西インド諸島.ドミニカの子どもの遊び調査行③(2002年2月)

歌と踊りのドミニカ共和国

 私は、2002年2月1日の朝、キューバの首都ハバナからカリビアン航空でキューバ東部の町サンティアゴ・デ・クーバに飛び、その日の午後1時に乗り継いで、ドミニカ共和国の首都サント・ドミンゴには午後2時半に着いた。

 ドミニカ共和国の入国時には、3ヶ月以内の滞在はビザ不要で、入国カードとパスポートを提示するだけでよかった。空港のロビーから外に出ると、タクシーの客引きが多い。約30km離れた市中の、予約しておいたエンバハドール・ホテルまで400ペソ(約3,200円)の約束で乗る。途中の街中は交通渋滞がひどくなかなか進めなかった。ホテルに五時に着いてチェックインすると、日本大使館の広報官大田代女史からメッセージがあった。

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サント.ドミンゴ中心街の屋外カフェテリアと古いホテル

 部屋に入って電話すると、通訳兼ガイドの日系ドミニカ人、国松マリさんを紹介され、午後7時にホテルのロビーで彼女に会うようにと指示があった。

 ドミニカ共和国は、カリブ海で2番目に大きいエスパニョーラ島の東側約3分の2を占め、面積は九州と高知県を加えた広さとほぼ等しい4万8,000平方km。国土の北東から南西にかけて中央山脈が走り、カリブ海アンティル諸島では最も高いドゥアルテ山(3,175m)がある。南西部は山が多いが、東部は平原地帯で牧畜業が盛んである。

 人口は約850万人で、首都サント.ドミンゴには約250万人が居住している。人種構成は混血73%、スペイン系16%、アフリカ系11%で、圧倒的に混血が多い。

 翌2月2日は土曜日で快晴であった。午前9時に国松女史と会い、チャーターした車で国立自然博物館を訪れた。広報官の大田代女史が館長のルナ・カルデロン博士(人類学)に9時半の約束を取ってくれていた。しかし、館長は10時まで来なかった。

 館長室でカルデロン博士と1時間半、子どもの遊びや遊び道具について話し合った。

 博士は、少年教育にとって遊びの重要性を説いた。会見に30分遅れたのは、子どもたちが作った素朴な遊び道具を私に見せるため、資料室で集めて持参したためであった。

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子供が作った遊び道具を前にして話す、国立自然博物館長のルナ・カルデロン博士

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国立自然博物館長室でのルナ・カルデロン博士と筆者

 博士は、別れる時、首都のサント・ドミンゴから約25km西にある町サン・クリストバル郊外の村に行けば、きっと子どもたちのいろいろな遊びが見られるだろうと教えてくれた。

 私は、国松女史の案内で11時半からサン・クリストバルの町へ向かい、約40分で着いた。国松女史の案内で、とにかくどこかの村へ行こうということになり、地名も方角も決めないまま車を走らせた。走っているうちに人家か10軒くらい道ぞいにあった。そこで男の子たち5、6名が集まって何かをしていた。車を止めて近つくとドミノゲームをしていた。しばらく見ていると、女の子たちも集まってきた。そこでポラロイドカメラで撮影し、子どもたちが映った写真を一枚渡すと、驚きと喜びで笑いと奇声が起った。すると、大人たちも集まってきたので、ここの地名を尋ねると、「カノヒータ」村で、人口は約300人だと答えた。子ともの野外遊びか見たくてやって来た旨を国松女史に伝えてもらうと、子どもも大人も大笑いした。が、やがて子ともたちか勝手に遊び始めた。

 女の子は、キケノヨエスミ(12)、マリレリ(11)、ホンエンーナ(8)、エフリノ(6)の4人で、男の子はラウル(15)、カルロス(12)、ホセマオリ(10)アマオリ(10)エリェセール(9)の5人。ドミニカ共和国の義務教育は七歳から五年であるので、15歳のラウル以外は皆、初等教育を受けている子どもたち。

  子どもたちは遊び始めると、私のことなど関係なく楽し気に次々と遊びをした。国松女史の通訳で、大人たちに遊びの説明をしてもらった。「ウノ・ドス・トレス・ピサ・コラ」というのは日本のかくれんぼのことで、見ていると分かったが、その他の遊びは殆どが歌と踊りである。「アロス・コン・レチエ(ご飯とミルク)」、「メカイ・デントロ・ウン・ポーソ(井戸の中に落ちた)」、「トド・ロス・トミンゴ・コシノ・ショ(毎日曜日には私が料理する)」「ジョテンゴ」等は頬にキスをしたり、腰ふりダンスをしたりとエロチックな動作でまさしく大人の物真似である。

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カノヒータ村の少年たち

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ドミノゲームをする少年たち

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「井戸の中に落ちた」遊びなどをするカノヒータ村の子供たち

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「ウノ.ドス.トレス.ピサ.コラ」と呼ばれる、かくれんぼのような遊びをする子供たち

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遊びをしてくれたカノヒータ村の少女たち

 ドミニカ共和国といえば、ダンスが盛んでメレンゲ発祥の地で世界的に知られている。また、大変ポピュラーな「バチヤータ」と呼ばれる踊りは、その意味か「どんちゃん騒ぎ、お祭り騒ぎ」である。このように、踊りと音楽は生活に密着した存在であり、文化の中核をなしているので、子どもたちの遊びにも影響している。

 約1時間半も遊んでくれたが、村人が沢山やって来てその内に変な雰囲気になった。国松女史に尋ねると村の大人の数人が彼女にお金を払うよう催促しているのだという。あまり長くいるとよくないとの彼女の判断で、私たちは村を去ることにした。それにしても子どもたちは情熱的によく遊んだ。内容を確かめてノートにメモする暇かない程次々に遊び、笑いころげていた。

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サント.ドミンゴ市内の私立小学校で歌いながら遊ぶ子供たち

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私立小学校の校舎内で遊んでいた子供たち

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市内の私立小学校の子供たち

  翌2月3日は日曜日なので、ホテル近くのミラドール・スール公園を歩いて、子どもたちの遊びを観察しようとした。しかし、曇天であったので午前中は人出も少なく、遊びは見られなかった。その代り、「カージョ」と呼ばれる闘鶏の訓練を1時間ほど見た。ここでは、雄鶏の鳴き声「コケコッコウ」を「キッキリキー」と聞きなすそうである。

 11時ころ、もう一度公園に行くと男の子たちが「チチグア」と呼はれるたこをあげていた。しばらく見た後、旧市街に行き、コロンブス銅像がある広場の自由市場で、長さ10数センチの先住民タイノ族の古い石像を400ペソで買った。売り手は、自信ありげに5~600年前のものだと言ったが確認することはできなかった。

 午後は雨になり、街に人出は少なく、子どもの野外での遊びは見かけなかった。

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ミラドール・スール公園で凧揚げをする少年

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公園の中で遊ぶ女学生たち

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中心街の広場の中を通る若い女

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コロンブス銅像がある、サント・ドミンゴ中心地の広場

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左から太田代女史、野上武久大使、筆者、国松女史(大使公邸にて)






西インド諸島 キューバの子どもの遊び調査行②(2002年1月)

社会主義の国キューバ

私は、2002年1月29日の午後6時25分、ジャマイカ航空の双発機で、首都キングストンから約2時間で、キューバの首都ハバナへ飛んだ。

 キューバに入国するにはツーリストカードが必要だが、出国前に取っていたのでスムーズに入国でき、8時40分には空港ロビーに出た。ハバナ日本大使館から永沢良枝女史が車で迎えに来てくれていた。その車ですぐに旧市街地にある「ホテル・アンボス・ムンドス」に向かった。

 私は、日本を出る1ヵ月前に、私が理事長を務める青少年交友協会の理事・元ロシア大使の渡邊幸治氏に、在ハバナ馬渕睦夫大使を紹介していただき、又、出発1週間前に、知人である元ウズベクとヨルダン大使で、現衆議院国際部長の小畑紘一氏からも馬渕大使を紹介していただいていたので、何度かのFAXのやりとりがあり、事前に意向を伝えておいた。そのため、永沢女史が、キューバの子どもたちの野外遊びを調査する手はずをつけ、明日から2日間のスケジュールを作っておいてくれた。

 キューバは、カリブ海最大の島で、全長1,250km、最大幅191kmあり、面積は日本の本州の約半分に当る11万1000平方km。東西に細長く横たわる島国の海岸は美しく、カリブ海の真珠ともいわれている。国土の4分の3は緩やかな平地で、砂糖キビやオレンジの畑が多い。島の4分の1は山岳地帯で、最高峰は南部のシェラ・マエスト山脈にある標高1980mのトゥルキノ山。

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ハバナ港入り口の海岸

 人口は1,100万人で、白人25%、黒人25%、混血50%と推定されている。公用語スペイン語であるが、ホテルなどでは英語が通じる。

 翌1月30日のハバナは快晴で、気持ちのよい朝であった。ホテルの屋上にあるカフェテリアでバイキング形式の朝食を取りながらハバナの風景を見る。

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アンボス.ムンドス ホテルの屋上から見たハバナの町

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ホテルの屋上からハバナ港側を見る

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ハバナの古い建物

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ハバナの三輪車の乗り物

 午前9時45分に永沢女史が迎えに来て、10時に共産党青年同盟の国際関係担当官で40代のルルテスソーサ女史に会う。そこで伝統遊戯専門家の50代と思えるテレサヘニテス女史に紹介され、野外伝承遊びについて永沢女史の通訳で約1時間半話し合いをした。彼女は大変な弁説家で、休みなく話した。

 テレサヘニテス女史は、現場指導者のノエスチャーさんを交え、全身でまくしたてるように話す。

「その人の顔と目を見れば、子とも時代によく遊んだかどうかがわかる」

 彼女は私を見つめて笑いなから言った。そして野外伝承遊びに関してはキューバか世界で一番研究が進み、実践していると自慢した。

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「ボデギータ.デル.メディオ」国営レストランの入口で永沢女史と女給さん

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世界の有名人の訪問記念写真が展示されている有名な国営レストラン内の壁

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国営レストラン創立者の一人モンゴ.ペー氏(82歳)と筆者

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国営レストランでキューバ料理を前にした永沢女史

 日本では、12年前から毎年、世界各国の専門家を集め、野外伝承遊び国際会議や国際大会を開催している旨を伝えたが、彼女たちは悪びれることなく、遊びの先進国キューバに視察に来たからには充分に説明してあげるとばかりに、大変積極的であった。「それでは、午後3時から子ともたちか遊んでいる現場を案内します」ということで、午前11時半すぎに別れた。

 午後3時に、中央ハバナの「コンセホ・ポプラール・コロン」と呼ばれる所の子どもの集会場を訪れると、テレサヘニテス女史たちがすでに来ており、子どもたちが30名ほど集まっていた。

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コンセホ,ボプラール.コロン集会場前に集まった子供たち

 子どもたちは指導員に追いたてられて外の路上に出た。幅6mほどの舗装した路上しか遊び場はない。指導員たちが路上にロープを張って車の通行止めをした。子どもたちは指導員の笛やかけ声による指示に従って遊んだ。その光景は、50年前の私たちの小学生時代に、運動会の練習をした学校体育によく似ていた。

「これは遊びではなく、体育としての訓練です」

 私が、永沢女史に通訳してもらって伝えたが、彼女たちはその違いが理解できなかった。

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道路上の街頭で、手拍子で遊ぶ子供たち

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円陣を組んで遊ぶ子供たち

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ハンカチ取り遊び

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椅子取り遊び

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ケンケンパ遊び

 約1時間半、8歳から10歳までの16人の男女が楽し気に遊んでくれたが、スピーカーで音楽を流して踊り、合図によって行動し、周囲には街の大人や子どもたちが集まって観ているし、なんだか遊びショーを観ているようであった。

 午後5時前に全員で記念撮影した。明日の午後も別のルードテカを案内するといわれたが断った。

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遊んでくれた子供たち(コンセホ.ボプラール.コロン集会場前で)

 翌1月31日は、子どもたちが学校を終えて家に帰る頃の4時頃から、中央ハバナの街中を、永沢女史の案内で歩いていると、街路樹の下の土の上で遊んでいる男の子たちがいた。尋ねると「コメ・ファンゴ」という遊びをしているという。しかし、その意味を聞いて驚いた。なんと「土喰い」だという。

 これは6~15歳頃までの男の子が、3~6人で遊ぶという。フォークの爪を2本折って1本にしたものを、1回転させて土に刺す遊びで、負けた方が罪として土に刺した小さな棒を口で引き抜く。その時唇が土にふれるので土喰いという名前になったそうである。彼らはオメン(15)、アンデイ(14)、ロエンメス(14)他、5人でこの遊びをしていた。

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街路樹の根元で「コメ.ファンゴ」を遊ぶ子供たち

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フォークの爪を一本にして、土食い遊びをする子供たち

 30分近く見ていたが、他の遊びも見たくて更に町を歩いていると、「トロンポ」と呼ばれるこまを回している男の子がいた。名前を尋ねるとフィデル(12)だと答えた。少年は、ひもでこまを回したり、掌にのせたりしていた。こまは、以前は自分で作る木製であったそうだが、今はプラスチックのものを店で買うのだそうである。彼が遊んでいると、建物の中から5~6人の子どもが出てきて、カンケリのかくれんぼ「ウンドテ・キキリラタ」を始めた。

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トロンポと呼ばれるコマ遊びを知るフイデル(12歳)

 私は周囲が薄暗くなるのも気づかず彼らを観察していた。永沢女史にホテルに戻るよう促されて立上った。昨日の子どもたちの遊びとは違った街中で自由に遊ぶ子どもの遊びを見て心がなごんだ。遅くまで案内してくれた永沢女史には大変申訳なかったと思いつつホテルに戻った。

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街中の広場でボール遊びをする子供たち

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街頭で遊ぶ子供たち

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アメルカの作家ヘミングウエイの「老人と海」で知られたコヒマルのレストランでの筆者

西インド諸島 ジャマイカの子どもの遊び調査行①(2002年1月)

レゲエ音楽のジャマイカ

 ジャマイカは、カリブ海諸島の中で3番目に大きな島国で、北に一番大きいキューバ、東に2番目に大きいエスパニョーラ島がある。面積は約1,100平方kmで、岐阜県秋田県とほぼ同じ広さがあり、人口は約260万。

 1962年にイギリスの植民地から独立し、英連邦に属する立憲君主国で、住民の多くは植民地時代に連れてこられたアフリカ系の子孫で、文化にもアフリカ的な色彩が強く残り、レゲエ音楽の故郷として独特なリズムを生み出している。公用語は英語であるが、パトワと呼ばれるジャマイカ特有の言語も使われている。これくらいの予備知識を得て、ジャマイカへ行くことにした。

 私は2002年1月27日午前8時50分、アメリカのアトランタを発って、ジャマイカ北西部の観光の町モンテゴ・ベイを経由して、人口70万人の首都キングストンに午後一時すぎに着いた。日本を発ったのは26日の午後5時すぎで、アトランタに着いたのは午後3時。12時間の飛行中、食事が2度あった。時差が13時間あり、昼と夜が逆になっていることもあり、時差ボケで眠い。

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首都キングストン空港

 入国手続きを終えて外に出る。日本では摂氏5℃と寒かったが、冬とはいえ25度もあって暖かい。考えている暇もなく、荷物を手にした私にタクシーの客引きが話しかける。20kmほどある町の中心地までは880ジャマイカドル(2,740円)と決まっているというので乗り込む。予約しておいたホテル、「フォー・シーズンズ」には午後2時に着いた。

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キングストンの海岸

 キングストンの情報をもらっていた日本大使館の専門調査員からTELかあり、決してダウンタウンへは行かないようにと念を押された。麻薬がらみの犯罪が多く、1日に2~3人が殺されているので、あまり出歩かないようにとの注意を受けた。

 夕方6時半、ホテルのドイツ系の老いた女性マネージャーに、ジャマイカの子どもの野外での遊びの実態調査をするため日本から来訪した旨を伝え、協力してくれるように頼んだ。彼女はすぐにジャマイカ人の中年男性を呼んで相談してくれた。そして、彼か知人のタクシー運転手に電話をしてくれ、午後8時に、色の黒い、身長180cmほどの男がホテルにやって来た。

 彼の名はマイダス。41歳で、奥さんはアメリカ人、5歳の男の子どもが一人いるという。1時間話し合い、明日から2日間彼か運転手兼案内役をしてくれ、子どもたちが遊んでいる場所を捜してくれることになった。

 1月28日は月曜日で晴れていた。午前9時半にマイダスか車でやって来た。ホテルの近くにある日本大使館を10時に訪ね、約束のとれていた大塚大使と会った。大使館で、キングストンから西へ約1時間走った古都スパニッシュタウンにある民俗博物館に、伝統的な遊びとしてビー玉やコマ、クリケット等の遊び道具が陳列されているという情報を得た。

 私は、マイタスの案内で、午前11時からスパニッシュタウンに向かった。町の中央の古い要塞の中にあった博物館はすぐに分かった。しかし、博物館などといえるものではなく、100年ほど前の生活用品を数十点陳列しているだけであり、遊び道具もビー玉やクリケットの玉と棒が置いてあるだけだった。

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スパニッシュタウン民俗博物館の展示品

 がっかりしていると、案内をしてくれた30代の女性が、午前中の授業を終えて博物館の中庭に来ていた、10数名の女子学生たちに話しかけた。

 彼女たちは、スパニッシュ高校の学生で、12~17歳までの男女の学生がいるという。日本から野外伝承遊びの調査に来た旨を伝え、ポラロイドカメラで撮影し、写真を一枚渡すと大喜びで、私を撮ってくれとポーズをとる。何枚か撮って渡し、名前と年齢を尋ねた。セキュイア(16)、カルン(15)、タニヤ(16)、テイファニ(17)、ドナキー(16)の5人が居残ってくれ、彼女たちがいつも遊んでいる遊びをしてくれることになった。

 彼女たちは地面に枡を8つ描いて、「ホプスコッチ」と呼ばれるけんけんぱ遊びを始めた。20分ほどやっていたが、次には向き合って手を叩き合いながらリズミカルで楽しげに歌い始めた。「ドン・パイ・ザ・リバー」という歌で、5歳以上の男女がよくやる「せっせせ」に類似した遊びである。その後、ジャマイカで女の子に最も人気のある「リング・ゲーム」と呼ばれる、輪になって踊ったり、歌ったりする遊びをした。これは、9~15歳の女の子の遊びで、「ウナミナデシミナウナバシミナ」と歌いながら両手を叩き合い、歌い終わった時に向き合った人と、1人は上から叩き下し、1人は下から受ける形を取るが、下の者がかわせなければ負けで外に出る。最後に残った2人が対決し、上から叩いた方が勝ちで、かわされた方が負けである。なんと1時間以上も遊んでくれ、遅い昼食を取った後、キングストンに戻った。

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手をたたきあって「ドン.パイ.ザ.リバー」を歌いながら遊ぶ女学生たち

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円外にはじき出すビー玉遊びをする女学生

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ビー玉をはじいてあてっこする遊び

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民俗博物館の庭で遊んでくれたスパニッシュ高校の女学生たち

 午後3時30分、運転手が、子どもたちがよく遊んでいるというので訪ねたドニラピン広場には、ドニラピン小学校の沢山の子どもたちがいた。子どもたちは、ここでバスの時間や家からの車による迎えを待っている間に遊びをしていた。ここでは、ホプスコッチ(けんけんぱ)とマーブル(ビー玉)を見た。コミという十一歳の少年は、同級のジェソンと張り合っていたが、ズボンのポケットにビー玉を沢山入れており、私にさわらせて自慢気に笑った。彼によると、この広場で、イースター頃の3~4月になると「ギグス」と呼ばれる木製のこま回しをするし、凧もあげると言っていた。

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ドニラピン広場で遊ぶ子供たち

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ドニラピン広場でマーブル(ビー玉)遊びをする子供たち

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ズボンのポケットにビー玉をたくさん入れていた11歳のコミ君

 マイダスは、もう1つ行くところかあると車を走らせ、4時半にコンクリートの壁に囲まれた街中のチャルトン私立小学校を訪れた。

 この私立小学校は、3歳から12歳までだそうだが、残っている子どもたちは7~12歳までの男女20数名であった。その子どもたちが男女一緒にまず始めたのが、コンクリートの上に枡を描いたホプスコツチであった。子どもたちは、投げ入れる石の代わりに、小さなビニールや布の袋に砂を入れたものを使った。石だと、転がって枡の中にうまく入らないので、砂袋を使うのだという。これは理にかなったやり方だ。 

 男の子たちは、土の上に円を描いて玉をはじき出すビー玉遊びをしたが、女の子たちはしなかった。11歳の頭髪を簾のように編んだアボンという男の子は、ビー玉の技が大変上手で、指ではじいて2m先の玉に当てられた。彼は5人の同級の男の子の中ではとび抜けていた。勉強の方は知らないが、遊びに関しては群を抜いて、天性の才能を持っているようだった。

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チャルトン私立小学校でホプスコッチを遊ぶ子供たち

 

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私立小学校の校庭でビー玉遊びをする少年たち

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ビー玉遊びが得意な11歳のアボン君

 最後に「ダンディーシャンディ」と呼ばれるボール遊びを、男女に別れてやってくれた。彼らは、この遊びが最も楽しいのか、タ方まで続け、車で迎えに来た親たちも見入っていた。私がいると子どもたちが遊びをやめないのではないかと心配になり、6時頃ポラロイドで皆を撮影して写真を渡し、校長に礼を述べてホテルに戻った。

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ダンディーシャンディと呼ばれるボール遊びをする子供たち

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遊びをしてくれたチャルトン私立小学校の子供たちと先生

アクラの市場街 ガーナ

 アクラは、カカオの産地で知られたガーナ共和国の首都で、最大都市でもあり、当時の人口は150万人くらい。

 アクラは、日本人にとっては、黄熱病を研究した野口英世博士で有名で、博士の銅像もあり、立派なアクラ大学もある。

 私が訪れた1970年9月当時は、1957年に英国から独立した13年後で、まだ未発達状態であった。今は近代化した大きな町になっているだろうが、当時の市場はすでに活気があった。

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「FREEDOM AND JUSTICE」と明記された1957年建立の記念塔

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アクラの中心街

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街中にある野口英世博士の胸像

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古いアクラ大学の建物

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街頭に植えてあった葉ゲイト

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アクラの市場で衣類を売る店

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市場で衣類を買い求める人々

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市場で焼き肉を売る店

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市場の風景

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市場で煮物をする婦人

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市場で杵を持つ女性たち

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市場での履物売り

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トマトのようなものを売る女性

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大きな日よけ帽子をかぶってハサミなどの刃物を売る女性

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椰子の葉で編んだ縁の広い日よけ帽子

半世紀前のテマ港 ガーナ

 テマは、アクラ近くの大西洋東端のギニア湾に面した人口10万くらいの町であったが、1961年に港湾が建設され、ガーナ最大の港になった。

 しかし、私が訪れた1970年9月頃には、まだ普通の港町でしかなかったが、漁港は大変活気があり、沢山の漁船が出入りしていた。岸壁には、日本水産(日水)の赤い二重丸マークのついた船も接岸されていたので、すでに日本の漁業関係の船が出入りしていたようだ。

 とにかく、半世紀も前の当時、すでに大変な人出で活気のある漁港であった。

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テマ港近くのギニア湾に面した浜辺

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テマ港沖のギニア湾で漁をする船

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漁船が出入りするテマ港

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テマ港に接岸した漁船と日本水産のマークの付いた舟 船尾に日の丸の旗もたれている。

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接岸した漁船と魚市場

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接岸した船の船員たち

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岸辺だ網を補修する人たち

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漁港に集う人たち

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市場に荷揚げされた魚

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女性でにぎわう魚市場

トーゴの首都ロメ トーゴ共和国

 私はナイジェリアの首都ラゴスからダホメ・トーゴを陸路で通ってガーナに向かう途中、トーゴの南西部の沿岸に位置する首都ロメに一泊した。町中の市場を見ただけであったが、一般的に、日本人があまり訪れることのない国であり町なので、1970年9月当時のロメの市場の風景を写真で紹介する。

 ロメとは、現地語で「小さな市場」を意味する言葉で、人口数は資料がないし、地元民に訪ねても分からなかったが、7,80万くらいではなかったかと思う。

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1960年4月フランスから独立した独立記念塔

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街頭で遊ぶ子供たち

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遊びで高く飛び上がる少女

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街頭市場

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屋根のある公営市場

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公営市場裏の駐車場

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ロメの港

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ガーナとの国境 ゲイトの向こうはガーナ 手前がトーゴ

古都イバダンの子供たち ナイジェリア

 私は、お世話になった日本人の車で、ラゴスから約150キロ北のイバダンの街を訪れた。途中、大蛇の仔を捕えた子どもたちに会い、撮影した。

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イバダンへの道沿いで蛇を持つ筆者

 イバダンはオヨ州都で、人口約200万のナイジェリア3番目に大きな都市。ヨルバ族の中心地であり、カカオやヤシ油などの農産物の集積地として発展した町。標高約200mの丘陵上にあり、19世紀初頭イバダン王国の首都であったこともあり、ラゴスとは町の雰囲気が少々違い、思ったより落ち着いた町であった。

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イバダンの町全景

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トラックを改造した乗り合いバス

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イバダンの市場

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市場にいた子供たち

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市場にいた婦人たちの格好

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器としてのヒョウタンを売り歩く婦人

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市場にいた可愛い少女

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市場にいた少年たち

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看護婦の髪形

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イバダンの動物園にいた珍しい赤毛

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改造バスの運転席にいる筆者





 

日本人の多いラゴスの女性たち ナイジェリア

 私は、1970年9月にナイジェリアの首都ラゴス(当時)を訪れた。ラゴスは、ナイジェリア南西端に位置し、人口は1千万近くもある大都会。西アフリカ最大の商工業の中心地で、日本の帝人やナイジェリアとの合弁会社、JETROなどの事務所もあり、日本人が多く駐在していた。私は、ラゴス在住の日本人に大変お世話になった。

 ナイジェリアの公用語は英語なので、言葉には不自由しないが、ラゴスは大都会なのであまり治安の良い町ではなかった。しかし、アフリカ特有の市場で働く女性たちは明るく活発な人が多かった。何より、女性がどこでも良く働いていた。

 私は、日本人の協力もあって事故もなく、楽しく安全に踏査することができた。半世紀も前の西アフリカを訪ねたので、ナイジェリアとともに、トーゴとガーナも写真で簡単に紹介しようと思う。

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ラゴスの三人娘

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ラゴス中心街に帝人の看板が見える

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街頭で焼きバナナを売る娘さん

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ラゴスの博物館の庭にあった銅像

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街頭で牛の足を売る婦人

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街頭で象牙細工を売る店

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衣服店の売り子の娘さん

 

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市場でのトマト売り

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市場にいた少年たち

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市場の通り

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土器のツボを売る店

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川魚の燻製

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市場での整髪風景
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市場にいた男女

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街中のクラブのような店での筆者

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日本とナイジェリア合弁のガルバメイジング メッキ工場

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私がお世話になったガルバメイジング メッキ工場の加藤社長夫妻

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メッキ工場の守衛さんと筆者

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ナイジェリア帝人の社員と筆者

ガンビエの水上部落(1970年9月)ベナン

 私は、西アフリカのギニア湾に面した旧仏領ダオメー(現ベナン共和国)を、1970年9月に訪れた。ダオメーは南北に細長い小国である。同じ赤道アフリカでも東と西とではえらく違う。東は高地で住みやすいが、西は低地で、湿気が多く、病原菌が巣くっており、ヨーロッパ人に「墓場」「地獄」と恐れられているほど蒸し暑いのである。

 ガンビエの水城部落はこうした自然環境を考えてか、原住民たちはゲタバキ住居を構えて、水上生活をしているという。それを見物せんものと、商業都市コトノオから17キロ北にあるアボタイ、カラピーまでタクシーで行った。

 タクシーを降りると、小さな運河に船着き場があった。カヌーが10数隻もやっているが、大半は浸水して使えそうもない古いものだった。現地語で何人もが私に話しかける。彼らは皆客引きである。

 「ガンビエ」と行き先を叫んでいると、皆がそれぞれ「俺が案内する」と大きなジェスチャーをしてみせる。彼らは盛んに私を奪い合って声が大きい。

 別に選んだわけではないが、いつの間にかカヌーに乗っていた。一見よさそうな、丸木をクリ抜いたカヌーだったが、乗り込んでみると2ヵ所から浸水していた。これは大変と下してくれと言ったが、船頭は大丈夫だとカヌーをサオで押しやった。

 2人のダオメー人がカヌーをカイとサオを操っていたが、トエラ湖まで出ると、木を立てて帆を張った。帆といっても、布を木に張りつけたような簡単なものである。

 1人が歌った。メロディーは日本の流行歌に似ていた。他の1人がカン高くかけ声をかける。どんな意味なのかちっともわからない。

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トエラ湖 遠くに水上部落のガンビエが見える

 草の茂った岸を離れると波があって、カヌーの揺れと、浸水が激しいので、泥船に乗ったタヌキのような気がして心細いことこの上ない。水上部落は遠くから見えていたのだが、30分も走ると、はっきり見えてきた。ガンビエは近づくにしたがって、龍宮城のようなイメージから、水上の砦のように思われた。

 ガンビエとは村名で、ここにはゲタバキの家が水上に300軒ばかりあって、人口は6000人だそうだ。彼らの足はカヌーで、村に入ると小さなカヌーがメダカのように行き交っていた。 

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ガンビエ村の水路

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ガンビエ村の中を見て回る

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丸木舟をうまく操る少年

 村の真中には広い水路があり、そこからいくつもの水路が別れている。袋小路になっている水路もあった。広い水路には色々な物を積んだカヌーが3、40艘集まって、フローティングーマーケットを開いていた。小さな水路では、女がカヌーを操って商品を一軒ずつ売って回っている。しかし、売り手も買い手も話に花が咲いて、売っているのか買っているのかわかったものではない。そんな彼らの側を通ると、話をやめてみなが私を珍しげに見る。いや妙に排他的な表情で見るといった方がよいのかもしれない。多分、長い歴史上で、部族闘争から逃がれて、湖の中のこの地に理想郷を築いた彼らは、他部族との交流が長い間途絶えていたのであろう。

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舟で物を売る女性

 村の中にはところどころ地面が見えていたが、そこには黒ブタがいた。乾期には水位が下って、もっと地面が露出するそうだ。

 ブタが水面に出た草や、人間の排出物を喰っていた。鶏だって、山羊だっている。

どうして家畜がこんな狭い大地に飼われているのだろう。ノアの箱船の中にも家畜がいたと伝えられているが、家畜とは人間の住む環境にならされてしまうものなのだろうか……。

 高床式の家はカヤで屋根をふき、台の足は木であり、床はヤシの枝(竹のようである)を並べて結び、その上にアシのゴザを敷いていた。小さな窓があるだけで室内には何の装飾もない。ほとんど裸で暮らしているので衣類を入れる箱もない。食料は魚だから食物を貯蔵するところもない。ただ、火をたく七輪のような物とナベ類があるだけである。

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水上の高床式の家々

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投網を干す家

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家の中に座っていた男

 漁師である彼らは投網で魚をとって、湖岸のアボニーの町で穀物と交換する。まるでカッパを絵にかいたような生活をしているが、頭に皿はない。

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魚を追い込む水中の囲い

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投網を上手に投げる少年

 村には雑貨屋が数軒あった。カヌーで買いにくるので店は水際の一階にある。カヌーから手をのべて買い物する水の都ベニスよりも童話的な光景がよく見られた。しかし、子供はカヌーで私に近づき、網を投げるから写真を撮れと自分に指を差す。カメラを構えるとすぐに手をさし出して金をせびる。

 この村には2年前にバーができた。観光客用にコーラやビール、土産物を売っているのである。中に入って、2階の広い窓からこの村を眺めてみると、やっぱり童話的であり、龍宮城を夢想する。

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水上市場

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捕魚用の木材を売る人たち

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水上の家の一階の店

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丸木舟に防腐用のペンキを塗る人

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ガンビエ村の少女、彼女はモデルではなく普通の少女

 しかし、すぐ現実にかえってしまう。太った女が両手を開いて、白い歯が飛び出しそうな大口をあいて、笑いながら何かいっていた。意味はわからないが。土産物を買えといっているのであろう。大きな褐色の木の実と小さな貝で作った美しい首かざりがあった。これを作るには多分1人で2、3日はかかるだろう。欲しかったので値段をきくと初めは600円だといった。高いので値切ってみると200円まで値下げした。

 もうここも秘境ではなかった。文明国から、アフリカの原始性を求めてやってくる観光客が、彼らにいやらしい金の価値を教え込み、微笑をもって高く売ることとモデルになることを知らせていた。

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ガンビエ村の製粉場

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ガンビエ村にできた観光客用の店

 東アフリカのナショナル・パークの野獣も、キリマンジャロ登山も、ガンビエの水上部落も、20世紀の文明や文化が産み落とした観光客というゲリラにアタックされ、日に日に変貌している。

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ダオメー(ベナン)の町の子供たちと筆者

イソカ刑務所の中で(1966年12月)ザンビア

 タンザニアの首都ダルエスサラームから,1,000キロ以上も離れたタンザニアザンビアの国境ツンヅマ村まで、バスやおんぼろトラックの助手台に便乗してやって来ると、タンザニア側に国境警備兵の大きなテントが2つ張られ、兵隊が鉄砲を抱いて坐っていた。エメラルドブルーの空の下、モルタルに柿色の屋根瓦がのっかっている家があった。その家の真中に国境線が引かれ、タンザニアザンビア国のオフィスが向かい合っていた。

 私は、タンザニアは無事出国したが、ザンビア入国証明の移民官のサインがもらえなかった。正式な訪問ビザをケニアのナイロビニにあるザンビア大使館で取得していたのだが、移民官はそれを認めず、保証金150ザンビアポンド(15万円)を払えば、入国を許可すると言った。しかし、私か持っていたアメリカドルを決して認めようとしなかった。銀行もエクスチェンジャーも何もない国境では金の交換のしようがなかった。移民官はそれを百も承知の上で、故意に不可能なことを要求したのだ。それは入国拒否を意味していた。その晩はオフィスの白い国境線上に眠った。

 ザンビアは、1964年10月の東京オリンピック大会の開催時に、イギリスから独立したばかりのまだ新しい国なので、法律などは植民地時代のままのようだ。

 翌日もだめだった。何とかしてザンビア入国を達しなければ、南に向かう道がなかった。もう何度もトライしていたが駄目だったので、午後2時過ぎにリュックサックをオフィスに置いたまま国境線を越えた。

 国境から数百メートルのところにガソリン運搬用のトラックが5、6台プールされ、家が数軒見えていた。あそこなら米ドルをザンビアポンドに換えてくれるかも……。カメラとショルダーバグを肩にかけて100メートルばかり歩いた。赤土の道路を、猛スピードで1台のジープが近づいて来た。2人の国境警備員が移民官の命令で、私にライフルをつきつけ、ホロのかかった車の後部に私を押し込んで、ナコンデの警察署に連行した。

 国境を撮影し、ザンビアに無断越境したこともあり、スパイ容疑とのことで、その2時間後、ナコンデから100キロ離れたイソカの刑務所に、移民官用のジープで荷物も一緒に連行された。

 1966年12月17日午後6時、私はイソカ刑務所に投獄された。ジャングルを切り開いて、1962年のイギリス植民地時代に建設されたイソカ刑務所は、高さ4メートルもの2重の有刺鉄線網に囲まれた、約1,500平方メートルの広さだった。

 入口にオフィスがあり、広庭をはさんで獄房が2舎、その他に公衆便所(シャワーもある)と炊事場があった。荷物は全部検査され、貴重品は紙面に記載された。

 スパイであることが確認されると銃殺刑になると脅され、靴もベルトも取り上げられて、小房に投げ込まれた。1人ではなかった。3畳ぐらいの中に先客が2人いた。彼らは隣国マラウイ人だった。2人は身分証明賞を持っていなかったので投獄されていた。床は朱色のコンクリート、壁は白い、奥の方の床に3個の小さな穴があり、天井は金網、扉は板だが、とても頑丈そうだ。その横に、1メートル四方の鉄格子があった。米飯と水がその窓から入れられた。冷えて硬くなり食えるようなものではなかったが、昨日の朝食以来何も食べていなかったので口の中に押し込んだ。2枚の毛布が与えられたが、それだけでは寒かった。

 鉄格子から外を見ると、自転車に乗った男が横目で見て通った。ジャングルが続き、遥か向こうに一直線の大地が見えた。刑務所の周囲の畑には草が繁茂していた。2重の有刺鉄線網の間に入れられている右羽根の折れた一羽のカンムリツルが、悲しげに夕空に向かって鳴いていた。

 入獄2日目にオフィサーに交渉し、小房は3人では狭いからと大房にかえてもらった。 

 大房はタテ8×ヨコ16メートルの長方形で、1メートル四方の鉄格子窓が8カ所所あり便所つきである。天井はコブラよけをかねた金網だ。この辺は猛毒を持った大変危険なブラックコブラが多く、時々家ネズミを追って天井に這い上がったのが落ちるそうだ。私も獄内で1匹叩き殺した。屋根は陽が照るとバリバリ音のするトタン板である。  

 海抜1,000メートルもあるので、アフリカと言えども、夜中はとても冷え、日本の11月中旬の気温である。でも昼間は9月中旬のように暖かかった。囚人は麻の厚いシャツと半ズボソを支給されていたが、昼間はたいてい上半身裸。囚人(全員で32人)の半数は素足であるが、半数は自製のゴム(自動車のタイヤ)ゾーリを履いている。また数人はヨーロッパ人が使用したものと思われる、足先がみえる古い軍靴を履いていた。

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20日近くも暮らした獄房の中で、夜私がハーモニカを吹いている様子

 囚人は皆チヂレ髪で、皮膚はあくまでも黒く、唇は厚い。顔の中央部にあぐらをかいた鼻は大きく、白目は血走っていた。笑うと真っ白い歯が見えるが、近くでよく見ると、私の歯より白くはなかった。肌が黒いので、白が鮮やかに映るのだ。囚人は誰一人として歯ブラシを使わない。生木の枝か、青い雌竹を噛みくだいて使うか指で歯を磨く。彼らは歯ブラシなる物を使用する私を珍しげに見た。そして、吐き出された練り歯磨きの白いアワを見ておったまげていた。

 私は天を仰ぎゴロゴロッと音高くのどを鳴らしてうがいをするが、彼らは歯と歯の間に水を通し、変な音をたて、そしてパッと水を吐きだした。私は両手で洗面するのだが、彼らは片手で洗面し、しかも不思議なことに洗面の後、顔に石鹸を塗った。シャワーを浴びた後などは身体全体になすりつけていた。なぜそうするのかを尋ねてみたが、誰も教えてくれなかった。多分クリームの代用かなんかのつもりなのだろう。

 彼らはよく髪を刈り合う。ハサミで刈られた髪の量は非常に少ない。

「どうすればおまえのように髪が長く伸びる?」。ある囚人が私の頭の毛を見て尋ねた。

 黒い肌に堅いチヂレ毛の人間の中にいる、黄色い肌と長い黒髪の人間は彼らにとっては突然変異なのだ。アフリカにいる限り、すべてがアフリカ的なのであって、私の日本人的特徴か彼らには先天的ではなく、後天的と映るのかもしれなかった。私の長い黒髪に触った彼らは、「たぶんヘアークリームをつけているからだろう」と言った。

 囚人の娯楽として、1台のトランジスタラジオとドラフトゲームのワンセットがあった。ラジオから陽気なアフリカソングが流れると、囚人の大半が早朝であろうが深夜であろうが、腰を振ってツーステップを踏んだ。彼らの踊っている姿には獄内にいる暗さはなかった。非常に明るく伸び伸びした零囲気があった。

 午前6峙に房の扉が開かれ、囚人はいっせいに洗面する。その後で砂糖気のないココア湯が、コップ1杯支給される。朝飯がないので、囚人は前夜の半分残しておいた米飯にココア湯をかけて手づかみで食う。

 午前7時に朝の点呼があるので、全員広庭の中央に半円型に集合した。囚人は獄外労働の指示をうけ、7時半に監視人つきで獄外へ出て行く。私は獄内の便所掃除。大房と、広庭にある公衆と、小房の中にある女性用便所を、毎朝毎朝水で洗い流すのが任務だ。便所掃除の後は、午後6時15分前まで、獄内でのみ自由時間だった。

 昼食は、「シマ」とベンバ語で呼ばれる、トウモロコシの白い粉を煮た物が主食。カペンタ(ベンバ語)という乾燥小魚とキャベツやトマトを混ぜて煮た物が副食。

 夕食は、米飯が人間の頭ぐらいの大きな皿にもられるだけで、副食は何もなかった。時々煮豆が添えられるが、塩味で美味くなかった。こんな食生活で獄外労働もさせられている囚人が、何か月ももちこたえるのは信じられない。私は20日間の獄生活で、糖分欠乏と栄養失調にかかってしまった。

 6時15分前に房に監禁される。房の中では囚人用のラジオを聴いたり雑談したり、1個のランプの灯りで、ドラフトゲームを数時間する。すぐ寝る者もいたが、私のハーモニカを聴いている者もいた。そのあと、日本語を教えたり、歌を教えた。彼らは英語を話すので、言葉には苦労しなかった。

 12月17日に投獄されたのだが、2週間経っても何の連絡もなかったので、ほんとうにスパイ視されているのではないかと心配になったが、12月30日になって、翌年1月3日が裁判日と決定された。

 イソカ警察署の前にある一軒のバラックが裁判所であった。天井の厚紙は2ヵ所めくれ、数ヶ所雨漏りのしみがあり、窓ガラスが3枚も割れていた。

 1月3日には判決が出ず、5日に再度法廷に立った。とにかく弁護士なんかいないので、知っている単語を総動員し、自分自身で矢継ぎ早に弁護した。判事は、恐れを知らぬ日本人旅行者ががなりたてるのを見て苦笑していたが、裁判は終始有利に展開した。

 「いかなる条例や前例に照合しても、被告を有罪とするにあたわず、よってここに被告が無罪であることを宣言する。被告を直ちに釈放すべし」

 ゲルマン法によって裁判された私は、判事から無罪を言い渡された。20日目にようやく無罪放免となり、自由の身となった。

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無罪放免された1月5日、イソカの町から元の国境までこのジープで移送された。

 

ゲリラの国境に日本企業(1970年8月)タンザニア

 私は1970年8月、タンザニアを訪れ、首都ダルエスサラームからバスで12時間半、ガタゴト道にゆられて、国境の町ムトワラに着き、降りた所で褐色の青年から声を掛けられた。

「お前は日本人か?」

 5~6,000人の中国人が中国本土からやって来て、軍事教育、農業技術指導、タンザン鉄道建設に働いているタンザニアでは「日本人か?」と聞かれることは、まずなかった。たいてい、「中国人か?」と問われるほど、北京との関係は密接だし、中国系の会社も数社進出している。政界人の往来も激しく、新聞にも毎日のように、中国の文字がのっている。そんなところで、まず、「日本人か?」と聞かれたのには驚いた。

 日本人と分かると、半そでシャツの男は、私のナップザックを肩から引き取って、オンボロのタクシーの中に荷物を投げ入れた。こちらの旅の目的は、タンザニアと南のモザンビーク国境付近で戦闘を繰り返しているゲリラの取材で、政府の許可もとらず、旅行者と偽ってやって来たのだ。下手に動けばアブハチとらずになる。

 運転手に問いただすと、「日本人がたくさんいるので、そこに案内する」という。情報は一切なかったので、はてな?と思ったが、日本人のところならと、運転手に任せることにした。

 ムトワラは、インド洋に面し、モザンビークとの国境に近いタンザニア最南端の町である。ザンビアで産する銅の積み出し地点として、18年前にムトワラ港が開港したが、現在は首都ダルエスサラームから積出されるため、それも廃港になってしまった。とにかく雨期には3ヶ月も交通が途絶え、野菜をはじめとした食料品が3倍、4倍と値上がりするという辺地である。

 タクシーが町を抜け、ポツンポツンと家のある夕暮れの中を走って、着いたところには明々と電灯がついていた。この町にはふさわしくないほど大きい、L字型の3階建てのビルだった。

 「だんな、ここですよ。ここには日本人だけが住んでいますよ」という運転手に、5シリング(約250円)を払った。

 ここが「ムトワラ・カシュー会社」だった。声を掛けると「ハ~イ」の声とともに、思いがけない若い日本人女性が出て来て、「まあ、お入りなさい」と、夢でもみているような、信じられない気持ちで招き入れられた部屋は、食堂と娯楽室になっていた。やがて、ゼネラルマネジャーの坂下敬次郎さんが現れた。

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ムトワラ.カシュー会社の入口

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カシューナッツを干す社員たち

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工場内に干されているカシューナッツ

 「こんな所に来る日本人は、まずいないんだが・・・」と不思議そうだ。ゲリラの取材に来たと言うと、「そうですか、今は平穏ですが、10ヶ月ほど前までは、時々この町でも機関銃の音が聞かれましたよ。国境では、かなりやっているそうですがね。まあ住んでいると、たいしたことはないですよ」

 夕食をご馳走になったうえ、ここに泊めてもらうことになった。この町には、ホテルと名のつくものは、植民地時代からの古びたのが一軒、海岸にあるだけだから、このご好意が身に染みた。

 翌日、坂下さんの案内で、会社を見学させてもらった。

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カシュー工場内で働く社員たち

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カシューナッツを選別する女子社員たち

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カシューナッツを選別する社員たち

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選別されたカシューナッツをさらに乾燥させる作業

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カシューナッツを選別する若い女性社員

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臨時雇用された村人たちのカシューナッツ選別風景

 ムトワラ・カシュー会社は、タンザニア政府と日本のカシュー株式会社(本社 東京荒川区)が、50%ずつの出資で1968年2月に創立され、資本金は1億5000万円。条件は、10年間は日本側の権限を認めるが、それを過ぎるとタンザニア政府のものになるというものだ。1年の準備期間を経て、69年2月に操業を開始した。機械50台を導入して、年間3,500トンのカシューナットを処理する。計画では71年に150台、73年には400台に増設し、処理能力も年間2万トンに達するという。

 設備費は円クレジットで、約8億円の機械類が日本から持込まれており、会社の重要ポスト、技術者は全部日本人で、現地人の指導・教育にあたっている。日本人社員14のうち、44歳の坂下さんら4人を除くと、みんな20代。短大を卒業したという紅一点が22歳だった。

 事務員は日本人2人に現地人7人。常雇従業員245人、臨時雇350人で人口2万のムトフラの町唯一の会社である。町の人は、家族や友人、知人が会社で働いていることを自慢するくらいで、町の人口の半分が会社と何らかの関係を持っていると言えそうだ。だからこの町だけは、中国人より日本人の方かよく知られているわけだ。

 こうした特殊な町の条件を考慮したのだろう。タンザニア政府の労働局は、日本人に次のような誓約をさせている。

 「会社の地位を利用して、現地の女性をかどわかすことは相ならん。もし女性に対して権力を乱用した場合は、罰金または追放とする」     

 この地方は、早くからアラブ人と混血しているので、肌も褐色で、目をひく美人もいる。そのうえ”お達し”などご存じない女性は、日本人にしつこく接近する。セックスに関しては、とにかく自由である。第一、戸籍がないのだから、世界一のフリーセックスといえそうだ。

 プロポーションも、日本女性顔負けで、学校出の娘はシャワーを浴び、オーデコロンをふりかけ、ミニスカートでおめかししている。2ヶ月もすると、こちらも違和感が消え去るのだが、何しろ“誓約”があるので、町で女性をくどくわけにはいかない。若い社員が、「たまらないてすね」と、もらすのも無理はない。

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村の若い女

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臨時雇用された顔に刺青のある女性

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顔に入れ墨のある美女

 この会社には450人もの女性が毎日働いており、その中には顔にイレズミをした娘もいるが、びっくりするような美人もいるのだから。

 女性が働いて賃金をとるのは、この町では初めてのことだそうだが、労働局の干渉もあって、当初の予定より賃金は上回っているという。それでも従業員で12年の教育をうけた者の月給が約17,000円。5年の教育では最低賃金か月7,200円。カシューナットの選別の臨時雇用で、1キロにつき25円。よく働く者で1日12キロというから、日給の最高か300円程度ということになる。

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ゼネラルマネージャーの坂下敬次郎さん

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臨時雇用者の給料受け取りの列

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臨時雇用の村人たち

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臨時雇用者への給料渡し風景

 原料は農民が1トン45,000円で組合に売り、組合は大きな倉庫を構えているので、会社はトン当たり55,000円で、必要に応じ買入れている。ムトワラ地域のカシューナットの生産は、年間7万トンで、原料は豊富だが、良品は50%というのが問題のようだ。

 生のカシューナットの24%が食用となり、14%がカシューオイル(ウルシの代用)として製品となり、残りはカスとなる。ムトワラ・カシュー会社の食用ナットは、米国、ヨーロッパ、オーストラリアの順で輸出されており、日本は第4番目となっている。大部分が製菓原料となるが、日本の店頭で見かけるのは、良品ばかりで、お値段の方も現地の4、5倍になっているようだ。

 カシューナットの殼は堅い。いままでの工場は、焼いて殼をつぶすか、たたくかだったか、この工場では、オートメーションの機械が、中の実を傷つけないように殼を切りさいていた。

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選別されたカシュウナッツを計量する風景

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カシューナッツの製品をトラックに積み出すところ

 「現地人に、最先端をいく機械の扱い方を教えるのは大変ですよ。でも教えれば覚えてくれます。しかし一度故障するとなかなか直せない。原理がわからないからでしょうね」と技術指導者が嘆いていた。

 「10年以内に投資した金は取り戻し、相当の利益かあがると思います。損はしませんよ」と、坂下さんは笑った。

アフリカの辺地で、しかもゲリラで緊迫する町でも、日本の会社が企業戦争に立ち上がっている冒険的・開拓的なゲリラ精神こそが、経済大国日本を築くのだろう。

 私のゲリラ取材は、どこでどう道を間違えたのか、安全で、しかも言葉の通じる日本人の会社取材に終わった。

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カシューの木になったカシューの実

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ムトワラの村人たちと筆者

野生のゴリラを求めて②(1970年8月)ルワンダ

7匹のゴリラとの対面

 翌日はだめだった。新しい巣や糞を見つけ、跡をつけてみたがとうとう発見できなかった。

 3日間ゴリラ探索をしてわかったことは、午前中に発見しなければ午後は雨と濃霧でどうしようもないことだった。8月中旬には全くきまったように、午後になると海抜3,000メートルのビソケ山中腹は濃霧がたちこめた。

 乏しい体験から、ゴリラの1日の移動距離は数キロにもおよぶことがあるが、朝食の時からその直後は移動距離が小さいのでなるべく早朝に発見すればよく観察できると思い、翌日は五時半に起きて、夜明けと同時に山に入った。

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左からガイドのガシグワ ポーターのブツル 通訳のセフング

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急斜面をよじ登るガイドのガシグワ

  登っている途中で、現地人が山の中で放し飼いしている大角牛に出合った。草が揺れる度にゴリラではないかと立ち止まった。草を突きわけてグワアーと出てくるのは、1メートルもありそうな大角を2本持った牛だった。

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途中たびたび出会った大角牛

 私たちはより新しいゴリラの巣や、糞や通り跡を追って斜面に生える草の中を歩いた。私の前を行く食料を持ったブツルがその大草の中で何かを踏んづけて滑り転んだ。すると黒っぽい大地から白い物がポコリと顔を出した。それを手で掘り出してみると、ゴリラの頭蓋骨だった。骨は土で汚れていたが、食料を入れている袋の中に入れてブツルに持たせた(これは日本まで持ち帰った)。

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ゴリラの古いねぐらと糞

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ゴリラの通った跡

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ゴリラの新しい糞

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ゴリラの糞

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山で見つけたゴリラのづ骸骨

 天候はこの2、3日間どうもすぐれなかった。今日は朝から曇って太陽が顔を見せない。湿度が高く、湿気の多い地肌を踏みながら歩くのは楽ではない。

 私達は午前九時頃、もっとも新しい草や木を集めて作った巣を六個発見した。周囲には一時間ほど前に喰ったであろうセロリの皮や、喰い残しがあり、まだ暖か味がありそうな糞がころがっていて、ゴリラのカビ臭い甘ったるいような独特のにおいが漂っていた。

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ゴリラが食った野生セロリーの皮

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ゴリラの新しい糞

 いる、この近くにいるなと緊張した。ポーター達も緊張した。

 彼らが恐れて前に進まないので、自分が先頭に立って歩いた。ゴリラの通った跡がはっきりついており、新しい草が折れたり、踏み倒されたりしてその進行方向はすぐにわかった。

 呼吸を整え、静かに耳をすませて、3度も4度も咆哮を聞いた。100メートル程の距離があるようだったが、草の丈が高くその姿は見えなかった。我々は少しずつゆっくり歩いて再び小さな谷に出た。もう近くにいるはずだった。10分程待っているとかなり近くで咆哮がした。

 斜め上の6、70メートル先の草が揺れていた。そこにゴリラがいるものと、我々はもう少し上に登って、40メートル位左に進んだ所の木に登った。

 ついに野生のゴリラを7頭見つけた。20メートル程右前方の草の中に座って、まるで一家族のようにぐる輪になっているゴリラを見た。

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草むらの中にいるゴリラ

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草むらに二頭見える

 私は樹上のテッペンに立った。樹の上の枝や葉を重ねた古いゴリラの巣にカメラとテープレコーダーを置いて、しばらくじっと彼等を観察した。その間に2匹のブラックバック(若いゴリラ)が何度も立ちあがって、両手で胸を叩くドラミングの音が聞かれ、カン高い張りつめたような咆哮を聞いた。

 ポンポンと手を3度叩き、ボコン、ボコン、ボコンと胸を6、7回叩いて、10秒ほど間を置いて、ウォーウォーウォーと咆哮する。手を叩き、胸を叩き、咆哮するのはおどしているようでもあり、からかっているようでもある。私にはゴリラの咆哮が3通りに聞こえた。ウォーと長く激しく、そしてウォと短くはき出す。それにウーアーと甲高いアクセントがあまりないやつである。

 グループの中の1匹は、見張りのつもりだろうか、近くの木によじ登ってこちらを見詰めた。そして『V』の字型になった幹に大の字になって両手両足を踏ん張った格好は、愛嬌のある態度だった。通訳のセフングやポーターのブツル、ガシグアが木に登ってくると、彼等は草の陰に隠れて頭だけ出してこちらを見ていた。

 写真撮影にはまだ遠すぎるので、もっと近くの方にいこうとポーター達をせきたてたが、彼等は危険だと言って、どうしてもこれ以上接近しなかった。相手が七頭いるので駄目だと言う。仕方なく1人で登りかけたが、7対1ではどうも気持ちが悪いし、自信がない。それにまだゴリラの習性をよく知らない。

 木に登ってカメラを持った私を、木に登ってこちらを見ているブラックバックが首を伸ばして不思議そうに見ていた。こいつは物好きで、冒険好きのゴリラなのか、幹を片手でつかんで、片手片足を宙に浮かせてプランプランやってみたり、頭をゴシゴシかいてみたり、枝の間で大の字になって見せたり色々なことをする。まるで私をからかっているようでもあり、私の真似をしているようでもあり、長い手でおいでをしているようでもある。が、私に向かって帰れ帰れと手を振っているようでもあった。

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木俣にいるゴリラ

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草や木の陰に数等のゴリラが見える

 ゴリラを発見してから40分もたった10時半すぎにはガスがたちこめ始めた。写真撮影にあせった私は何とかうまく撮影しようと、邪魔になる枝をグイと引き寄せた。それを木の上で見ていたブラックバックは木から飛び下り、「ウーアー」という咆哮を一声残して去った。と同時に他のゴリラも上に登り始めた。

 初めは何でゴリラがあんなに急いで木から下りたのかわからなかったが、かなり大きな枝(直径6、7センチ)をグイと引き寄せたので、私が怪力の持ち主だと思ったのか、攻撃されると考えたのか、とにかく大きな枝を引き寄せたのが原因のようだった。

 長い興奮からさめて周囲を見回した。自分が霧に包まれたアフリカの大自然の中にいることを今更のように感じた。もうこれ以上ゴリラの棲む原始郷を自分勝手に歩き回ることはよそうと思いながら樹を下りた。

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ウガンダの動物園で撮影した若いゴリラ

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ゴリラの新しい寝場所を見る筆者

野生のゴリラを求めて①(1970年8月)ルワンダ

ビソケ山のゴリラ探索

 ウガンダの首都カンパラに滞在中、ルワンダ共和国のビソケ山中に野生のゴリフが棲息しているという確かな情報を得た。カンパラからバスとタクシーとトラックの乗り継ぎで、中央アフリカの奥地まで1人でやってきた。

 アフリカ中央部の旧ベルギー領ルワンダ共和国は、山の多い国で平野は少なかった。首都のキガリは人口僅か2万だが、各国の大使館や領事館もあり、国会議事堂まである一国の立派な首都である。

 キガリからルヘンゲリ行きのおんぼろバスに乗った。ルヘンゲリの町はトタン屋根の家が4、50軒道に沿ってあるアフリカの田舎町。マーケット前のインド人経営の店に入って色々尋ねた。この店の若いマダムは非常に親切だった。彼女はウガンダの首都カンパラで生まれ育ち、教育を受け、4年前にこの町に来たのだそうだが、なんと英語、フランス語。ヒンズー語、スワヒリ語、それに現地のルワンダ語を話し、大変な日本びいきで、アジアの代表国だなどと私を喜ばせてくれた。そして、この町にいるインド系の有力者マンガン氏を紹介してくれた。彼は車を3台持っていた。彼も大変親切な人で、私に彼の家の一部屋を提供してくれ、車まで貸してくれることになった。

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ルヘンゲリ市場

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市場で豆を売る女性

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たばこのパイプをくわえて玉ねぎを売る女性

 現地で野生のゴリラをまだ見たことがないというマンガン氏と其の他のインド人の協力で、ルワンダの農林自然保護局ルヘンゲリ支所からビソケ山の入山許可をもらい、セフングという20歳の通訳が紹介され、ビソケ山中のゴリラ探索準備は思ったより早く整った。

 1970年8月15日、マンガン氏(彼は日本の車の販売代理店になりたがっていた)の車マツダ1200の新車を借りて、セフングと2人で、早朝5時にルヘンゲリの町を出発した。ビソケ山の山麓ブショコロの村に着いたのは6時前だった。この村で若くて力の強そうなポーターを2人雇い、ゴリラ捜索隊を編成した。ポーター兼ガイドになったガシグワもブツルも裸足で蛮刀を持っていた。荷物はカメラ3台とテープレコーダーと食料だけ。夜はブショコロの民家に泊めてもらうことにした。

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ブジョコロ村の子供たち

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ブジョコロ村の女性

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大きなのこで製材する村人

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ブジョコロ村の男が飼っていたサル

 ポーター達はビソケ山にゴリラが棲んでいることは知っていたが、山のどこにいるのか知らなかった。ゴリラは高地のセロリやゴボウ、低地のタケノコや木の実などを食べる時期によってかなり移動する。人間で言えば遊牧民のようなものである。それでまずポーターたちがいう南山麓のいそうな場所から歩いてみることになった。

 ブショコロは1960年頃までジャングルで、ゴリラの棲息地であったが、今は開拓されて、タバコ畑が山麓まで続いていた。この地方は僅か10年間で人口が2倍になったそうで、開拓は大きなビソケ山の上へ上へと延びている。そのためゴリラも、上へ上へと追いあげられ、あと10年もするとゴリラの棲める所は、ごく僅かな地域を残すだけになるかもしれない。

 今から7、8年前には、ここを開拓している人々の近くで、ゴリラが働いている人間を不思議そうに眺めていたそうだ。家の近くまでやって来て、人間が作った作物を獲って喰ったり、畑をのし歩いたりしていたそうだ。中には人間になれて、いつも家の近くに棲んでいたゴリラもいたとのことだが、人間が多くなり、ヨーロッパやアメリカからゴリラを見に来る人々に恐れをなしたのか、密猟にあったのか、今はもう家の近くではめったに見られないそうだ。

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ブジョコロ村

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遠くに見えるのがビゾケ山

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大角の牛

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登る途中に見かけた花

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草陰にいる小さな動物キョン

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山の中に作られたミツバチの養蜂場

 我々はブッシュの中の小道を登った。雌ダケのような細い竹の林を抜けて、尾根をいくつも越えた。ゴリラの巣やフンは沢山見かけたが、いずれも古かった。我々は国境を越してコンゴ側で象やヒヒを見かけたが、ゴリラを見ることはできなかった。

 12時すぎ、ビソケ山中腹の湖のある所に登った。この辺はまるで象の便所のような所で、馬糞の10倍ほどもある糞がいたるところに落ちていて、草木が嵐のあとのように荒らされていた。やがてガスが出て、小雨が降り始めた。

「あれゴリラではないか!」

 湖の上の方で黒い熊のような動物が草ムラで一匹動いているのが見えた。ガスではっきり見えなかったが、確かにゴリラだった。

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ビソケ山中腹の湖

「もっと登ろう、あれは確かにゴリラだ」

 ポーター達をけしかけて急いで登った。そしてゴリラがいたと思われる近くの大木の傍に立った。雨がかなり降ってカメラがぬれた。

「確かこの辺だったかな?」

 カメラを胸にかかえて彼らに尋ねてみたが、正確な答えはなかった。

 ウォー、ウォー、ウォー・・・

 突然、大木に垂れ下がっていた蔓草が目の前で激しく揺すられた。その直後、蔓草の後から大きなゴリラが6、7メートルほど前にグワーと出てきて立ち止まり、胸をドンドン叩いて、ウォー、ウォーと大きな牙を出して咆哮した。斜面の上に立っていたので2メートルほどもある大ゴリラが覆いかぶさるように感じられた。

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ゴリラがいそうな山中

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登る途中に出会った青年に案内してもらう

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背の高い草地を登る

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大きなゴリラがこの木の蔓の陰にいた。

 私は、恐いという感じも、写真を撮ろうという気持ちもなく、ただゴリラを見詰めていた。こちらの様子を窺がっていたのか、10秒ほどしてから、ゴリラは4つん這いになって、山の上の方に這って行った。その時になって初めてカメラを持っていることに気付き、ピントもあわさずシャッターを押した。

「ゴ、ゴリラだ!」

 3人は私の声を聞いて立ち上ったが、ゴリラはもう背の高い草の中に入って行った。

  確かにゴリラを見た。胸を鈍いポコン、ポコンというような音をたてて叩き、咆哮する大きな野生のゴリラを見た。しかし一分足らずの観察ではまだ何にも分からない。それに写真撮影を失敗した。だが、今日はもう遅いし雨がやってきたので、これ以上追わないことにして下山した。

 その夜はブショコロの或る民家に泊めてもらった。タバコ畑の中にポツリ、ポツリとある民家はみな小さく素朴なものだった。この辺の家はカヤ葺き屋根の円錐型で、土と木とカヤで作られていた。

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建築中の家

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ブジョコロ村で私が泊まった家

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ブジョコロ村まで乗りつけた車の前でポータと筆者 後ろに見えるのはビソケ山

キリマンジャロの登山②(1970年7月)タンザニア

岩と氷と寒風の世界

 私は、又寝入ることができなかった。疲れきっているし、睡魔に取り付かれているはずなのに寝入ることが出来ない。頂上の酸素量は地上の僅か45%しかないし、気圧の低いせいかもしれないが、まるで頭の中が空っぽのようだ。自己催眠を掛けて全神経を一点に集中させると、細胞の一つずつが疲れている肉体は簡単に活動を停止する。

 午前1時半、フレシがランプを手にして起こしにきた。彼がノックする前に足音をちゃんと聞き知っていた。肉体の細胞は活動を停止していたのだが、脳の神経細胞は興奮状態で覚め続けていたので、重い頭痛がして起き上がるのが苦痛だった。

 寒さに緊張しながらも、起き上がってすぐに身支度をし、軍手を2枚重ね、その上に大きな皮手袋をして出発の準備をした。そして、フレシと2人で、午前2時に予定どおり小屋を出た。ポーターたちはここから上にはもう登らない。彼らは、私たちが帰ってくるのをここで待つのである。

 山の上のほうは曇って何も見えなかった。小屋のすぐ上から石ころと砂地が続いた。体が冷えていることもあり登りづらかった。

「ワアー」

 暗い頂上の方に向かって大声で叫ぶと、前を行くフレシが驚いて振り返った。

「ヨーシ、登るぞ!」

 目本語で叫び、気合を入れた。手にしている懐中電灯に照らされる足元以外は、暗くて何も見えず、寒さと頭痛で気がめいっていたので、自分自身を励ますためであった。そして、3回大きく深呼吸して足を前に進めた。

 やがて積雪地帯にさしかかる。風が強いので、雪は砂に絡まりついていた。ストックで突いてみると砂は凍結していた。足元では粉雪が風に舞うように散っていた。一メートル先を行くフレシの靴のかかとを見ながらゆっくり登る。

 歩けども歩けども砂と石ころばかりだ。何より斜面をジグザグに登って行くのは辛い。呼吸と歩数を合わせようと、1歩ごとに2回呼吸をする。酸素量が少ないので多量に空気を吸い込まなければならない。呼吸の回数を多くすれば頭痛は確かに少し和らぐ。しかし、疲れる。楽しいとか、面白いとか、生きがいを感ずるとか、充実感があるとか、そんなことは少しも感じられない。ただ苦しいだけ。

 迷いながら登っているうちに、少し強く息を吸い込むと鼻腔がピタリとくっ付くのには驚かされた。そのたびに急いで鼻に息を送った。これはえらいことになった、鼻の穴がくつ付いてしまったら死ぬかもしれない。そう思ったので息を口で吸って、暖かい空気を鼻に送り出した。

 顔、特に唇と鼻先には日焼け止めクリームをこってり塗りつけていた。鼻汁が出るので手袋でふき取ると、鼻から10センチも離れると白く凍りついた。直接風に触れる顔があまりにも寒いのと、鼻腔が凍りつくのでタオルでマスクすると、吐息のかかるところが、息と息との間に凍りつくので呼吸がし辛かった。

 頭が痛い、疲れた、眠りたい、休みたい、寒い・・・。

 頂上近くまで来て、フレシが高山病になってダウンした。休息すると寒くてかなわないので、少々辛いが動いているほうが良かった。フレシはかなり激しく頭痛がするらしく立ち上がっては休んでいた。彼に歩調をあわせていると体が冷えるので先に登ることにした。

 しかし、私には登るルートが分からなかった。人跡は強風に消されていたが、迷っていられないので、誰かが通った形跡のあるところを慎重に手探りで登った。凍てついた岩をつかむ皮手袋の手先が千切れるほど痛い。手先を何とか暖めないと、凍傷にかかるかもしれない。しかし、どうすることも出来なかった。

 もう太陽が昇り始めたのか、東の雲間が少し明るくなった。ふと見返すと、昨日見たマウェンジの頂上よりも高い所にいた。もう5,950メートルくらいだろう。ずっと下のほうに第3ヒュッテが豆粒のように見える。第一火口の砂地が悪魔の口のように黒く広がっている。

 頂上近くは火山岩だった。足を踏みはずしたら大変なことになる。なるべく下を見ないようにして、まるでヤモリのように両手両足で岩肌を這い上がった。

 頂上に数メートルまで近づいて、初めて、6,000メートルと言う山の高さの厳しさを知らされた。富士山より高い山の経験がなかったとは言え、本やテレビではかなりの知識があった。しかし、本の中で表現されている山も、テレビの画像になった山も、本当の厳しさを教えてくれてはいなかった。知っていた高い山の厳しさは、頭の中で想像された厳しさで、フラスコの中のピラニアでしかなかった。

 標高6,007メートルの頂上はもうすぐだ。しかし、3日間も眠れていないので、思考力は散漫で、何を考え、何をしているのか、何処にいるのかすらもはっきりしていない。

 岩と氷の凍てついた稜線を、上を見つめながら這い上がる。そして、赤と白の凍りついた旗を頭上に見た。ふと、右前方を見ると、キボで有名な幾何学的な階段状になった氷が、青白く、宝石のように美しく輝いていた。雪が何百年も積もり積もって出来た氷河が、風によって削り取られたのか、階段状になった氷の造形物は、世界でも珍しい自然現象。それは、キリマンジャロの頂上でしか見られない、雪と氷の織り成す自然美なのだ。

 第2火口の外輪にあるギルマス.ポイントまで後1メートル。赤と白の粉雪にまみれた旗がもう手に届く。右前方の眼下には、火口の岩と氷と雪の世界が広がっている。

 腕時計を見ると、7時20分を指していた。耳元に時計を当てたが、コチコチと言う聞き慣れた音は、キリマンジャロの叫びのような、鋭い破風の音にかき消されて聞き取れなかった。零下30度くらい。いやもっと低いかもしれないが、秒針は確かに動いていた。

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頂上近くになって高山病になって座り込んだフレシ

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頂上近くに座って夜明けを迎えたガイドのフレシ

  下を見ると、フレシが苦しそうに必死に這い上がっている。ガイドである彼は、キボホテルが発行する登頂証明書にサインをしなければならない。フレシは、私の登頂成功を証明しなければならないのだ。

 最後の岩場を全身の力を振り絞って這い上がった。そして、そこに立っていた白いポールを握り締めた。長い間の興奮状態から冷め、全身の力が干潮のように抜けていくのを感じた。 

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頂上近くの岩と雪

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キリマンジャロの第二火口の中

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頂上のギルマス.ポイントに立つ紅白の旗

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ギルマス.ポイントから見た第二火口の中

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厚く積もった火口の中の雪

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キリマンジャロのキボ火口にある階段状の雪景

 体がだんだん冷え、まつ毛が白く凍リ、キリマンジャロの白い雪肌を感じている私の上にはもう何もなかった。ただ、突き抜けるような青い空だけが広がっていた。

「おう!神様」

 雲間に昇った太陽の光が、凍てついた顔の肌に降り注ぐ暖かさに、神の慈悲を感じて思わず叫んだ。7月21日の早朝、いるはずのない私がキリマンジャロの峰の岩の上に座して両の手を合わせ、あふれる涙にかすむ太陽の輝きに、生きている暖かさを感じて「おう!神様」と何度もつぶやいた。

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頂上近くにあった強風にあおられた雪

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頂上に達した私を確かめて、砂走りを下山するフレシ

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頂上から下山中に見た第一火口

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下山中に標高5,000メートル近くから見下ろした雲海

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ギルマス.ポイントで朝日を浴びて座る筆者、フレシ撮影

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1977(昭和52)年に出版した拙著

キリマンジャロの登山①(1970年7月)タンザニア

第2のホロンボ・ヒュッテから

 キリマンジャロと最初に出会ったのは高校2年生の時、アメリカの小説家、アーネスト・ヘミングウェイの短編、『キリマンジャロの雪』の日本語翻訳本を読んだ時だった。それ以来、キリマンジャロの頂上に立つことを夢想するようになった。

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タンザニア側から見たキリマンジャロ

 そして、それから十数年後の1970年7月に、私はキリマンジャロの標高約3,800メートルにある第2のホロンボ・ヒュッテにいた。

 7月19日午前7時にポーター兼ガイドのフレシが起こしにやってきた。頭が何か重いもので圧迫されているようで、どうにも寝つかれなかった。呼吸がせわしく、脈拍が少し早かった。

 高山に登ると気圧が下り、酸素量が少なくなることなどで体質的に眠れない人と、すぐに眠れる人がいるそうだが、私は眠れない方なのである。それは、体質的に高地に上がっても、酸素を取り込む働きをする血液中のヘモグロビンの量がすぐに増える人と、増えにくい人がいるが、私は、どちらかと言えば、増えにくい方で、適応するには3~5日もかかる方である。

 一昨夜は標高2,743メートル、第1マンダラ・ヒュッテに泊まった。16キロのジャングルの道はとてもゆるやかで登りやすい。ここまではランドローバ(四輪駆動車)で登れるそうだ。

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第一のマンダラヒュッテでの筆者

 昨日は第2ヒュッテまで17キロ、灌木と草原の中を登った。珍しいサボテンのような木や、美しいドライフラワーが目を惹いたが、息が苦しく、頭痛がして時々休んだ。しかし道は急ではなく登りやすかった。

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第二のホロンボヒュッテまでに見たドライフラワーと木のような草

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見えている第二ヒュッテに向かって登る

 荷物や食料は全部ポーターが運んでくれるので、私はカメラ2台を肩にかけるだけでよかった。ガイドとコック、それに2人もポーターが同行しているので、食事はふもとのホテルと殆ど同じである。キリマンジャロ登山はもう観光化され、子供でも女性でもサラリーマンでも登れるような、いってみれば登山旅行である。

 しかし、なんと言っても高山なので、たとえ赤道直下といえども寒さと酸素不足(頂上は45%)には悩まされる。

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標高3,800メートルの第二ホロンボヒュッテ

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第二ホロンボヒュッテで料理をしているガイドのフレシ

 コーヒーとオムレツにバター付きのパン・バナナ2本。こんな朝食をすませて、午前8時に第2ヒュッテを出発した。灌木の間には霜がおりて白くなっていた。

 まもなく最後の水汲み場に着いた。ここから1,8リットル缶に水を入れて、第3ヒュッテまで運ぶのである。

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第二のホロンボヒュッテを出発して登るポーターたち

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最後の水場で水をくむポーター

 道は急ではなく登りやすい。左手に大きな岩の絶壁が続いていた。大きなうねを登り切ると視野が開け、雲をかぶったキリマンャロが見えた。ここからは岩と砂の道である。サイの河原とはこんなところだろうか。植物の生えてない大地を歩いた。もう標高5,000メートルなのだ。息がとっても苦しい。

 ふと振り返ると、紺碧の空に褐色のとがった岩山、マウエンジ山(5,138メートル)がそびえていた。一瞬頭痛を忘れていた。

 マウエンジ山をながめながら、サンドイッチと紅茶(ポーターが携帯していた)の昼食をとり、1時間休息してまた登り始めた。

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標高4,500メートル近くから見上げたマウエンジ山

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標高5,000メートルのキリマンジャロ第一火口から見たマウエンジ山(5,138メートル)

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木が生えてなく、草もほとんど見られない殺伐とした広い第一火口の中

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第一火口の中を進むポーターたち 遠くに見えるのはキボの麓

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第一火口の中にあった火山岩

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第三ヒュッテ近くから雲に隠れたキボ(6,007メートル)を望む

 海抜4,736メートルの第3の山小屋キボに、午後3時に着いた。濃霧がたち込め、とても寒かった。そのせいかもう薄暗かった。頭痛がし、疲労を覚えたが、ポーターたちのいる小屋に行った。彼らは水と木を頭の上に載せて運んで来ていた。ここまで登ると木も水もない岩と砂だけだ。彼らは三角屋根の小屋の中で火をたき、紅茶をわかした。小屋の中は暖かかったが、煙がひどく目にしみた。

 ポーターたちは皆チャガ族でチャガ語をしゃべった。でも英語も話したので言葉は通じた。

 「アシェリ、君はもう何回くらい登っているんだ」

 「さあ、何回になるかな、初めて登って以来、もう10年にもなるが、ひと月に2回くらいは登っているよ」

 アシェリの服装は古い毛糸のセーターとスーツに長ズボンだけ。足は靴下をはかずにビニール製の普通の靴をはいていた。この寒さをどうして耐えられるのか不思議だ。

 彼らは土の上に枯草を敷いて、毛布を一枚かぶって寝るのだった。肌が黒いので寒そうには見えないが、頭痛でもするのか顔をしかめて私を見ていた。彼が私の荷物を頭の上に載せてここまで運んで来た。

 「いくらもらう」

 「1回登ればホテルから45シリング(2,250円)もらえるよ」

 彼にとっては唯一の現金収入である。29歳の彼には妻と2人の子供があった。

 「キリマンジャロに登るのは何月がいいのだ」

 「風が吹かず、雲のかかってない点からすると8月だな。12月から1月に登ると、今よりもっと暖かいし、雪もないので登るには都合がいいな」

 私とアシェリが話していると私のガイドでもあるコックのフレシが私に尋ねた。

 「何か食べますか」

 「もう夕食かね」

 「ええ、早く食べて寝た方がいいですよ、明朝2時には頂上に向かって出発しますから」

 フレシは私のためにオートミールとビスケット、缶詰の洋梨を出してくれた。しかし、オートミールを半分も入れると、胃が物を受け付けなくなってやめた。

 「あまり食べない方がいいですよ、ここは高地だから吐きますよ、一度吐き始めると血まで吐くようになりますから気を付けて下さい」

 私は、食事の後、すぐベッドに、マットレスを敷いてもらって寝袋の中に潜り込んだ。火の気がないので寒い。衣類は全部まとっているのだが、それでも暖かくはならなかった。

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第一火口でマウエンジ山を背にした筆者

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1977(昭和52)年に出版した拙著