、いまは寺院内の壁画を、ラサの仏画師に描いてもらっている。
パンテンシャン村をさらに西へ向かうと砂地で、私たちはすでにツァイダム盆地の荒野に入っていた。ツァイダムとは蒙古語で「塩沢」の意味であるが、この盆地は、北を阿爾金(あるきん)山脈と礽連(きれん)山脈、南を崑崙(こんろん)山脈に囲まれ、面積は25万平方キロで、標高が2,600~3,000メートルもあり、典型的な高原盆地。盆地には湖や沼地が多いが、ほとんどが塩湖である。
ツァイダム盆地にはいろいろな植物か生えている。漢語で“コーチ”、チベット語で“シノナーロン”と呼ばれる枸杞(クコ)の木が赤褐色の実をつけている。この実は関節炎に効く漢方薬の王者であり、このへんの特産の1つである。漢語で“白刺果”、チベット語で“ツェルマーシー”という白い刺のある樹の実は、砂漠のグミともいえるもので、赤色に熟した実は甘く、汁は少し酸味かある。卵型で緑色の種子のまわりは甘くてねばっこく、赤い皮は少し苦みがある。この実は、乾燥した荒野では水分補給に充分役立ち、食料にもなる。
ほかには“蒿子”と呼ばれる、よもぎのような香りのする背の低い草かあり、チベット語では“ネ”と呼ばれていた。ここの草の大半が、乾燥のために葉肉が厚くサボテン化していたり、ドライフラワーになっていたり、花弁の先にトゲがあったり、たんへん不思議な形状の植物が多い。
しばらく西へ走り、標高3,100メートルの脱土山を越えたが、草が紅葉し、全山が紅く燃えていた。
やがて平地に出て、ふたたび大平原を走る。南には崑崙山系のボルハンブタ山脈がつづき、北は一望千里の荒野である。道沿いには100メートルごとに距離数表示があり、1キロごとに石の標識があった。道と平行して、電柱が並んでいる。植物の少ない、まったく無味乾燥の大地は、自然の死骸のような、退屈な風景である。
夕方6時半ころ、平原の中の中継地になっている諾木洪(ノムホン)についた。道から5~6キロの砂漠の中に緑地帯があった。それは東西に約10キロにも及んでいた。そこは立入禁止であり、撮影も禁止された。そこが一体どういうところなのか、尋ねてもなかなか答えてくれなかったが、やっとのことで、ツァイダム刑務所であることがわかった。
中国全土、とくに東部の長春、北京、南京、上海、抗州、広東などからの政治犯や重刑の犯罪人が投獄されているそうである。1966年の文革がはじまって以来、東部から多くの政治犯が送りこまれたという。
それにしても周囲が砂地の広い荒野なので、逃亡は不可能なのかもしれない。今も多くの犯罪者が投獄されているそうだが、文革中のように政治犯が多いわけではない。むしろ今は政治犯が少なく、殺人者などの重犯者が多くなっているとのことだった。しかし、青海省や甘粛省などではあまり知られていない刑務所で、やはり東部からの犯罪者が多いのである。外国人は立入禁止で、遠くからの撮影もできない厳しさだった。
内蒙古からチベット7000キロの旅㉗ 茶卡(ツアカ)は「塩の税関所」
ドジヤさんたちに別れを告げ、午前9時半に茶卡(ツアカ)に向かって出発した。黒馬河平原の東方に見える山頂にはうっすらと雪があった。まだ9月7日なのだが、山頂はすでに初雪である。青海湖を見下ろしながら、大きな岩山の道を上る。峠に「橡皮山、3,705メートル」と標記してあった。
峠を越して下ると、道沿いに仏塔である白いチョルテンがあった。しばらく下ると大水橋かあり、山には草も樹もなく、乾燥した空気か目に見えるようである。
この辺は乾燥しているからか、平原につむじ風がたびたび発生した。大地から立ち昇るかげろうのせいで、水や人、家畜などの蜃気楼が見える。
わずか78キロしかなかった茶卡の町に着いたのは午後2時だった。この町の軍の施設で給油している時、砂埃を巻き上ける竜巻が襲ってきた。ほんの五秒くらいであったが、車かグラグラゆれ、すさまじい勢いであった。
茶卡の近くにタブスノールと呼ばれる塩湖がある。真っ白い純粋な塩が層をなしている。なめると甘く感じた。中国大陸の乾燥地帯には、ところどころにこうした天然の塩が存在している。白い塩の上を歩くと、雪のように靴底にくっついて歩きにくかった。見わたす限りの塩湖では良質の塩がとれ、青海・甘粛の2省に必要な食塩を永遠に供給することができるそうだ。
茶卡は、ツアカと発音するチベット語を漢字で表記したものである。ツアは「塩」のことであり、カは「税関」または「関所」という意味である。だから、ツアカとは、もともと「塩の税関所」のことであったが、今では町の名称になっている。
町はずれの平原に内蒙古で見たと同じアンパン型の移動式住居ゲル(包)がー張りあった。不思議に思って訪れた。
39歳のネリヨさんが気軽くゲルの中に案内してくれ、お茶をサービスしてくれた。彼女は蒙古語とチベット語しか話せなかったが、中学生の娘は漢語を話した。主人は家畜を追って平原に出て不在だったが、奥さんと息子と娘の3人がいた。
彼女の一家は、夫婦と祖母、子供4人の7人家族で、馬十頭、ヤクと牛35頭、ラクダ5頭、羊600頭を所有している。今の中国ではかなり豊かな一家である。上の2人の息子は大学に通っている。1人は西寧に、もう1人は北京にいる。ネリヨさんは、明日から北京に遊びに行くそうである。
異郷の地で逞しく生きる蒙古族一家の幸せそうな暮らしぶりを聞いて、なぜか安心させられた。というより、あの蒙古高原の人びとが懐かしかったし、同郷者を訪ねたような気分でもあった。
茶卡は大きな盆地にあり、南の方へ10キロも真っすぐな道が続いていた。疲れもあってか、ランドクルーザーの前席で、車のゆれに身をまかせているうちに、身体か風に舞い上がるように軽くなり、いつしか夢の世界に入っていた。
車かガタンとゆれて目が覚めた。ほんの数分の白日夢だった。もう少し続けて夢の世界にいたかったが、残念なことをした。それにしても、殺風景な自然の中で、全身が乾燥と土埃の汚れと疲労にボロボロになっているのに、天女を抱きしめる夢を見たせいか、すっきりした気分になった。
標高3,560メートルの峠を越すと、ふたたび荒野が続いた。山に樹なし、地に動物なしの自然環境は、見ているうちに飽きてくる。
道はどんどん下り、夕方、ツァイダム盆地の入口にある夏日哈(シャラグ)についた。ここには漢人の農民が住み、麦の刈り取りをしていた。灌漑用水路が張りめぐらされ、水が流れているが、畑以外の大地は砂地である。村の外は砂漠で、砂丘が続いている。
道沿いには楊樹が植えられ、夏日哈から20分ほど走ると緑地帯が広がっていた。そこが旧名チヤハンウスと呼ばれた都蘭(とらん)の町である。これまでにもあったが、内蒙古や青海省では、漢民族化、漢文化がすすみ、人名や地名が漢名になっている。
西寧から西南西へ約450キロ走ったツァイダム盆地の東端にある古くからの町が都蘭である。標高3,200メートルの都蘭の招待所で、久しぶりに風呂に入った。しかしお湯が少なかったので身体か十分に温まらず、風呂を出たあと寒くなり、水筒に熱い湯を入れて湯タンポにして寝た。
内蒙古からチベット7000キロの旅㉖ チベット系牧民の生活
9月5日の午後、青海湖南岸の黒馬河(こくばがわ)村まできた。この村の南西の一部が平原になっており、多くの牧民たちが黒テント“バー”で生活している。私たちは、牧民であるドジャさん(74歳)一家を訪ね、2泊3日の許可を得、生活を共にすることにした。
ドジャさんのテントは、ゆるい丘の北麓にあった。家族は夫婦と息子夫婦、それに孫が4人で、三世帯同居の一家である。
ヤクの毛で織る“レー”は、幅20センチ長さ12センチが一体になっている。レーは、縦糸の端を棒に結び、手前から順に横糸を入れて織ってゆく。1人の女性が、朝から晩までかけて約5メートル織ることができる。黒テントは、長さ6メートルのレーを縫い合わせてつくるのだが、大きいもので片側20枚、小さなもので10枚と決まっている。ドジャさんのテントは、両方合わせて40枚のレーを縫い合わせた大きなものである。
テントの中は16畳ほどの広さで、屋根の中央が開いている。その下に土製の長いカマド「クゴワス」があり、乾燥した羊やヤクの糞を燃やす。屋根の中央が開いているのは、明かり取りと煙が外に出やすいためである。テントは、中央に棒を3本、前後に並べて立て、屋根を八方に張っている。
垂れ下かった入口のレーを押して中に入ると、右側が男性や客人が座る場所で、寝具や衣類などが置いてある。左側が女性の場で、食料や水などかある炊事場である。中央のカマドは、後方か高く、すべり台のようになっており、乾いた糞が燃やし場にすべり落ちるように作ってある。
私は右側の奥のカマド寄りに座るように指示され、寝床も同じところで、足を入口の方に向けた。女性は左側に寝る。ドジャさんは、入口に敷いた布団に、孫といっしょに裸で眠った。
9月6日の朝は冷え込みが強く、外気は零度まで下がったのか、薄く霜がおりていた。まだ薄暗い6時に、主婦のソンチージャさん(36歳)がカマドに糞を入れ マッチで火をつけた。煙がテント内に充満したが、燃えはじめると煙は消え、やかんで湯を沸かした。息子のパムータリさん(38歳)や他の大人は6時半に起床した。男たちは洗面器で顔を洗い、女たちは湯にひたした小さなタオルで顔をふき洗った。
7時ごろ「ゴリ」と呼ばれるパンとツァンパ、それに「チャシュマ」と呼ばれるバター茶で朝食。子どもたちは起きっぱしに食べ、後で顔を洗う。4歳のルーザンには、お尻に「ウノゴンボ」と呼ばれる蒙古斑があった。
7時40分、孫のホワンクル君(17歳)とヘモちゃん(7歳)が、ヤクの背にポリエチレンのタンクを2個ずつ載せて水汲みに出かけた。
8時ごろ、ソンチージャさんがヤクの乳を絞りはじめた。長い綱の左右につないだ母ヤクの乳をまず仔に吸わせて、乳が出はじめると引き離して搾乳をする。仔ヤクは、そばでうらめしげに眺める。ひとしきり絞ると仔ヤクが離されて飲む。これは、家畜とともに生きる牧民の生活の知恵である。
彼女は30分ほどで十数頭の乳を絞り、その後、バターを作ったり、発酵乳を作る。8時半ごろには、6歳と4歳の孫がヤクや羊を平原に追い出して行った。私は、10時半から12時半までドジャ老人について、馬上から羊やヤクを追った。
テントに戻り、シュマ茶とパンで昼食。午後は仕事がなかった。4時にお茶とパンの間食をとる。老人は夕方までテントのそばで孫たちと遊んでいた。暗くなる前に、ヤクや羊をテントの前の所定の場所に連れもどした。ヤクは綱につなぎ、羊は放置されていた。息子のパムータリさんは、地区委員をしているので、会議のため、朝出て夕方帰ってきた。
夜は近所の牧民も集まって宴会がはじまった。めったにないことで、女性は青海チベットの正装をし、華やかである。食物は羊肉の水煮と内臓料理。酒は、麦で作った地酒のチャン。
酔うほどに歌が出た。リズムは日本の民謡の木曽節や馬子唄に似ている。彼らは専門に習ったわけではないが、音程がしっかりして、声が大きく美しい。男はみな歌手である。
牧民は夜が早い。普通は9時過ぎると横になるそうだが、11時すぎまで歌った。私は、煙とシラミに悩まされつつ、酔いにまかせ、布団にくるまって寝入った。
内蒙古からチベット7000キロの旅㉕ 壁のできた草原
9月5日の朝、旅行社の招待所から西へ向かった。半島のように突き出たところを横切って江西鎮(こうせいちん)という漢族の村に着いた。1983年以前には人民公社があり、活気づいていたそうだが、今はさびれていた。
しばらく走ると、道は湖岸に近づき、ゆるやかな斜面から草原になった。道沿いには有刺鉄線が張ってある。やがて南側の道沿いに、高さ1・5メートルほどの土の壁が続く。これは軍が経営する農場である。たいへん広大な農場で、機械化している。コンバインでは端の方の麦が刈り取れないので、軍人たちが鎌で刈り取っていた。道の北側の湖岸に近い草原には何百頭ものヤクや、何千頭もの羊が放牧されている。湖岸近くには、チベット式テント「バー」が何十張りもある。
羊やヤクの群が湖に入っている。家畜は1日に1回、午前中に湖水を飲む。この湖水は、現地人でもソーダ分が強くて飲めない。10キロも南の山麓からもやってくるので、午前11時ころは湖岸に家畜があふれる。
青海湖周辺のチベット系牧畜民は、年に3回移動する。9月から翌年の4月までは、山麓の冬用の土の家で生活し、5月から6月までは山の上の夏用の地域でテント生活をする。そして7月から8月末または9月初めまでは、青海湖の草原にテントを張って生活する。
牧民たちは、すでに湖岸から冬用の山麓の場へ移動をはじめていた。このへんの牧民は、9月1日から1週間のうちにすべて南の山麓に移動する。彼らは、衣食住のすべてをヤクの背に載せて運ぶ。馬に乗る者、歩く者、中にはトラクターやオートバイに乗る者もいる。一家族が所有する何十頭ものヤクや何百頭もの羊を追って移動するさまは、家畜を追う人の声、家畜の鳴き声 足の爪音、砂ぼこりなどで活気があり、迫力さえ感しられる。
湖岸の方から南の山麓へ向かうと、道沿いに土の壁が続いている。ところどころに、南への通路がある。牧民たちは家畜を連れて自由に南へ向かうことができず、農耕民によって築かれた土壁や有刺鉄線の間にある通路を求め、遠回りしながら進む。
1959年、まず解放軍という名の軍隊がこの地方に進駐してきた。そして 牧民たちの大地に有刺鉄線を張り、土の壁を築いて境界線を作った。牧民たちには土地の所有観念がないので初めは何を意味しているのか理解できなかった。ただ、移動の通路をふさがれたことに対して抗議した。しかし軍はそのことを認めず、自給自足の名のもとに農業をはじめた。間もなく漢人たちが新天地を求めて移住し、平原の多くを農耕地化した。大農場は軍直営で、小農場は漢人のものであった。
牧民たちにとって、母なる青海湖の水は、家畜とともに暮らすに欠くことのできないものである。その湖が、いまではすべて土壁と有刺鉄線に囲まれている。何度も抗議はしたが、国家権力の前に何も効果はなかった。
彼らの大地は、支配者側からの解放という名のもとに、漢民族の侵入を受け入れざるをえなかった。以前のように自由に遊牧できる草原は、もう2度と戻ってはこない。やはり青海湖畔は漢民族にとって、新しい植民地なのである。
内蒙古からチベット7000キロの旅㉔ 青海湖へ
西寧を午後4時に出発し、100キロ西の青侮湖へむかった。1時間ほどで湟原の町に着いた。道はここから南へ折れた。道沿いに漢族やチベット族、土族などの村がぽつり、ぽつりと点在し、麦やエンドウ豆などの収穫期であった。道沿いの岩山に石を積み上げたラツィ(蒙古語ではオホ)を見かける。すでにチベットのラマ教文化圏に入ったのだろう。
やがて標高が3,000メートルになり、漢時代にチベットとの境であった、石頭山と呼ばれるタコの頭のような岩山が2つ並んだところに着いた。ここから、はるか左前方に新雪の日月山を眺める。このへんは土族が多く、高山裸麦の青稞(チンコー)を栽培している。今は収穫期で、黄金色の麦畑がゆるい斜面に広がり、青い空に映えて、一幅の絵のように美しい。
車はさらに山道を登った。大地に木はなく、こけのような背丈の低い草が一面に生え、モスグリーンー色である。その斜面で、羊とヤクの群が草をはんでいる。ヤクはチベット特有の家畜で、野牛のような動物である。すでに、農地から牧地へと、自然は大きく変わった。
標高3,520メートルの日月峠に着いた。ここは、7世紀ころの唐時代にチベットとの国境であったので、その旨を記した碑が立っている。この峠は土地が赤いこともあって、チベット人たちは赤嶺と呼んでいた。7世紀中葉、唐の文成公王か政略結婚のため、チベットである吐蕃のソンツウェン王(ガンポ)に嫁ぐ時、この峠で後を振り返って、2度と戻っては来られないだろうと泣いたところだともいわれている。
この峠には数年前に、日帝と月帝と呼ばれる記念碑が建立され、観光の名所にもなっている。また、1986年にパンテン・ラマが訪れた記念の大きなラツィもある。
峠から東は急に低くなっているが、西の方は峠との差が少なく、高地になっている。この峠から流れている倒淌河は、青海湖へ通じている。私たちは、その河に沿って東西に長い倒淌河平原を西へ走った。このへんはチベット系牧畜民の放牧地で、羊、山羊、ヤク、馬などが多い。蒙古の草原でも見たことのないほどの数である。そして八角形の黒いチベット式テントや白い三角テントがあちこちにあった。
しばらくの間、暮れなずむ草原に魅せられていたが、ふと前方を見ると、草原の彼方に湖面らしきものか見えた。
「青海湖だ!」
突然だったのでつい叫んでしまった。中国大陸で最も大きな湖についに来た。しかし草原の彼方に広がる湖面は、どこからどこまでか湖なのか、その実体がつかめない。
青海湖の南湖岸に出たのは、それから20分ほど走ってからだった。あまりにも広くて湖とは思えない。まさしく海である。省の呼称の由来にもなっているのだが、内陸にこんな大きな湖があるとは信じられない。道は湖岸近くを、西へ西へと続いている。しばらく走って漁村を通り、青海湖旅行社の招待所に着いたのは9時すぎだった。
招待所にはシャワーの設備はあるが、水も湯も出ないし、テレビも故障していた。中国では田舎でも立派な招待所があり、設備もかなり整ってはいるが、管理が悪いので、それらが機能していないことか多い。文明は簡単に普及し、画一化することはできるのだが、人間の素養や管理能力を教育によって向上させるのは、早くて20年、遅いと100年はかかる。
内蒙古からチベット7000キロの旅㉓ ラマ教のタール寺
西寧から西南方向へ33キロの湟中県(こうちゅうけん)にあるタール寺までの道は舗装されていた。標高2,500メートルにあるタール寺は、ラマ教黄帽派を創立したツオン・カパの出生地である。彼の後継者たちはダライ・ラマとして尊崇され、黄帽派はチベットの国教となり、1960年代まで存続し、今もまだ宗教的勢力が強い。このタール寺は、ラマ教を信仰する多くのチベット族、蒙古や土族などが参拝する聖地でもある。また蒙古族が、蒙古高原からチベットのラサヘ巡礼に行く中継地でもあった。
現在のタール寺は、明朝時代の1560年に建立されはじめ、77年にほぼ一定の規模を備えるまでになったといわれている。この寺の占める面積は40ヘクタール。建物はチベットと中国の技術を結合したもので、特有な風格を備えた殿堂が多い。
タール寺の事務僧と交渉し、明日と明後日の取材許可を願ったが、交渉は難航した。夕方になって、明朝活仏に直接話してくれということになり、仕方なく西寧に引き返した。
翌9月1日の早朝タール寺を再訪した。九時の約束であったが、10時すぎになって事務僧が出勤した。約束の時間を正したら、北京の夏時間ではなく、1時間遅い時間を使っていた。
タール寺には6人の活仏がいる。活仏とは、ラマ教特有の考えで、仏や聖僧などの生まれかわりと信じられている聖僧のことである。チベット語では「ゲゲン」と呼ばれ、寺の中では大変な権威と権限をもっている。
担当の却西活仏に会った。まず、ラマ教徒の習慣にのっとって、ハ夕を差し上げた。大変にこやかな、上品な顔立ちで、権威あふれる雰囲気があった。しかしなかなかの商才で、すべてお金によって許可を出す抜け目のない人であった。タール寺には現在、15歳以上の僧か500人いる。これは、お経を学ぶ勉学僧や管理運営の事務僧、その他の雑役係の労務僧も含めたタール寺全体の住民の数である。
西川さんが旅の途中立ち寄って、泊まっているので、私たちも特別許可を得て、タール寺の招待所に1泊した。なんの飾りもない、四角形の殺風景な部屋は寒々としていた。鉄製の簡易ベッドで、2枚の布団にくるまって寝た。
9月2日、午前6時に起床し、大経殿横の炊事場へ行った。ここでは、五右衛門風呂よりも大きな、直径1・5メートルもある釜で、500人分の頭巴(ドーパ)と呼ばれる肉入り雑炊を煮こんでいた。
午前2時ころから火を入れて焚いていた大釜の中では、米、牛肉、バター、植物の根である蕨麻なとの材料が、すでに形をとどめないほどに煮込まれていた。そして赤い法衣の炊事当番僧たちが、最後に干しぶとうと葱を入れ、大きな長い棒で釜の中を何十回もかきまぜる。そのたびに湯気が立ち、甘い香りかただよう。
6時55分、当番の僧が大経堂の門の上にある鼓楼にのぼり、朝の勤行合図の大太鼓をドンドン叩く。その音にひかれるように、まだ明けきらぬ朝ぼらけの中を、赤い法衣をまとい、ラマ経独特の、船型の黄色いフェルトにトサカのような赤毛がついた帽子をかぶった僧たちが、次々に大経堂に入った。
7時から、低いが伸びのある、よく通る声で読経が始まった。僧たちは、板の上にじゅうたんを4~5枚重ねて敷いた長い台座に並んですわっている。私は、信者たちがすわる入口の床にあぐらを組んだが、尻が冷えた。読経はチベット語だが、日本の僧が読経するリズムと似ているので、違和感はなかった。
僧たちは7時半と8時に、桶に入ったバター茶を、懐に入れて持参している椀に、当番の小僧たちから注いでもらって飲む。中には麦こかしのツアンパをこねて食べる僧もいる。バター茶は、空腹で、しかも寒い時に飲むとたいへんうまい。
8時すぎると、いっそう声か大きくなる。1時間以上もすわって瞑想しているのに、眠くならない。低音のまろやかな読経の声が、まるで鐘の音のように、すみきって脳裡に響く。心が安らぎ、気持ちのよい合唱である。それは、頭上から降り注ぐ光にも似たような、暖かく、心地のよい音色であった。
9時から当番の小僧たちによって、特別料理の頭巴が手桶で配られた。小僧たちは桶を脇に抱え込んで競うように走り、忙しく配るので、まるで戦場のような雰囲気。僧たちは、頭巴を椀に受け、中指ですくって食べる。私も、僧たちに習って、冷たい床に座って、右手の中指ですくい上げて食べた。たいへんおいしく、空腹だったせいか、すべてが滋養になるように思われた。
頭巴を食べ終わると、ふたたび読経が流れ、全僧がともに手を叩き、朝の勤行を終了した。僧たちはいっせいに立ち上がり、脱兎のごとく外に走り出した。そして、経堂の前の大地にしゃがみ、赤い法衣に隠し、座って排尿をする。
僧のいなくなった大経堂の中は静かで、薄暗い空間に、ローソクの明かりに映える仏像がぼんやり見えるだけだった。
内蒙古からチベット7000キロの旅㉒ 道教の北禅寺
西寧市には、北、西、南の3方向から川が流れこみ、西寧河となって東へ流れている。町の北にある北山に“北禅寺”と呼ばれる道教の古い寺がある。道教では、寺を“道観”僧を“道士”、尼を“女冠”と呼ぶ。
北山には、大地が陥没したような岩石が絶壁になっているところがある。下から見上げると絶壁の上は台地になっており、高さが100メートルほどもある。下の方は急な斜面だか、中腹以上は垂直な岩壁である。道観は、その岩壁を穿って作られている。いま修復中で、臨時に設けられた坂道を登った。
「土楼観」と大書された朱塗りの山門をくぐって入った。
石窟の壁には神像が描かれており、線香が煙って、その前で数人がひざまずいて祈っていた。まだ修復中で、残された壁画以外は何もない石窟。
道観を修復している畔宗静(らそうせい)道士(46歳)は、もともと建築技師であった。今から1,400年ほど前の唐時代に建立されたこの道観は、文革中に地元の紅衛兵にことごとく破壊された。それ以来草も木も生えず、訪れる人もなかった。文革が終わって1978年に、彼はこの地を訪れ、荒れ果てた道観を見かねて、草花や木を植えはじめた。やがて道観を修復しようと思い立ち、1980年に建築会社を退職し、ここに小屋を建てて住みつき、道士となって再建を始めた。
やがて83年頃から市民が訪れて寄進してくれるようになり、協力者が増えた。いつしか道士が6人になり、86年からは市当局の金銭的な援助もあり、急速に修復が進んだ。そして88年の今年は、道観に登る数百もの石段が修復されている。これが完成すれば、多くの市民が訪れるようになるという。
この土楼観が建立された唐時代には、国家鎮護の恩典に浴し、道観が官設され、賦役上の特権も与えられたりしたので、経済的勢力となり、貴族化すらしたが、やがて衰微した。13世紀の元朝にも保護されたが、この時にも繁栄腐敗の道をたどったといわれている。
しかし道教は漢民族社会に、広く、深く行き渡り、健康や不老長生を求めて祈祷、まじないを行ない、神符(札)や神像の霊威に加護を祈る風習となって残っている。そして神符や神像は民衆の繁栄と団結の守り神ともされ、多子、富貴、長命などを祈る対象となった。そしてついには、長寿を象徴する福禄寿なるものまで出来上がった。
道教は、文革中に激しく攻撃されたが 一掃されることなく、いまも漢民族社会の生活文化を支配し、社会主義社会と共生しながら、習俗に大きな影響を及ぼし続けている。
北山の石窟を中心とする土楼観からの、西寧の町を見下ろす眺望は絶景である。すでに多くの神像が安置され、神符が貼り付けられ、人びとの心のよりどころとなりつつある。
内蒙古からチベット7000キロの旅㉑ 漢民族と少数民族の町・西寧
北の甘粛省、南のチベット、そして東の四川省、西の新彊ウイグル自冶区に囲まれた高原地帯の青海省は、高原大陸性の気候に属するので、気温が低く、昼夜の温度差か大きい。そして、「年に四季の区別がなく、1日にも四季の変化が見られる」という特徴がある。平均標高3,200メートルもある高原地帯は山あり、谷あり、川あり、湖あり、森林、草原、平原、砂漠、不毛の荒野あり、塩、石油、天然ガス、鉄鉱石その他の鉱物資源などのある、大変豊かな地域である。
高山が多く、氷河や万年雪もあり、川が多く、黄河や揚子江(長江)の源流にもなっている。無人の荒野や湿地も多いので、野生動物の宝庫でもある。省の面積は、72万平方キロメートルで、日本の2倍もの広さなのに、人口はわずか400万人である。
青海地方は、もともとチベット族の居住地域であったが、紀元1世紀ごろ、漢の光武帝時代に、西域の征服に成功し、この地方へも漢民族が侵入してきた。それ以来、漢民族とチベット系諸民族の闘争がくり返されてきた。しかし、1,800年後の清朝時代になっても漢民族の勢力は省の東端のみで、東部にある西寧の町から北、西、南の蒙古族やチベット系諸民族の地域までには及ばなかった。
青海省の主な少数民族はチベット族、回族、土族、サラ族、蒙古族で、人口は154万人、総人口の40%である。これら諸民族の宗教は、チベット、蒙古、土族かラマ教徒で、回族とサラ族かイスラム教徒である。漢民族は一般的に道教や仏教、または儒教徒であった。
西寧は昔から漢民族の町である。標高は2,300メートルもあるが、青海省では最も低い地域にあり、無霜期が4、5ヵ月もある。4~50年前までは、周囲5、6キロもある城壁に囲まれた城塞都市であったが、今ではごく一部が残っているだけで、城壁はほとんど取り除かれている。そして、道や建物が近代的になり、車が走り、人出が多く、人口55万もの都市になった。
高地のせいか、8月とはいえ、下旬にもなると朝夕はもうかなり涼しい。西寧友誼賓館の朝食は8時半から9時半と遅い。ここの日の出は北京より2時間も遅いのである。中国は東西に5,000キロと長く、東部の空か白むころ、西部はまだ夜中である。しかし、公式には北京時間だけなので、青海省の生活時間を時計に合わせると、あまり都合がよくない。ちなみに昼食は1時から2時、夕食は7時から9時半となっている。
午後4時半(現地では2時半)から市内を見物した。旧城内は区画整理され、道が広くなっており、モダンな商店か多く、人出も多かった。行き交う人びとは、上海や北京と変わりないモダンな衣服もあるが、白いベレー帽のイスラムハットを被った男、チベット風の皮の帽子、蒙古服の人など、多民族の町であることがよくわかる。
食堂には「清真」とか「漢族」と入口に標記してある。清真というのは、豚肉を料理しないイスラム教徒の食堂で、漢族とは、豚肉を好んで料理する漢民族用の食堂のことである。西寧は漢民族の作った町であるが、今では多民族が居住しているので、多種多様な宗教や生活文化があり、価値観や生活態度に多様性がある。
内蒙古からチベット7000キロの旅⑳ シルクロードを行く
裟家営から暴泰に戻り、そこから南の蘭州へ向かう。道は舗装されていたので、時速80キロで走った。
蘭州の友誼賓館についたのは、夜の10時過ぎだった。蘭州はシルクロード沿いの町で、有名な河西回廊の入口にあり、黄河の渡し場でもあったので、古くから栄えた町である。紀元前の秦時代にはこのへんまでが漢民族の支配下であったが、漢代に入って武帝が河西四郡を置いて西域との交易基地としたので、たいへん活気のある町であったといわれる。当時は金城と呼ばれていたが、6世紀末の隋時代になって、蘭州と改名された。
今は計画的に建設された巨大な工業都市で 人口は200万以上もあり、労働者が全国から集まっている西域一の町。そして黄河を北から南に渡る大橋がかかっている。
久しぶりの大都会なのだが、先がまだ長いのでゆっくりもしておれず、8月29日の早朝出発し、シルクロードの上にできた道を通って、青海省の西寧まで行くことにした。しかしいつものことながらガソリンの調達ができず、出発は午前11時すぎになった。ここからTBSの東條さんが一行に加わった。
蘭州を出ると、道沿いに梨の木が多く、鈴なりに実をつけていた。木は10数メートルもの高木で、数百年の樹齢に違いない。この洋梨のような果実は、香りがよく、すこぶる味がよい。畑にはじゃがいもが栽培されている。他にはきびやひまわり、大麻なとも少々栽培されている。麦はすでに刈り取りが終わっていた。
30分も走ると西寧への道から北にそれ、永登に向かった。道は庄浪河に沿って走る。紅城ではリンゴが栽培されており、紅い実がなっていた。川沿いには草魚や鯉なとの養殖池があちこちに見られる。
永登の町には、清朝時代に建造された城塞「満城」かあった。石を高く積み上げた堅牢な壁が、道沿いに続いている。
この町でシルクロードからそれて、南西へむかった。山に樹が生えていない標高2500メートルの峠を越した。山中に小さな砦か1つ残っており、狼煙台が3つあった。
山を下りると、砂金採集地で知られていた大通河に出た。河に沿って下ると、やがて谷は非常に狭くなり、川面は100メートルも下の谷底にあった。さらに下ると、甘粛省と青海省の境である古い橋があった。その橋のたもとに、青海省からの迎えが来ていた。青海省山岳協会から派遣された案内人の奨さんや彼の奥さん、それに通訳のヤカレイさん、そして運転手の馬さんたちに会い、甘粛省の人たちに別れを告げて青海省に入った。
西寧から流れている西寧河と祁連山脈から流れ出ている大通河の合流地近くにある町、民和を経て西寧へ直行しようとしたが、民和の町を出て1キロも行かないうちに通行止めになっていた。トラック、バス、トラクターなどが30台も止まっている。もう3時間も止められているという。
中国を旅していると、時々遭遇するのだが、道路工事で、半日も止められる。ひどい時には1日止める。だいたいどこでもちょっと工夫すれは片面通行可能なのだが、工事者たちはそんなことを気にしない。
「工事中、よって通行禁止」
まるで工事最優先のようである。先を急ぐ者にとってこれほど困ることはないのだが、現地の人びとはもう慣れっこなのか、黙って待つ。
1時間後、私は工事現場まで歩いて行った。日本製の四輪駆動車なら文句なく通れる。これ以上待つと日が暮れてしまうので、車のいない左車線(中国は右側通行)を通って進むよう、案内人の奨さんにけしかけた。やっとその気になってくれ、私たち4台の車だけ通ることができた。
こんなことで遅れてしまい、夕暮れせまる山道を急いだ。暗くなって走ると、周りの情景かみられないので 明るいうちにと思うのだが、西寧の友誼賓館に着いたのは、またもや10時過ぎであった。
内蒙古からチベット7000キロの旅⑲ 村人の葬送
裴家営の村で、漢民族の葬儀を見た。土壁に囲まれた家に親族や知人、村人が集まっていた。
「悲しいが、85歳の長寿をまっとうしたので、喜んで冥土へ送ってやりたい」
家人たちの同意を得て撮影が許された。
夫を数年前に亡くしていた老婦人は、風邪をこじらせて寝こみ、昨夕、苦しむことなく他界したそうだ。葬儀は55歳の長男が喪主で、親族の長老たちがとりしきっていた。
土の家の土間に台を作り、そこにふとんを敷き、頭を入口にむけて遺体を置いていた。入口には蒸しパンが山と盛られ、線香と小さな缶ランプが灯されている。部屋の中には2、3人しかいないが、外には5、60人の老若男女が座っている。衣類はまちまちだが、全員頭に白い布を巻いている。
部屋の入口には、男女一対の人形と馬形を引く人形が置いてある。家の軒から布を張り出しているが、その先端には、赤・青・黄・緑・桃色の短冊に文字を書いて束ね、両側に吊るしてある。そして、白紙に「在常徳範」の文字を大書している。庭の台の上にも、大小の白い蒸しパンが山と積まれている。このへんは麦作地帯なので米飯はない。パンにはいずれも、花模様や点々と紅がつけてある。
こうした風習は、漢民族の民間信仰である道教の名残だそうだ。文化大革命中に禁止されていたので、このへんには経文の読める道士がいないそうで、テープレコーダーで流していた。
入口に座っていた白いアゴヒゲの老人が、口の中でブッブツ言いながら、白い短冊を何枚も燃やして煙を立てると、先ほどから泣いていた50歳の娘が、いっそう大きな声で泣き、他の2、3人の女が同調して声高に泣いた。短冊は、冥土へむかう時に使うお金だそうである。馬形は冥土への土産物や食料を運ぶために、三体の人形は従者であるという。
近親の男は、衣類の上に縄をたすき掛けにしている。それは、冥土への食料や土産、お金などを運ぶ馬となる証なのだそうである。
死後のことは誰にもわからないが、生きている者の心遣いによって、冥土への安全な死出の旅かできると信じることは、必ずやってくる死の恐怖から逃れられる方法の一つなのかもしれない。また、その努力によって、心の安らぎと、満足感と存在感を覚える生の証とするのかもしれない。
遺体は、今日1日、親族の弔いを受け、明朝、野辺に送られて土葬にふされ、土饅頭型に盛り土される。そして、肉体は自然に土と化し、魂は子孫へと永遠に続くのだという。
内蒙古からチベット7000キロの旅⑱ 土塊と化した長城のある村
8月28日、今日は400キロ以上も南西に走り、甘粛省の省都蘭州まで行く予定なので、朝8時半、砂披頭の山荘を出発した。
裴家営近くの山
道は未舗装のガタゴト道で、しばらく線路沿いに走った。51キロ離れた省境の村、甘塘(かんとう)につくと、甘粛省からの迎えの車がきていた。内蒙古の案内人たちは銀川まで、銀川からの案内人はここまでである。
甘粛省に入ると道が舗装されていた。12時に景泰の町について、招待所で昼食。このへんでは黄色の瓜が名物だそうで、沿道や街頭で売られていた。買って食べたが、それほどの味でもなかった。しかし喉の渇きをいやすにはビールよりはいい。中国に来て以来、まだ生水は飲んでいない。乾燥しているのでよく水分を補給するが、必ず沸騰したものを飲むことにしている。
昼食後、ここから西北にある裴家営(はいかえい)の村へ立ち寄った。100キロほど走った平原の中にある村は、豚が走り、羊の群がいた。ロバやラクダの荷車があり、古い小さなトラクダが走っていた。このへんでは一番大きな村で、1本しかない道には自由市場があり、野菜・穀物・肉・日常雑貨・衣類・道具類などが並べられていた。ここは、平原につづく万里の長城の南側にある農民と牧民の交流する市場であるが、西川さんが訪れた50年前とあまり変わっていないようである。
裴家営から2キロも北へ行くと長城があり、門のない出入口があった。このあたりの長城は、高さ3メートル、幅2.5メートルの土の壁で、比較的原型をとどめているところもある。東方の北京郊外にある発達嶺の長城よりはるかに小さく、土塊と化したところもあるが、えんえんと続く様は、さすがと感嘆させられる。長城から北を見ると、すでに平原は農耕地と化していたが、家はなかった。
この村の人びとは、今も城南に住み、働くために城北に出る、昔ながらの生活習慣なのである。地元の人びとにとっては、長城は住み分けの境界線であり、漢民族の象徴であったのかもしれない。それを北方の遊牧民から見ると、行動範囲や生活圏を規制するいやな壁であったと言える。
内蒙古からチベット7000キロの旅⑰ 砂漠を緑化する夢
砂坡頭(さばとう)の山荘は、嗚き砂で知られた砂山のふもとの、黄河がたいへん狭くなって、川幅150メートルくらいの岸辺にあった。山荘から見上けると、百数十メートルも上に鉄道の駅がある。観光客たちは、嗚き砂の斜面を駅からすべり下りる。以前は、砂が斜面を流れ落ちるとよく音が出たそうだが、今では客が多いせいか、鳴ってはくれない。
私は、内蒙古オルドス地方のクプチ砂漠で鳴き砂の音を聞いたことがある。斜面の砂を押し流すと、ズーン、ズーンとか、ブー、ブーと鳴るのである。それは、熱い砂が表面を流れ、その下の温度の低い砂層との摩捧音か反響するのである。しかし現地の人びとは、古くからの伝説を信じていた。
「7月7日の夜、オルドス王の廟で、たくさんのラマ僧が念仏を唱えていると、強い風が吹いて砂嵐が起こった。風はなかなかやまず、砂が一夜のうちに、僧もろともその廟を埋めてしまった。砂山が鳴るのは、廟の中で読経する僧の声なのである」。
砂に埋まった寺の話は、中国の西域には珍しくない。むしろよく耳にする。それほどに、乾燥した内陸での砂の威力は、水に勝るとも劣ることはない。
「水を征する者は天下を征する」
中国の古い諺である。黄河や揚子江など、長大な川とともに生きてきた人びとは、水には果敢に挑んできた。しかし、砂漠の砂を征しようという話を聞いたことがない。ところが、ここ砂坡頭にある中国科学院の砂漠研究所では、その砂との戦いに挑み、たいへんな成果をあげている。
砂坡頭は、大いなる黄河が、有史いらい砂漠とがっぷり四つに組んで戦いつづけている地点である。風が吹くたびに無数の砂が黄河に襲いかかり、ややもすると川幅を狭められ、苦境に立たされることもあったが、水の威力で押し流し、背水の陣でなんとか守り通しているのである。そのかわり、年ごとに川の岸は背を伸ばし、今では100メートルも高くなっている。偉大なる黄河でさえ、喉元を締められ、苦しみ、悶え、身を大きくくねらせ、白波を立てて精一杯努力しながら流れつづけている。赤い砂や黄色い砂を大量に飲みこんで流す黄河は、その名のように水が黄褐色に色づいて、きれいな水とはいえないが、一時も休むことなく流れつづけている。水が勝つか砂が勝つか、大自然の営みの中で、天下分け目の戦いは、まだまだ決着はつきそうにない。
砂が群なす砂漠を征しようという夢は、アフリカ・アジア・アメリカ・オーストラリアの各大陸の人びとが、もうずいぶん昔から持ち続けてきた。水と砂が最も激しく戦っているこの地に、砂漠研究所を設置した中国の人びとの征服に対する熱意たるや、なみなみならぬものがあった。そしてついに、世界で最も効果的な方法を、この砂坡頭で発見したという。
その方法とは、砂地に1辺1メートルの四角い枡型の溝を作って、麦ワラや稲ワラを埋めることである。ごく簡単で容易なことのようであるが、これまで知られていなかった方法なのである。ワラを埋めた四角型を、何千何万、何億個と作ると、砂の流れを防ぐのに効果的だという。 中国では、これまでにいろいろな方法が試されてきたが、いずれも効果的ではなかった。ところが、軌道の側にワラを敷きつめることによって砂の流れが止まり、しかも数年後にはそこから草や樹が生えた。研究者たちはこれに目をつけ、改善に改善、工夫に工夫を加えたのが、この1辺1メートルの枡型の溝にワラを埋め込む方法であった。
砂坡頭の線路沿いに500町歩ほどの砂地が孤立してある。いまこの砂漠をかの方法で緑地化する計画が進んでいる。10年後には、草や樹が生え、すばらしい緑地公園になるそうだ。もし成功すれば、世界の砂漠地帯の多くを緑地化することができる。
内蒙古からチベット7000キロの旅⑯ 砂漠と黄河の境
8月25日、日中は熱いので午後4時、銀川から黄河沿いに川上へ向かう。町を離れると緑は川沿いにしかなく、すべて褐色の荒野である。道は、1週間前に開通したばかりの高速道路が100キロ続いていた。かげろうがゆらめき、逃げ水の見える道を高速で走る。
漢民族の運転手たちとの旅もすでに2週間。なかなかツー、カーとはいかないが、なんとかやっていけそうだ。32歳の張さんは解放軍に五年もいたそうで、車の運転はたんへん上手である。しかし、なかなかの頑固者。19歳の孫君は現代っ子でなかなか要領はよいが、まだ頼りになるとは言い難い。
私たちは、必要な言葉だけ漢語で話す。それも即席なので発音が悪くで「チン(止まれ)」、「ソバ(行け、進め)」、「マン(ゆっくり)」、「クワイ(速く)」など、なかなか通じなかった。しかし、旅にも慣れ、旅の目的や仕事の内容が分かりかけてきたせいか、少しずつ協力的になっている。
砂漠の中を流れる黄河は砂をひきずりこみながら流れている。人びとは、それをくい止めるかのように河沿いに緑地帯を作り、わずかな農地を耕して生活している。道から黄河までは1キロもない。道の外の用水路沿いの楊樹(ポプラ)の並木には、もう砂漠がせまっている。
銀川から160キロ離れた中衛の町に夕方6時ごろ着いた。この辺は楊樹の並木の間に水田があり、道沿いにも続いていた。
久しぶりに見る緑の稲田は、懐かしかった。風に稲の香りがただよい、なんともいいようのない心の和みを感じた。よく見ると稲の花が咲いていた。時と場所を忘れ、故郷の水田が重なって見えた。
これまで見てきた褐色の大地には驚きこそあれ、心の和みや懐かしさはなかった。しかし水田の緑と、生臭いような稲の香りは、全身の細胞をかけめぐり、疲労やわだかまりを洗い流してくれた。今まで気づいていなかったが、私の心の奥底にある幸福観や安心感は、稲作の田園風景なのである。それこそが、心のふるさとのバロメーターなのだ。
中衛には良い宿泊所がなく、さらに10キロ進み、黄河沿いの砂坡頭(さばとう)まで来た。ここには中衛観光局の山荘があった。私たちはこの山荘に3日間滞在することになった。